「…嬢…お嬢、リョウお嬢様。朝ですよ」
「……ん〜…」
「最初に起こした時から15分たちましたよ、朝餉の支度は整っています」
「ん……わかった…ありがとう紀乃っぺ」


布団を惜しむように一度頭まで潜り込んで、ようやく冬眠から覚めた動物のようにのそのそと出てきた。
てきぱきと毛倡妓がリョウの身支度を正して、櫛で髪を梳いていく。
色素の薄い髪はリクオと同じであるが、リクオよりも柔らかい。


少しウェーブがかかっているのは二代目からの遺伝かしらね。


触り心地の良い髪を撫で付けて毛倡妓はにっこりと笑った。
鯉伴が使っていた「紀乃っぺ」というあだ名も、他の人から呼ばれると虫唾が走るのだがリョウからだと何故か嬉しく感じる。
ぬらりひょんから若菜まで、それぞれの優れた点を判別して生まれてきたかのように美しく気高く、親しみやすい。


「今日のご予定は?」
「あったけど断っちゃった…ふぁぁ、眠い…」
「あら、お珍しい」
「たまにはね…」


一人になりたいの、と小さく苦笑するリョウはいささか疲れているようだった。
今日は休日。
普段のリョウであれば朝から街に出て遊び倒しているはずだった。


「朝帰りするからですよー?」
「だって、せっかく誘ってくれたんだもん」
「リクオ様が大変心配しておられました」
「あちゃー…あとで頭撫でてあげよっと」


今日の日が昇る頃に帰宅したリョウは烏天狗の問いただす声も無視して布団に入った。
祝前日などにリョウが朝帰りをすることも珍しいことではないが、「嫁入り前の娘が云々…」という烏天狗の悩みの種である。


「はい、出来ました!今日もお美しくございますよ」
「ありがとう。でも私、紀乃っぺの髪の方が好き」
「まぁ、そんな嬉しいことを…っ!」


顔を綻ばせる毛倡妓にリョウは笑いかけて、立ち上がった。

部屋を出ると、隣のリクオの部屋との間に小さな金魚鉢が置かれてある。
小さな金魚はひらひらと赤い尻尾を揺らして、主の起床を喜んでいるようだった。


「おはよ、むーたん。エサ貰った?」
「リクオ様が1時間前に差し上げてましたよ」
「そっか、良かったねぇ」


トントン、と指で叩くと長い爪がカチカチと鳴った。
ガラス越しに金魚はその指にキスをする。
声をかけるだけの主だが、金魚も心から慕っていた。


「先日おっしゃっていたので、今日はぬるま湯を用意しておきました」
「うん、ちょうどいい温度」
「では私は台所の方に戻りますね」
「はぁい」


洗面台に用意された桶からほのかに湯気が立ち上っている。
手を入れて満足そうに頷くリョウに毛倡妓はホッと胸を撫で下ろした。

居間に戻るとすでに朝食を開始しているぬらりひょんとリクオ。
その他側近達もそれぞれ席についている。


「リクオ様、お嬢が目覚められましたよー」
「あ、ほんと?まったく朝帰りなんて…これで何度目だろう!」
「カカカッ!お前もリョウぐらい遊べば良いんじゃよ。生真面目すぎて面白くないのう」
「僕は立派な"人間"になりたいの!夜遊びなんてしたくもないよ」


ぬるま湯で顔を洗ったリョウはようやく目も冴えたようでパッチリと大きな目を見開いた。
鏡に映る自分をチェックすると少し目が充血していた。
不満気に溜息をついて、やはり今日は予定を断って正解だと思う。

タオルで顔と手を拭いていると、長い爪を彩るペイントが少し剥がれていた。
これまた不満気に溜息をついて、明日の昼間に予約を入れようと新たに今日の予定を考える。


「おはよう、みんな」
「おう、起きたかリョウ」
「おはようリョウちゃん」
『お嬢、おはようございます』


居間に入って微笑むと皆も笑みで返してくれる。
リョウの朝の楽しみの一つ。


「…姉ちゃん、朝帰りなんだって?僕がどれだけ心配したかと思ってるの!?」
「リクオ、むーたんのエサやりありがとね」
「ちょっとは反省しなよ、もう!」
「はいはい、ごめんね?」
「………」


2度頭を撫でるとリクオも口を閉じた。
眉は釣り上がったままだが、何を言ってもムダだと悟ったのだ。


「今日も遊びに行くの?」
「ううん、今日は行かなーい。家でのんびりするよ。リクオも一緒にゴロゴロする?」
「僕は宿題があるの!」
「つまんなーい。じゃあおじいちゃん、一緒にゆっくりしよー?」
「おう、久しぶりに一局打つかい?」
「手加減してくれるならする」


身内だけの会話だったが、リョウが今日1日中家にいるということは瞬時に本家妖怪たちの耳に届いた。

普段家にいない分、世話を焼きたがる妖怪は多い。
リョウの朝の担当は中学を上がってすぐから毛倡妓に固定されているから、タイミングが違えば1ヶ月とリョウの姿を見ることが出来ない妖怪も多数いた。


「総大将、お嬢。あとで拙僧がお茶を持っていきましょう」
「ムッ!?抜け駆けだぞ黒田坊!ならばワシがあとで菓子を買って持って行きましょう」
「2人ともありがとう。待ってるね」
「「…っ!」」


競い合うように奉仕の気持ちを主張する2人も、リョウが微笑むだけで顔を赤くし押し黙る。
リクオは呆れたように見ていた。
じっとリョウを見つめていると、ふと気になることを発見する。


「…姉ちゃん」
「なぁに?」
「いつも思ってたというか、今気づいたんだけど、寝巻きの浴衣がやけにキレイだよね」
「キレイ?」
「僕が起きたらいつもグシャグシャって感じで凄い皺だらけなのに」


リョウの身に着けている浴衣にはピシリ、と洗濯をして畳んだままの線しかついていない。
何が言いたいのか理解したリョウは「ああ」と納得したように味噌汁を飲みながら頷いた。


「だってこの浴衣、いつも朝に着てるもん」
「え?」
「お嬢は寝るとき下着しか身に着けてないですよ?だから朝の担当は私なんです」


毛倡妓が焼き魚を机に出しながら言うと、一気に息の噴出す音があらゆる場所から聞こえた。
ポタポタと雫が机に落ちる。
味噌汁だったりお茶だったり、口に含んでいた液体がだらしなく垂れていた。


「リクオもしてみたら?気持ちいいよ、ほぼ裸で寝るの」
「っするわけないだろ!何考えてんの!?」
「何って…ねぇ?」
「そうですねぇ。私も最初は驚きましたが、もう慣れてしまったし…」


顔を見合わせて不思議そうな顔をする2人。
男妖怪たちの頭の中は、あらぬ妄想でいっぱいになった。


「そうなんだー!私も今度してみようかな?」
「やめてよ母さん!」
「ははははっ!流石はワシの孫!豪胆じゃのう!」
「そういう問題じゃないよじいちゃん!」
「あ、氷麗。お茶のおかわりちょうだい?」
「はい!少し待ってくださいね?」


ポタポタと雫が落ちる。
毛倡妓は溜息をつきながら布巾を何枚も持って男妖怪達に手渡した。


「ほら、鼻血拭いて」
「…すまない」
「ついでにティッシュもくれるとありがたい…」
「…ずるいぞ毛倡妓。なんで教えてくれなかったんだ…」


ずるい、と首無に言われた毛倡妓は呆れたように肩をすくめるだけ。
教えたところで朝の当番が代われるわけでもないのに、と。


「お嬢の肌はそれは綺麗よ」
「…言うな、今は言わんでくれ」
「あとで聞くから…いや、聞かせてくれ、頼む」
「毛倡妓、今度当番代わっておくれよ…」
「バカ言わないの。ほらティッシュ」


勢い良くティッシュを抜き取る黒田坊と青田坊と首無。
毛倡妓は少しだけ優越感に浸る。

――お嬢の無防備な姿を見れるのは私だけよ?

情けない男に生まれなくて良かったと、心から喜んだ。

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