こないだ、お好み焼きを食べに行ったら、涙が止まらなかった。

 私の黒歴史は高校3年生の時である。
 受験勉強だとか、親や友人との人間関係だとか、様々なことが何一つままならなくて、もどかしくて、叫びだしたくてしょうがなかった時期。
 大学生になってしまった今振り返ると、なんてちっぽけなことで悩んでいたのだろうと思えるのだけれど、それは私が少なからずその困難を乗り越えて今立っているからこそ言えることである。そしてまだまだ私は子供なのだと常々思い知らされるが、それ以上に、高校の私はずっとずっと幼かった。ただそれだけだ。

 中学では一時期手首を切ることがはやっていたかしら、と私は剃刀を見て思いだした。ピンク色の安っぽいスケルトンで、どこのコンビニでも売っていそうなそれは、小さな刃を頼り無げに光らせていた。ベッドの上に腰かけて、私はジャージの裾を上げて、白いくるぶしを蛍光灯にさらしてみた。やわらかできめ細かに整った肌が室温に粟立っている。だって手首なんてそんな見えるところを切ってしまったら、私はただの「病んだ女」じゃないの。私だけが知っていることが重要で、誰にも見つからない場所である必要があった。そして、もしかしたら死んでしまうのではないかと、小さなスリルを与えてくれる場所でなければ、ならなかった。
 私はくるぶしの少し上に刃をあてがうと、ちょっとだけ力を入れて、それを引いてみた。すると、すうっと白い線が、まず浮かんで、それからその周りにうっすらと赤みがさした。それからゆっくり、焦れるくらいゆっくり、赤い玉がプツンとその「傷口」を彩っていく。けれど傷は浅いので、それでおしまい。それでも私は、それが初めてだったので、ひどく興奮したのを覚えている。たった一本の赤いラインは私にとって境界線だった。私はそれから何回も何回も境界線を引いて、そのたびにやっと息をつく思いをしたのだけれど、終ぞ満たされるということを知らなかった。その傷口からは私の不満だとか、苛立ちだとか、そういった嫌なものが抜けていってくれたのだけれど、それは結局出口でしかないのだ。どうして、そんないやらしいもので私が満たされるっていうの。

 私が静かに足首を切っていたのは高3の夏だった。あの頃の私は酷くすさんでいて、勉強をまず放棄し、一時期は学校に通うことすら放棄しかけた。フリーターって、自由でいいよね、だとか、何か小説を書いて投稿して小説家になりたい、だとか、甘い夢を見ていた。勉強がすべてではないのだと、幼い考えに身を任せていたともいえる。そのくせ、受験は常に意識して、その間で板挟みになり、グロッキー。なにをしてもうまくいかない。友達にあたり散らして、親友と2週間も口をきかなかったこともある。2つ年上で社会人の兄には「勉強だけしていればいいんだからな」と嫌味ばかりを毎日言われた。私はその一言を聞くだけでアレルギー反応のように頬を真っ赤にして、部屋にこもった。あの頃は毎日泣いていたかもしれない。部屋を真っ暗にして、やわらかなベッドにうずくまる毎日だった。私は少しばかり悲劇のヒロインを意識していた。そしてそれを意識している自分すら意識していた。そうして大人ぶった客観的な、悪く言えば中学生のような物の見方をして、やっと自分を慰めていた。

私が通っていたのは進学校だったけれど、就職する人も、専門学校に進む人も、様々いた。けれど私には大学へ進学するという選択肢しか、はじめからなかった。それは単に「大学へ進めない人は負け組になる」という、なんともおかしな価値観が私の根底に存在したからだ。その頃の私でさえ、その考え方が間違っているとは気づいていたけれど、どうにもだめだったのだ。私は安っぽい、大衆の中の替えのきく誰か、1人だった。
 だから結局、冬が近づくにつれて勉強に精を出すようになり、足首の傷跡を嘲りながら、大学を受験した。結果、志望校には合格。合格通知が届くころには、境界線はなりを潜め、ただの薄いラインになり下がっていた。けれど、そのラインは今でもまだ左くるぶしの上にうっすらと残っている。そんなものだ、過去なんてものは。

 そんな私も大学生になって半年が過ぎようとしていた。
 私は所謂飲みサーと呼ばれる、飲み会ばかりでそれ以外にはあまり活動しないような適当なサークルに所属している。本来は保育園だとか幼稚園を訪問して子供たちと交流しようという名目のもと結成されたサークルだったのだが、ほとんど合コンのような飲み会を数回繰り返した記憶しかない。そしてこないだのお好み焼きパーティーもそんなくだらない行事の一つだった。

私の記憶に残っていることは、お好み焼きがおいしかったとか、においが服についただとか、パフェ焼きはなかっただろうとか、そういうことではなくて、ただ、煙が目に染みたということだ。

 そのお好み焼き屋さんには、6人でワイワイ騒ぎながら行ったのだけれど、私は今一つテンションが上がらなくて、終始箸ばかり動かしていた。テーブルはちょうど6人掛けで、私は奥の方の一番端に座った。その席の真上には換気扇があり、そのせいで煙が私の方に流れ、コンタクトレンズ越しのやわらかな膜を刺激しまくったのだ。
 一枚目はまだいい。二枚目を焼くころになると、もう瞬きの回数が半端ではなくなって、こらえきれずに一回席を立った。お手洗いの鏡でじっと目を凝らしてみると、僅かに赤みがさして、涙にうるんだ目がじっと私を見つめ返しているのだった。それをみてしまったら、もうあの席に戻らなければならないということばかりが憂鬱で、低空飛行を続けていたテンションはさらなる低みを目指して下降一直線。
 すこしはましになるだろうかと、厚く塗り固められたマスカラに指先で一滴、透明な似非涙を乗せてみる。そうしてみると、本当に泣いているようだった。ウォータープルーフのマスカラが、迷惑そうに首をもたげているようではあったが。

 このまま席を抜けるわけにはいかなかったので、結局またもとの席に戻る。仕方ないのだ。そうするとまた油の焼けたのが煙になって、私の傷だらけの膜を刺激する。すると、どうしたことか、3枚目を焼く頃に、私はとうとう泣きだしてしまったのだ。隣の友人が気づいて、「大丈夫?煙?」と首をかしげる。白いうなじに皺が寄った。そんなところばっかりは見えてしまう。

「煙が辛くて」
「目、弱いのかな。私なんともないけど」
「わかんない。ほんと、申し訳ないけど誰か席変わってくれないかな。ここ換気扇の真下でさ」

すると、なんだか不機嫌そうにした男友達が、「じゃあ俺変わるよ」と言ってくれた。その人は私の右斜め前に座っていた人で、私はウォータープルーフを気にしながら、いろんな人に膝を寄せてもらって、席を変わった。私はバッグのポケットからハンカチを取り出して、マスカラばかり気にしながら涙を拭いた。
しかしどうしたことだろう、涙はなかなか止まってくれない。それが一体どうしてなのか、皆目見当もつかなかった。友達は談笑している。その声がやけにクリアに聞こえる。目の前は水槽のようになっているのに、耳だけはピンととがっているようだった。そうして、涙目で席を変わってくれた男の方を見てみると、平気な顔をしてソースを取っていた。じゅうじゅうと音がする。視線に気づいたのか、その人が目線をこっちによこす。

(嘘嘘)

その人がそんなことを言うはずはないだろうし、実際言っていなかったのだけれど、私には確かに聞こえてしまったのだ。そうすると、もう涙は本当になってしまって、どれがさっき乗せた“嘘”なのか、もうわからない。誰の気を引きたかったって、それは席を変わってくれたその人なのだけれど、確かに気は引きたかったのだけれど、嘘ではないのだけれど、けれど、けれど、下心は本当に、なかったの。私は言い訳ばかりを考えていた。誰に責められたわけでもないのに、その人の視線ひとつで頭がおかしくなってしまいそうだった。お好み焼きが私の皿に勝手に乗せられる。それすら我慢ならなかった。どうしようもなく、悲しい。体裁ばかり気にしている私が、たしかにそこにいた。

大学に入ってからというもの、私は一度も泣いていなかった。高校から一緒に上がってきた男の子に振られようと、彼女持ちの先輩にもてあそばれようと、高校生に「おばさん」と呼ばれようと。振られた男の子とは小学校からずっと一緒だった。中学ではがくんと小学校の頃の友人は減り、高校ではさらに減った。だから私たちは妙な連帯感を持って一緒にいた。そうして、周囲にはやしたてられるがままに付き合って、同じ大学に進んだのだ。けれど彼の方が、大学の華やかな雰囲気にあてられ、同じ学部の2つ上の先輩と浮気。人づてに知っていたけれど、私はあえてなにもいわなかった。2年半も付き合っていたのだから、結局は私のところに戻ってきてくれるものと信じていた。恋愛小説の読みすぎである。さらに言えば、もっと読んでおけばよかったのだ。そうすれば、きっと早い段階で手を打てた。その先輩は私よりずっと美人でずっと性格がよかったから、別段くやしくはなかった。悲しくもなかった。それはいっそすがすがしいほどだった。けれどすがすがしすぎて、むしろ途方もない寂しさが、私の胸に込み上げてきた。私は焦った。

お好み焼きがそんなに好きかと聞かれればそんなに好きなわけではなかった。むしろ地元にいたころなんかは年に1回食べるか食べないかというくらいだった。なのになぜこんなに涙を流して痛い思いをしながらお好み焼きを焼く会に参加しているのかというと、寂しいからの一言につきる。そうして、私を寂しさから救いあげてくれるような人をこうして探しているのだけれど、なかなかどうして、うまくいかない。涙ばっかりがあふれるので、やはり私は席をはずすことにした。あと1時間は続くだろうこの雑談に耐えかねて、私は具合がわるいからと理由をつけて会計だけ先に済ませて外に出ることにした。一瞬、ほんの一瞬だけ彼がついてきてくれるのではないかと期待してみたのだけれど、結局私は一人だった。はじき出されるようにお店から出てみても、しばらくは目が痛くて私は涙目でいた。そうして、ついつい空を見てみると、いっとう明るく輝いている星がある。季節は秋も半ばだったので、きっと木星だろう。涙が夜に染み込むように乾いて、私は立ちつくしてしまった。こうして外に出てみたはいいものの、どうしていいかわからなかったのだ。家に帰るのは、なんだか途轍もなく寂しい気がしてならなかった。かといって、どこに行くというあてもなかった。冷めた夜風が寂寥ばかり運んできて困る。もう煙たくなんてなかったのに、私はしばらく泣き続けることしかできなかった。境界線はまだしっかりと横たわっていたのだ。


END

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