ねぇ神様、ここはどこ



魎が17年間過ごした人生はいとも簡単に終焉を迎えました。
友人は悲しみ、教師達は虚無感に追われ、家族は絶望を味わいました。
それでも、前を向いて魎の分も生きています。
笑っています。
悲しいけれど、魎がきっと心配するから頑張ろう。何十回も何百回も皆で言い聞かせました。


17年間が0に戻って、また17年間。
止まっているのは魎だけ。


愛されていたのに。
神様も可愛がっていたのに。
あの酔っ払った大学生ドライバーがハンドルを切りすぎなければ…?

神様は可愛い子供を別の世界へ魂を送り、体を与えました。
最初から、やり直してみるといい。

ただ、神様は忙しいから世界を選ぶ余裕は無かったのです。


あの世界で紙の媒体で存在していたこの世界は、魎がこちらで17年過ごしている間に始まりました。


だから知らない。
あちらの世界が17年間でどのように変化しているのかなんて、想像もつきません。


「お前は"どっぐ"だよ」


犬を見て魎は笑う。
消えかかる昔の記憶は、細い絹糸のように魎の脳に繋ぎとめられていた。

だからこそ魎の時間は進まない。


「よう、魎。調子はどうだい?」

「おお鯉さんか。ぼちぼちだよ」


犬から視線を上げると鯉伴が煙管をくるくる回して笑っていた。
失敗した葛餅を犬にやって、魎は鯉伴を席へ案内する。


「…今日は崩れそうだなぁ」

「え、ああ…本当だ。こりゃ一雨来るなぁ」


店に入る前に空を見上げて、厚い雲を眺める2人。
魎の目には闇が一層濃くなったようにしか見えないけれど。


「空だって泣きたい時ぐらいあるだろうね」

「お前の表現は時々面白くて不思議だな」

「そう?あ、鯉さん。俺さ、今朝方作った苺大福が中々評判よくって…良かったら食ってみてよ」

「そいつぁ楽しみだ」


初めて2人が出会ったのも、こんなどんよりとした空の下だった。
重なり合う雲がまるで手を伸ばしているように見えて、このままずっと座っていたら連れ去ってくれるんじゃないかと魎は空と同じどんよりとした心で思った。


「……調子はどうだい?」


軽い金属音がした。
割れた皿に銭が二枚落とされる。

番傘を片手に持った鯉伴は魎を上から下まで眺めて、向かい合うようにしゃがんだ。
皿の中には今鯉伴が入れた2枚の銭しか入っていなかった。


「…ぼちぼちだよ」


2枚もあるんだから、と魎は表情なく言う。
本人は笑ったつもりだったが表情筋が死んでいた。


「そうかい、なら良かった。…ここで店を構えて長ぇのかい?」

「……いつからなんて、覚えてないよ。たぶん、これぐらい」


両手を開いて、指の数を眼前に見せれば鯉伴は「そうかい」と再び頷いた。
人口増加に加えて庶民の活気が勢いを見せた江戸だったが、やはりどこにも流れに乗れずにあぶれた者はいる。

それが子供だろうと女だろうと、老人だろうと、珍しいことではない。


「雨が降りそうだが…今日はもう閉めるか?」

「?」

「もし暇だったら団子でもどうだい、近くのあそこで…うめぇぞ?」


ただ鯉伴は許せなかった。
自分が守るこの江戸で、守られずにいる子供がいることが情けなかった。
全ての人間を守れるわけではない。
だが自分の見える範囲ぐらいなら、出来ることがあれば何でもする。

見つけてしまったこの子供を、助けたいと思った。


「………上客が来た」

「…っはは!面白い店主だな。名は?俺は鯉伴、鯉の字にともなうの伴だ。まぁ鯉さんとでも呼べや?」

「あ………魎…?」

「なんで自分の名前に疑問持つんだよ…まぁ良い、魎だな?行くぞ」


光の無い、闇のような瞳。
闇のように明かりの燈らない表情。


人間なのに、子供の癖に、…闇に呑まれていやがる。


光を見せたかった。
江戸の華やかさを、明るさを知ってもらいたかった。

一日でも早く、この子供の目に光が差し込むことを願った。


「――…鯉さん、どうだい?うまいだろう!」

「おお、こいつぁ良い大福だ。何個でもいけらぁ」

「へへっ、女将さん!旦那さん!鯉さんに褒められましたよー!!」

「良かったじゃないか、魎!頑張ったかいがあったねぇ」

「はいっ!」

「俺が教えたんだから当たり前だろうが!!」

「うわっすいません!」


笑う魎には、あの闇は無い。
たまに戻るが、きっとそれもいつか無くなる。

苦しく、悲しい過去があるんだろう。
だからあんな妄言をつくのだ。
今の幸せな時間を、大切にしてくれればそれで良い。


「魎、こいつはまだあるのかい?」

「あるよ!少し待ってておくれよ、すぐに取ってくる!」

「頼んだぜ」


慌てて奥にひっこむ魎をチラチラ見る娘がいる。
ほら、幸せなんて手を伸ばせばどこにでもあるんだぞ?

鯉伴は息子を見るような気持ちで、魎の未来を案じていた。
そしてぽつりぽつりと、空が泣き始めた。

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