とても心地よい風が吹く季節になった。 鼻歌交じりに軽い足取りで魎は江戸をうろつく。 昼前に起きて、夕方になるまではいつも同じ場所に赴く。 「可愛い子ちゃんはいるかなー?」 人通りの多い日本橋。 きょろきょろと物色するように忙しく視線を動かして、ぴたりと止めた。 いた、と唇がにんまり弧を描く。 「良いねぇ、美人だ」 細い体をぴんと伸ばして立つその姿に惚れ惚れする。 なんとも見事な華やかさ。 佇む様子は、圧倒的な存在感と同時に儚さを醸し出していた。 「おやぁ魎さん、また来たのかい?」 「やぁ女将さん。あの子貰ってっても良いかな」 「まったく、毎日毎日飽きないのかねぇ…」 「っへへ、良い趣味してるだろ?」 彼女のいる場所は小料理屋の敷地。 だとすると彼女はこの店のものだ。 だが許可は貰った。 これで堂々と彼女の傍へ行くことができる。 「こんにちは、別嬪さん」 満面の笑みで魎は彼女の腰をひと撫でする。 「俺と一緒に遊びに行こうか」 やんわりと細い腰を掴んで、自分の体に傾ける。 彼女の髪からふわりと良い香りがした。 連れていく場所は人気の無い山の奥。 大切に、傷つけないように、守るように抱き込んで魎は草を掻き分けた。 しばらく進むと少し開けた空間に出る。 狭いが一人ぐらいなら横になれるスペースがあった。 「この季節になると、過ごしやすくて本当に助かるねぇ」 暑い夏も寒い冬も、嫌いではないが動くことが億劫になる。 暖かい春は大好きだったが、やはり秋には負けるのだ。 「寝心地悪いかもしれないけれど我慢してくれよ、お嬢さん」 ゆっくりと寝かせて、魎は顔を上げた。 彼女のすぐ後ろにひっそりと立つ墓石。 秋風が曼珠沙華の花弁を揺らした。 ずっとずうっと昔の話。 何百年も、前の話。 魎が生まれたのは血と肉の飛び交う戦地であった。 「……さて、一杯やりますかな」 真っ白く生まれた魎は、誕生してすぐに他の仲間と同じような血色に染まった。 雨がそれを洗い流しても、すぐにまた降りかかる紅。 何度も何度も何度も何度も浴びせられて、気がつくと真っ黒になっていた。 「そうだ、化粧をしてやろう。白粉はある」 自分から死臭を感じるようになった時には、動けるようになっていた。 ぼんやりとした頭で望むのは、殺戮と快楽。 死に最も近い場所で生まれ、死と共に育った魎にとって、死は生きる糧。 命の潰れる瞬間だけが、自分を満たしていた。 「真っ白な方が綺麗だよ。純粋で、清楚だ」 人を見つけると襲い、妖怪を見つけると挑んだ。 女を見かけると襲い、男を見かけると挑んだ。 欲望のままに生きて、欲望のままに喰らった。 「紅いのは俺だけで十分だよ、ねぇ?…ああ、紅じゃないな。ドス黒いからなぁ俺…」 そうしていると、死と同義であった自分に死が襲ってきた。 ちょっとした油断。 ちょっとした驕り。 傷は深く、雨が打ちつけた。 それまで洗われる事の無かった血が流れる。 他人の血は吸収して、己の血は放出された。 なんともあっけない最後だと、笑いながら空を見上げて目を閉じる。 ――あらぁ、珍しい色だこと。 いつの間にか止んだ雨の変わりにかけられた女の声。 艶も何もない、柔らかな小娘の声。 「俺の代わりに傍にいてやってくれ。折っちまったから一晩だけだが…球根は残ってるから頑張ってまた美人になれよ?」 綺麗な瓶に入れられ、毎日水をくれた。 話しかけてくれ、歌を聞かせてくれた。 動けない自分の変わりに、外の様子を知らせてくれた。 名前の無かった自分に、魎と名づけてくれた。 「アイツは白が似合うんだ。何故か着物の好みが悪くて大柄の派手な奴ばっか…色気づきたい気持ちもわかるけどなぁ」 微笑んで、優しくしてくれた。 「小汚ぇ俺なんかが傍にいるのは、おこがましいにも程があらぁな…」 毎日毎日、相手をしてくれた。 「これでも随分と丸くなったつもりだけどね?隠居生活のおかげかなぁ。」 生きるということの喜びを、教えてくれた。 自分に深く染み渡っていた血が流されていく気がした。 初めて流した涙が、汚れを落としていった気がした。 初めて優しくしてくれた人が、華の様に儚く散った。 「本家の奴らってつれないけど皆優しくってさ。だから」 怒りと悲しみで我を忘れて暴れまわった。 奴良組と出会ったのは、暴れる理由も忘れるほど時間がたって、魎が最も荒んでいた時だった。 「ずっとここにいたいけど、帰らなきゃ」 生を失った自分に再び与えられた温かさ。 僅差で地に伏せた自分に差し伸べられた手のぬくもり。 ――強いのう…お主、名は何という?ワシの義兄弟として、盃を交わそうじゃねぇか。 その問いに答えることが出来る喜び。 共に過ごす相手がいることの幸せ。 忘れかけていた感情を、再び手に入れた。 「コイツを飲み終わったら、帰るとするよ。また明日来るからな?」 今度は失わないと固く誓った。 あの時と違って、動けて話せる。 笑って、しがみついて、名前を呼んであげられる。 幸せだ。 「…………大好きだったよ」 過去形にしたのは、今があるから。 切なく笑って、魎は盃をあおる。 酒を片付けて、静かに立ち上がった。 「…………愛していたよ」 誰よりも、強い愛だった。 その告白を受け入れるように、曼珠沙華の香りが広がる。 優しく笑って、魎はその場を後にした。 [*前] | [次#] |