魎が毎日どこぞへ出かけるのは本家じゃ当たり前の日常だった。 「ちょっと遊びに行ってくる」 そう言ってふらりと門をくぐって日が沈む前に帰ってくるのだが、最近は妙に雰囲気がいつもと違っていた。 普段であれば帰った瞬間に鯉伴の姿を探し回って騒ぎ立ててはぬらりひょんに八つ当たりをして牛鬼に叱られている。 だが近頃はそれが無い。 「なーんか気持ち悪ぃ…」 「珍しいのう。お前が魎を気にかけるなんざ…明日は雨が降るな」 「だってよー…」 ぬらりひょんの部屋で親子水入らずの晩酌を交わしていた。 鯉伴としては確かに静かになったことで雑務に集中する時間が増えた。だが、あまりにも魎から声を掛けられる回数が減ったことに違和感を通り越して寒気すら感じる。 「押してダメなら引いてみる戦法とかそんなとこじゃろう」 「いやいや、無い無い無い。あの魎だぞ?ひとつのことしか考えられない男だぞ?」 「じゃあお前意外の他のことで頭が一杯なんじゃろう」 「て言ってもよー…魎が興味持つような他のもんなんて考えられねぇんだよな…」 ふと、自分の言った言葉を思い返したぬらりひょんが口に運ぼうとした盃をぴたりと止める。 それを不思議に思った鯉伴がぬらりひょんの動かなくなった視線の先に目をやると縁側の外側に向けられていた。 広い庭の白い石の上で、魎がじっと閉じられた門を眺めていた。 差し込む月光によって、まるで一枚の錦絵のようにも思えるその光景は見た瞬間に息を飲む。 「……なるほどなぁ」 「何がだよ」 「なんじゃ、わからんのか?」 「わかんねーから聞いてんだろ?」 「嫁を貰ってもお前はまだまだ餓鬼じゃなぁ……どう見てもありゃあ恋をした男の姿よ」 「っな!?」 聞き捨てなら無い言葉に鯉伴はもう一度魎に勢い良く視線を向ける。 以前に聞いた魎の話から、きっとあいつは二度と本気の恋なんてしないと思ったというのに。 「例の娘に似た娘がいたのか、はたまた生まれ変わりでもいたのか…真相はわからんが結局は忘れられんだけじゃろうな」 「ふぅん……なんだ、意外と落ち着いてんだな」 「馬鹿者。腸煮えくり返って酒が一向に回らんわい」 そう言ってぬらりひょんは止めたままの盃をぐいとあおった。 ムカムカと体内から競り上がって来る怒りのせいで体は熱くなっているというのに頭はやけに冷めていた。 鯉伴も面白く無さそうな顔をして、ぬらりひょんの空いた盃に酒を注ぐ。 「明日も出かけんのかな?」 「……見つかれば大目玉を食うかもしれんぞ?お前は知らんかもしれんが、魎が本気で腹を立てるとそりゃあ七面倒なことになる…」 「それ以上に俺が腹立ってんだよ。絶対ぇ突き止めてやる」 魎が会いに行く相手が、魎の心を奪ったまま死んだ女なのか似ているだけの女なのか。 どちらにしろ、どういう女だったのか知りたかった。 「…仕方ねぇ、ワシも行ってやるとしよう」 「んなこと言って…親父も気になるだけだろ?」 呆れたように鯉伴が言うと、ぬらりひょんは返事をせずに自嘲するように笑った。 *** 次の日の昼、いつも通り魎が仕事に追われる妖怪たちをからかいながら門をくぐる。 それを見届けて、ぬらりひょんと鯉伴は各々の特性を活かした尾行を開始した。 魎は老若男女に知り合いがいるようだ。 軽く挨拶を交わしながら、時に荷運びを手伝ったり道の真ん中で立ち止まって談笑をしている。 「いつになったら女に会うんだよ…っ」 「まぁ待て。あいつが寄り道をしないわけがない」 鯉伴も江戸じゃ名の知れた遊び人だ。 今は人間に気取られないよう気をつけているが、魎に感づかれては全てが台無しになるということで結局こそこそと建物の陰から様子を覗っていた。 「ん、おい鯉伴。動いたぞ」 「あっちは…日本橋?」 軽い足取りで魎は日本橋を目指していく。 川原を眺めて、風に揺れる赤い花を見つけて微笑む魎はどこの役者だと思えるほど様になっていた。 「あそこら辺は歌舞伎座があるな…」 「…親父と二人で歌舞伎を見るのはごめんだよ」 「安心しろ、ワシも嫌じゃ」 日本橋を渡りきり、人の多い町に差し掛かる。 物見に来た人間たちの間をすり抜けて、魎の足はひとつの茶屋に向けられていた。 歌舞伎を見終わった客が休めるように暖簾が掲げられたそこは、ちょうど人が一杯のようだ。 女将の案内で店の外側に備えられた長椅子に腰掛けた魎はくつろいだ様子で目を閉じていた。 「あら魎さん!また来てくれたんですか」 「そうだよ〜。覚えてくれたんだ」 娘特有の柔らかな高い声に、魎はゆったりと目を開けて返事をする。 魎の発言に娘は胸を張って「当然です!」と答えた。 「ニ週間も前から毎日来てくださってるんだから、覚えなきゃ看板娘の名が廃ります!」 小柄だが、元気の良さそうな娘が魎の姿を見つけて駆け寄ってくる。 通りには人も多く、ぬらりひょんと鯉伴は建物の間に身を潜めながら娘をじっと見つめていた。 「…山吹の方が美人だ」 「というよりも、魎の方が美人じゃな」 つまりは不釣合い。だが魎の言っていた"愛嬌のある笑顔の似合う娘"には当てはまるため、もしや…と憶測ばかりを考えてしまう。 不服そうに二人が観察していることなんて知らない魎は、笑顔のまま注文をしていた。娘が奥に引っ込むと、魎は体を斜めにして店の様子を眺める。 「あんな顔…見たことねぇよ」 ひどく切ない声で鯉伴が呟いた。 せかせかと動き回る娘を見つめる魎は確かに恋をする男の顔なのかもしれない。 溢れんばかりの優しさがこもった魎の表情が鯉伴の胸をざわつかせた。 「………」 ぬらりひょんは一言も発しない。ただ魎の様子を一秒たりとも見逃さないというように見張っている。 何十年、百年と共に過ごしてきたというのに、一度も自分に見せたことのない表情から昔の魎がそこにいる気がした。 自分と出会う前の魎が唯一心を開いていた相手が、そこにいるような気がした。 茶屋の娘は盆に茶と菓子を載せて店の外に向かっていた。 それに気づいた魎は素知らぬ顔で体の向きを直し、ぼんやりと空を見上げる。 「魎さん、お待ちどうさま!」 「…ありがとー!相変わらず美味そうだねぇ」 空から毛氈の上に置かれた茶と菓子に視線を移した魎がそう言って笑うと、娘はかすかに頬を赤らめた。 それが何を意味するのか、尾行をしている二人には考えなくてもわかることだった。 「えへへ、今日は私が作ったんですよ」 「え…なら腹薬も持って来てくれる?」 「もう!魎さんってばひどいんだから!」 「あはは…!ごめんごめん。冗談だよ」 傍目から見て、魎は心から楽しんでいるようだった。 嬉しそうに菓子を堪能し、時折耳を済ませて店の中の喧騒を聞き入っている。 「…親父」 「ああ、わかっておる」 これ以上は野暮だ、と二人は顔を見合わせ頷いた。 だって気づいてしまったのだ。 魎がやけにぼんやりとした素振りを見せるのは、娘の顔を見ないようにしているからだ。 魎がああやって耳を済ませているのは、娘の声を聞くようにしているからだ。 「…勝てるわけねぇよ。普通目なんて瞑るか?」 「だがあの娘が魎の想う娘ではないことは分かったから良しとするかのう」 二人は見逃さなかったのだ。 娘が魎の名を呼ぶ瞬間、魎はいつだって目を閉じていたことを。 その顔は見ているこっちが苦しくなるほど哀切に満ちた笑顔だった。 「魎は救いようのないほど馬鹿だが…死んだもんが戻らんことぐらい理解しておるみたいじゃな」 「…あと三日ぐらいは我慢してやるとするかぁ……その後は俺が鬱陶しいほど魎の名を呼んでやる」 鯉伴は頭をガシガシと掻きながら来た道を戻り始める。 魎を魎と名付けた娘だからこそ、魎にとって名を呼ばれるということは特別なことなのだ。きっとあの娘は、驚くほど魎の想い人と声が似ているのだろう。 だからこそ、娘に名を呼ばれたくて魎はこの茶屋に通うのだ。 この娘があの娘と違うからこそ、魎は行き場のない感傷に浸っている。 「永遠に想いが結ばれぬ魎と、永遠に嫉妬をせねばならんワシら…どっちがより胸苦しいかのう…?」 先を進む鯉伴を追いかけながらも、ぬらりひょんは昨晩と同じように自嘲気味た笑みを浮かべて息を漏らした。 [*前] | [次#] |