兵助の存在をこれでもかというほど脳に刻み込まれた翌朝、目が覚めてから暫くぼうっとし、きっとあれは悪い夢だったのだと自分に言い聞かせ寝衣から着替える。
くのたまも忍たま同様に基本的には二人部屋であるが、現在六年生はおらず最高学年は五年生。しかもそれが三人しかいないとなると必然的に一人部屋になる。
布団を押し入れにしまい、欠伸をひとつ。一人で使うには広い部屋では気の抜けた声がやけに大きく聞こえた。

「紅葉ちゃん起きてるかな…」

「水瀬なら朝の鍛練でとっくの昔に出て行ったぞ」

「あ、そうなんです?ありが、……」

「おはよう雛姫」

「な、ななな…!」

襖を開けたところで独り言に返事が。
ばっと横を見るとさも当たり前のように爽やかに笑う兵助がいた。やはり昨日の出来事は夢ではなかったようだ。

「ここはくのたま長屋ですよ!?何で…というかどうやって!」

「親切なくのたまが罠の場所をこと細かに教えてくれてな」

「親切なくのたまって……」

いくら優秀な兵助とはいえ作法委員会の部屋以上に罠の仕掛けられたくのたま長屋に入れば一たまりもないだろう。
しかし内通者に詳細を伝えられていたなら兵助が罠を解除して雛姫の部屋にやってくるなど容易な事だ。
そして残念な事にその内通者の顔が脳裏を過ぎる。ことごとく雛姫を兵助に売る親友の顔が。

「紅葉ちゃん…!」

「良い奴だよな」

「はぁ……それで、何か用ですか?」

「朝の挨拶に」

「それだけの為に、ですか…?」

「好きな人には一番におはようって言いたいだろ?」

「す!?…あ、あなたって人は朝からそういう…!」

「ん?」

己の発言を理解してるのかしてないのか、とにもかくにも掴みどころのない兵助に雛姫は調子を狂わせられっぱなしだ。
人前も何も関係なしに求婚してきたり、こんな恥ずかしい台詞をさらりと言っても絵になるのもまた憎たらしい。

「と、とりあえず長屋から出てください!」

男子禁制のくのたま長屋に兵助がいる事がばれては二人揃って罰則を受けてしまう。
兵助と恋仲であって、逢瀬している所を罰せられるならまだしもこんな一方的に迫られているところを見つかって叱られるなど真っ平ごめんだ。

「そんな大声出したら見つかるぞ?」

「誰のせいだと…」

頬を引き攣らせながら言い、取りあえず兵助を誰かに引き取ってもらうべく忍たま長屋の方へと歩き出した。
道中、相変わらず好きだの結婚してくれだのの言葉に茹蛸状態になりながらも唇を噛み締めながら耐えるが、やはり昨日と同じような忍たま達からの同情、興味、驚愕の視線は雛姫に思わず涙を流させてしまいそうになる。

「なぁ雛姫、本当に好きなんだ」

「そんな事言われても…困るんです」

「じゃあどうしたら好きになってくれるんだ?」

「どうしたらって…」

「あ、久々知先輩に高屋敷先輩。おはようございます」

ほとほと困り果てていた雛姫の前に現れたのは池田三郎次だった。
兵助の委員会の後輩で捻くれているが常識人。この際年下とかそんな事は関係ない。とにかく兵助から距離を置きたかった雛姫は三郎次に彼を託す事にした。

「三郎次くん。お願いを一つ聞いてくれませんか?」

「は?高屋敷先輩がお願い?」

「はい。これは三郎次くんにしかできない事です」

基本的にくのたまに良い感情を持っていない三郎次だが、下級生にも丁寧で優しい雛姫に対しての好感度は高い。
それに三郎次も可愛くて優しい先輩のお願いを蔑ろにできるほど禁欲的ではない。(故にくのたまに騙されるのだが。)

「僕にできる事なら構いませんけど…」

「ありがとうございます。それじゃあ久々知くんを雷蔵くんか竹谷くんに渡してきてください。私からと言えばわかってくれるはずです」

渡すまで絶対に手を離さないでくださいね。と追加して兵助と三郎次の手を繋がせた。
そのまま来た道を走りながら戻っていく雛姫を追いかけようと兵助は足を踏み出したが、思いの外強い力で握られている手が外れない。

「三郎次…」

「あまり迷惑かけたら嫌われますよ?」

「はは、嫌われるくらい別に構わないよ」

「何で、ですか…?」

遠目に見ても執拗なくらい雛姫に迫っている姿が確認できたものだから、兵助にとって何より恐れる事は雛姫に嫌われる事だと思っていた。
しかし別に構わないなどという、だけど決して強がりの発言でもない本音を聞いて、なぜそんな事が言えるのか三郎次には理解できなかった。

「俺にとって一番辛いのは信じてもらえない事だから」

「は、はぁ」

「それに、何かしらの感情を受けてる内は望みはあるしな」

嫌われても憎まれても、まだ意識はこちらに向いている。
そんな感情すらなく無関心になられる事の方が遥かに恐ろしいというものだ。

「何より、雛姫は優しいから。ただこうやって追いかけてる事だけで俺を嫌いにはならないよ。地雷を避けていれば何も問題ないんだ」

雛姫が兵助を嫌う時、それはきっと自分以外の何かを傷つけられた時や必要以上の干渉を受けた時であろう。
何が雛姫の琴線に触れる事かを理解していればそうそう簡単に嫌われる事はないのだ。

「(やっぱりこの人は『い組』だ)」

い組に在籍する者はだいたい冷静で時に狡猾さを持ち合わす頭脳派だ。
別にろ組やは組を感情的だとかアホだとかいうつもりはないが(いや、は組はアホだ)やはりい組は殊に理性的なのだ。
兵助は明晰で文武両道と噂されていてもテストの結果を見せてもらう事などないし、二年生と五年生が実習で一緒になる事もない。あげく委員会ではにこやかだがいまいち表情がわからない、それでも優しい先輩であって且つ豆腐が絡めばすぐに暴走する。
つまり久々知兵助に対して三郎次はい組らしさを感じていなかった。しかし先程の話により彼が紛れもなくい組の人間という確信を持ったのだ。

「先輩はズルい人ですね」

「そうかもな」

にっこり。
そんな効果音が聞こえてきそうな人当たりの良い笑顔を見せる兵助はやはり『い組』だ。