樹精の切り株 | ナノ


『ねぇ、私と勝負しない?』

何十年も昔の事だ。今と変わらず切り株の上で何もする事なくただ座っていたら、顔立ちの美しい人の子が吾の前で仁王立ちしてそう言った。


人の子如きが吾に勝負を挑むとは。まあ、丁度良い暇潰しだ。

『…良かろう。丁度暇を弄んでいた所であったからの』

ゆっくり立ち上がり娘を見下ろせば、娘は嬉しそうに笑い

『ふふふ、じゃあいくわよ!』

そう言って、呪符が貼り付けられた棒を振り上げた。


その娘は中々の力を持っており、正直度肝を抜いた。少しでも手を抜けば容赦なく棒を振り落とし、鬼神の如く隙を突いてくる。まるで鬱憤を晴らすかのように容赦なく攻めてきた。

その時は思わなかったが、今思えばあの時は愉しかったのかもしれんな。久しぶりに人間を相手にし、遊びに興じたのだから。



疲れた吾は、人の子に敗けを認め、紙に名を書かされた。人の子はそれを帳のような物に挟み、『私が呼んだら来てよね!』と嬉しげに吾にそう言った。不思議な帳に目を引かれた吾は帳を指差し、それは何だと尋ねれば、負かした妖怪の名が書いてあるのと人の子は帳をぺらぺらと捲った。

『それにしても、あなたの名前って凄く人間じみてるわね』

吾の名が書いた紙を手に取ると、不思議そうに首を傾げた。

『…あぁ、よく言われる』

…この名は吾を植えた御仁が付けた名で、自分の喪った娘と同じ名を吾に付けたらしい。御仁の娘は体が弱く、十二も行かぬうちに亡くなってしまったそうな。


吾を植えて下さった御仁は、慈愛に満ちたお方だった。毎日毎日村からわざわざここまで吾の成長姿を見に来ていた。まだ苗木だった吾は、御仁を父のように慕い、御仁が来る度小さな葉を揺らした。
御仁は嵐が来れば、吾が飛ばぬよう支えを作り、干ばつが来れば水を与えて下さった。そんな心優しき御仁は、吾が立派な幹と枝を生やす前に、あの世という所へ逝ってしまった。…きっとあの世で娘と幸せに暮らしているであろう。


『…主の名は、何と言う』

幹に腰掛けながら、人の子に問うた。

『私?私は、夏目レイコ』

『…自分の意思を貫き通すが如く清廉で綺麗な名であるな』

目を細めてそう言えば、レイコは吾とは真逆に、目を見開き驚いた顔をした。そして、ゆるりと微笑み、『初めてそんな事言われたわ』と寂しげにそう言った。しかし、その寂しげな表情は嘘だったかのように

『ありがとう!』

と笑顔を浮かべた。吾はそんなレイコの頭を一撫でし、背を押した。

『直、暗くなる。早く家に帰れ』

レイコは確かに強いが妖怪というモノは侮れぬ。例え、万が一がなくとも億が一だ。
レイコもそれを察したのか、そうするわと肩を竦めた。

『……ねぇ、いつか私があなたの名を呼んだ時、また私と遊んでくれる?』

帰るために背を向けたレイコは一度此方を向くとそう尋ねてきた。吾は、

『さあな』

と笑い、切り株の上で胡座をかいた。

『ふふっ、意地悪ね。じゃあね、』


最後に吾の名を呼ぶと、レイコは人里へと帰って行った。

だが、あれから月日が幾ら経ってもレイコは吾の名を呼ぶ事はなかった。
一抹の寂しさはあったが、人の世で上手くやっていけているのだと思い、レイコと出会ったこの場所で時々あの娘に思いを馳せた。




そして今日、偶然にもレイコの孫が吾の前に現れた。容姿がレイコにそっくりで、まるでレイコの生き写しを見た気分だった。
そんなレイコの孫に、

「名を返して欲しい」

そう伝えた。

もう、誰も呼んでくれぬ吾の名を友人帳に預けておく必要はないだろう。それに、そろそろ寿命が尽きる。

吾は妖怪でも無ければ、神でもない。御仁の木に対する愛情で生まれた吾は、ただの樹精だ。
吾に愛情を与えて下さったお方は遠の昔に亡くなられ、立派な幹や枝も何十年も昔に伐り落とされた。

この世に未練はない。ただ名を返して貰えれば、思い残す事は何もない。
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