痛い、とリョウは腹を押さえながらわずかに顔を歪めた。
せっかくの休日なのに、なんてタイミングの悪いこと。


「おじいちゃん、朧車貸してくれる?」


ぬらりひょんの部屋の戸を開いたリョウは用件だけ手短に伝えた。
突然のことで面食らうが、可愛い孫の頼みであれば頷かないわけがない。


「そりゃかまわんが…何処に行く気じゃ?」
「鴆兄のところ」


どこか具合が悪いのか、とぬらりひょんは聞き返そうとしたがリョウのピリピリとした雰囲気で何かを察したようだった。


「好きに使うといい。早めに帰って来るんじゃぞ?」
「はぁい、ありがとー」


許可を貰うとすぐさま踵を返す。
リョウが去った後、ぬらりひょんは人知れず困ったような顔になった。


「わかりやすさは年頃の娘の美徳なのかのう…?」


月に一度の一定期間、リョウは特に意味もなく苛立つことがある。
珱姫も具合が悪そうにしていたが、リョウほどではなかった。

良くも悪くもリョウは素直。
ほんの少しの体の不調に気づくと、すぐに行動に現れる。


「無理して笑う必要なんてねぇのになぁ」


ただ優しいから、苛立ちを隠すように貼り付けたような笑みを浮かべていた。
だからこそリョウが口角を上げていても目が笑っていない時は皆が関わりを持たないようにしていた。

このような時にリョウがいち早く頼る存在が、鴆であった。



***



朧車から降りて、重い体を引き摺るように戸口をくぐる。


「鴆兄」


ちょうど新しい薬を煎じていた鴆は額の汗を拭いながらリョウの声に気づいて振り向いた。


「なんだリョウか。どうかしたか?」
「生理痛の薬ちょうだい」
「お前……」


悪びれもせずにリョウが右手を差し出す。
毎月のことだから鴆も慣れてはいるが、毎度こうだと流石に頭を抱えた。


「もうちょっと恥じらいを持て」
「頭痛と腹痛と腰痛によく効く以下略〜」
「…はいはい、ちょっと待ってろよ」


空いていた患者用の椅子に力なく座ったリョウの様子から、今は何を言っても無駄だと気づく。
早足でリョウのために用意している薬箱のもとに向かうと、必要だと思われる薬をいくつか手に取り再び素早くリョウのもとに戻った。


「ほら、薬と水だ」
「ありがとう」


井戸から引いている水道から水をコップに注ぎ、薬と共にリョウに手渡す。
もはや笑顔を作る気力も沸かないリョウは不機嫌そうな顔のまま薬を口に含んだ。

普段は輝かんばかりのオーラを背負っているというのに、今は見る影も無い。

だが、と鴆は思った。
苦しんでいるリョウには悪いが、弱っている姿もまた見ごたえがある。
この姿を見れるのが自分だけだという優越感からか、鴆は内心でほくそ笑んだ。


「毎回毎回…そんなキツイなら人間の薬でも先に飲んどけよ」
「鴆兄のやつの方が早く長く効くんだもん。この味知ったら他のじゃもうダメ」


そりゃあリョウのために煎じてる特別な薬だからだ。

それを知ってか知らずか、リョウはどんなに痛みが強かろうとも鴆のもとにやって来る。完全に兄としてしか見られていない自分の立場に嫌気はさすものの、頼られるのも悪くは無いと思っていた。


「あ、効いてきたかもー…」


近くの机に伏せるようにもたれかかっていたリョウの顔が少し緩む。
頭の鈍痛が軽くなったのを喜ぶように前髪をかきあげ、嬉しそうに目を細めた。

逆に鴆はリョウの手を見て眉をひそめる。


「リョウ…お前まーだそんな爪してんのかよ…」
「えー?可愛くない?」
「俺はあんま好きじゃねぇ」


せっかく細くて綺麗な指をしているのだから、と鴆は続けた。
装飾の少し剥げた爪はリョウの好みにキラキラと可愛らしく光っている。


「デザインは気に入ってるんだよ。本当はもっと長くしたいんだけど学校があるから出来ないんだ」


形だけは学生という身分を守っているため、爪が長すぎてはペンが持ち辛い。
譲歩した結果、長さは平均でデコレーションを盛りに盛り付けた派手な爪が出来上がった。


「自然が一番だろ。似合ってねぇわけじゃないけどよ…」


ただでさえ容貌が目立つのだ。
爪の先まで派手だと、どこか煩く感じてしまう。

女の感性と男の感性は違う。
豪華な装飾は確かに似合うが、もっとシンプルで攻撃的でない爪の方が鴆にとっては好ましかった。


「ふぅん…?」


自分の爪を眺めながら、リョウはちっとも気にしていない様子だ。
そんな時、バタバタと外が騒がしくなる。


「し、失礼致します!急患です!」
「一番街の路地裏で倒れておりました!ただの飲みすぎだと思うんですが…」
「体の震えが止まらないので、お連れ致しました!」

「「………」」


今は夕刻で、この時間に酔いつぶれるとは何事か。
鴆は呆れた様子で患者を一目見た後、リョウに視線を戻した。


「点滴打ちゃ大丈夫だろ。ひとまず奥に運んでくれ。リョウはその間どうする?帰るか?」
「予定は無いから適当に時間つぶしとく。暇すぎたら勝手に帰るから気にしないで」
「わかった。じゃあちょっくら行ってくらぁ」


ひらひらと爪を見せ付けるように手を振るリョウに苦笑を漏らして、鴆は患者と共に奥の処置室へ姿を消した。



***



およそ三十分がたっただろうか。
処置室を出た鴆は急ぎ足で廊下を進んでいた。

本当にただの飲み過ぎだった。
消化不良となった酒を流すために点滴を施せば、後は時間が解決してくれる。

…早めに見つかったのが幸いだな。

遅ければ危険だったかもしれない。
薬師らしいことを考えながら、患者を連れて来た妖怪たちに任せて鴆はリョウのいるであろう部屋に戻った。
リョウの性格から、帰っている確率が高い。
だからこそ焦る。せめてもう一度顔を見ておきたかった。

気持ちを落ち着かせて、たとえ戸を開けたところでリョウがいなくても落ち込まないよう覚悟を決める。
そして扉を開けた瞬間に、鴆はぐっと顔をしかめた。


「なんだぁこの臭い…っ!?」
「除光液」
「は!?」


うまく暇を潰せたリョウは満足気に手を洗っていた。
独特の香りが部屋を包んでいる。
閉めていたはずの窓が開いていることから、一応リョウも気を遣ったらしい。


「どう?」


香りのせいでクラクラする頭を押さえていると、ふいに目の前に小さな手。
強調するように指を開いて爪を見せ付けるリョウは、もう体の不調に悩んでいる様子ではなかった。


「……落としたのか?」
「だって鴆兄が」


ケバケバしかったはずの爪が、淡い桜色に戻っている。
指の合間からリョウのいつもの笑顔が見えて、やはりこっちの方が似合うと思った。


「がっつり盛ってたから取るの大変だったんだよ。コットン沢山使っちゃった、ごめんね?」


ゴミ箱に山のように入っている綿を指差して、リョウが軽く謝罪を口にする。
悪びれていないのはすぐに分かったが、怒る気になどなれなかった。


「じゃあ私帰るね。いつもありがとう、鴆兄」


今日の気分は白だったらしく、新品同様の可愛らしい真っ白なカバンを肩にかけたリョウは颯爽と薬鴆堂を後にした。

取り残された鴆は、思わず顔を抑える。


「…っとに…タチ悪ぃ…」


リョウはあの爪の造形を気に入っていたと言っていた。
それなのに、自分が苦言をていしたためにわざわざ元の爪に戻してしまった。

…俺の、好みじゃないって知ったからか…?

だとしたら、自分の好みに合わせるために?
自分の気を、引くために…?


「期待しちまうじゃねーか…」


鴆は急激に上昇する体温を止めることが出来ず、ただ早鐘を撃つ己の鼓動を聞いていた。



***



朧車の中で自前の爪に戻った指を眺めながら、リョウはふむ、と頷いた。


「しばらくはこれでいっか」


急にやって来た体調不良のせいで、サロンに電話をするのをすっかり忘れていた。
当初の予定であれば新しいデザインに変えるつもりだったが、最近はずっと塗ったままにしていたため爪の健康面から考えると休息も必要だろう。

一週間後に、と今度は予約を忘れないよう携帯電話のスケジュール帳に予定を書き込みながら、次のデザインはどんなのが良いか鼻歌交じりに考えを巡らせた。

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