目を閉じたあなたに口付けを 狒狒の墓の前に陣取ると、あいつの気に入っていた酒を片手に月を仰ぐ。 少し離れたところから視線を感じた。きっと猩影だろう。 そんなに心配しなくても、お前の父親と違って暴れたり喚いたりしないのに。 「思い出したぞクソ猿。ったく逃げやがって薄情な奴め」 皮肉を織り交ぜて、土の上に置かれた盃に酒を注いだ。 恨みなんてない。 あるのは不甲斐なさと後悔ばかり。 心配ばかりかけてしまった。 「猩影、お前よりも美形だよな。良い嫁さん手に入れてたみたいで安心したよ」 驚きはしたものの、怒りは沸かなかった。 自分のことで手一杯になられて他がおろそかになるよりも、狒狒なりに楽しく過ごしてくれていたのであればそれで良い。 「……ごめんな」 ずっと言わなければならなかった言葉は、もう届かない。 あれだけ狒狒が自分に教えてくれていたというのに、狒狒の言葉が届いていなかった自分に対する罰なのかもしれない。 そう思うと、実にやるせない。 「…ごめん、ごめんな……」 自分でも何故記憶がおかしくなってしまったのかわからない。 だからこそ、狒狒が自分から離れてくれて良かった。 一緒にいなかったことで、狒狒の辛そうな顔を見なくてすんだ。 謝りながら酒を飲む魎の姿を見て、猩影は思わず自分の胸元を掴む。 なんだか胸が痛い。 手紙を読みながら魎の泣く姿を見た時も、痛かった。 静かに嗚咽さえ漏らさずただ涙を流していた。 大人の泣き方だ。 「どうして」とも「ちくしょう」とも言わず、無言で雫を落とした後に彼は「狒狒は今どこにいる?」と聞いてきた。 屋敷に連れて行くと母が出迎え、墓に案内させた。 母と魎は顔を知っていたようだ。 二人の「久しぶり」という挨拶がやけに悲しく聞こえた。 「――…魎様は、ずっと時間が止まっていたのよ」 体だけでなく、心も。と言った母の言葉の意味は最初わからなかったが、話を聞くうちに理解した。 そして、愕然とする。 誰よりも父の近いところにいたはずの魎の記憶の障害。 父は何を思いながら日々筆を取っていたのだろうか。 「お前のことは、忘れねぇ」 土に置かれたままの盃に魎は自分の盃をカツンとぶつけた。 狒狒との最後の約束だった。 破るはずが、破れるはずが、ない。 ―――……とまぁ、色々書いたが少しは思い出せたか? いつも手紙をどうするように頼んでいたか、覚えているか? 覚えているなら、好きにしろ。 覚えていないなら明日また読み返して時間を潰せば良い。 最後の頼みだ。 どうかわしのことは忘れてくれるな。 長い間、独りにさせてすまなかった。……――― そう締めくくられた手紙は、魎の懐にある。 独りなんかじゃなかった。 いつも届けに来ていたじゃないか。 「……最後に会えて、良かった」 手紙が届かなくなった日々の少し前。 なぜか寝付けない夜に、水でも飲もうと寝床から出ると懐かしい気配がした。 「……狒狒か?」 「なんじゃ、起きておったか…」 「なんだよ、人の寝顔でも見に来たのか?またどっか行く気かよ」 「……おー。もう行かねぇと」 「…そっか。早く帰って来いよ、味噌汁作って待っててやっから」 呆れた自分に、狒狒は笑みを見せる。 ぐしゃぐしゃと髪を撫でられ、「何すんだよ!」睨みつけると唇に軽い感触がした。 最初で最後の、起きている魎との口付けだった。 「魎、お前も早く帰って来い」 「………は?」 「お前の味噌汁が恋しくてたまらんのじゃ」 それだけ残して、狒狒は出て行った。 あの後は意味が分からないと憤慨して、興奮して、結局空が白んでくるまで酒を飲んだ。 あの時に思い出していれば、と後悔がないわけではない。 でも時間は流れ始めたのだ。 最後の別れを思い出して、魎は小さく笑う。 「……食ってたくせによ」 作り置いていた鍋の量が減っているなんてざらにあった。 不思議に思わなかった自分が不思議だ。 「……ごめんな…」 誰も何も悪く無い。 ただ時間だけが残酷に過ぎていた。 [*前] | [次#] 【戻る】 |