- ナノ -

 橙夏たちが祈龍台に到着して星槎を降りると、既に星核ハンターである刃とカフカの他にもう1人の人物が立っていた。

「どうして……」

 その人物を見て橙夏は思わずそう呟いた。なぜならその人物は、丹恒は──既に羅浮を追放されて仙舟と関係ないはずだからだ。戸惑う橙夏とは真逆に、彦卿は至って冷静だった。何より彦卿はその男性に見覚えがあった。それは確か大罪人名簿を調べていた時に見かけたような覚えがあったのだが、その人物が目の前の彼と同一かどうかまでは判断つけない。それでも「刃を捕まえること」は変わらない。
 肝心の刃は2人を見ることはなく、ただ一心に丹恒へと向けられていた。

「気をつけろ」

 丹恒がそう言ったと同時に刃の剣が丹恒へと振るわれる。避けるだけで精一杯だった橙夏とは違い、丹恒は刃の攻撃を受け止めたあとに反撃に出た。それを見ていた彦卿は丹恒をサポートするべく剣を握り、刃に向けて自身の宝剣を数本投擲した。それを読んでいたかのように刃は宝剣を全て払いのけていく。2対1だというのに、刃が押されているような様子はない。
 橙夏も彦卿と同じように戦闘に参加して支援するべく、足を一歩前へ踏み込もうと武器と霊符を取り出そうとする。だが次の瞬間一気に橙夏の力が抜けていき、彼等の戦いの場に近づくことすら叶わずに橙夏はその場にへたり込んでしまった。

聞いて
「っぅ、あ……」

 その声は決して威圧感のあるものではない。しかし橙夏の細胞ひとつひとつに染み込んでいくような感覚に陥って上手く力が入らない。両腕は後ろでまとめ上げられて、マゼンタ色の細い糸が幾重にもなって巻き付いていた。
 橙夏の視線の先では、相変わらず丹恒たちが戦っている。早く加勢しなくてはいけないのに、そう思えば思うほど橙夏の身体の自由が奪われていった。
 カフカの指が、背後から橙夏の頬を優しく撫でる。優しく触れられているのに、ぞわぞわとした不快感だけが残る。

「あなたはエキストラなの。見ているだけでいいのよ」

 いやだ、と言いたくても橙夏は言葉を発することができない。なんとか橙夏が視線を戦闘へと向けた時、ちょうど彦卿が刃から投げられた短い剣を避けた時だった。
 「あっ」と彦卿は呟いたがもう遅く、その剣はぐっさりと丹恒を貫いた。なんとか耐えている丹恒を見ながら、彦卿はあくまで大罪人である刃に向けて剣先を向ける。しかし刃は特に焦ることなく──むしろこの時を待っていたのだと言わんばかりに嬉しそうに彦卿へと告げた。

「小僧、教えてやる。そこにいるのは仙舟を裏切り、大罪を起こし永世に追放された咎人──持明の龍尊「飲月君」だ」

 持明族は脱鱗転生を繰り返す種族である。脱鱗の条件にはいくつかある。ひとつは600年ほど生きて寿命を迎えること。そしてもうひとつは致命的な負傷を負うこと。そうすると自らの身を護るようにして彼等は卵となって古海へ戻り、それまでの記憶を海で流して生まれ変わるのだ。だがこれは普通の持明族であった場合の話だった。

 剣に貫かれた丹恒の身体から、眠っていたはずの龍の力が目覚めていく。呼び戻された龍は咆吼を上げ、次に丹恒の身体を包んでいった。そうして──次に見えた丹恒の身体は、今までの姿ではなかった。
 短かった黒髪は長くなり、短命種のような耳は持明族と同じ尖ったものへと変化している。着ていた服装も色合いこそ似ているが蓮が描かれた袖は長く、装飾も龍を思い起こされるようなものばかりだ。
 何よりも──頭に生えた2本の角が、普通の持明族ではないことを示していた。

「仙舟に潜り込んだのがハンターだけかと思ったか?」
「ならばどちらも捕らえて、将軍に裁いてもらうまで……!」

 「飲月君」という名を昔目にしていた彦卿は彼がどんな人物かを知っていた。彦卿にとって彼は罪人であり、捕らえる人間が増えただけのことにすぎない。今度は1人で戦うことになるが、それはそれで戦いやすい。彦卿は先ほどと同じように周りに氷を纏わせた剣を展開する。飲月は騒ぎを起こしにきた訳ではないと弁解していたが、彦卿はそれを聞き入れるつもりはなかった。
 カフカによって刃の魔陰の身に落ちる影響を抑える束縛が解放される。ただでさえ強烈だったその一撃は苛烈になって彦卿へと襲いかかった。それは前よりもかなり速度も上がっており、彼は確実に彦卿の次の一手を把握していた。

「まさか、ガキ相手だから手を下せないのか?」

 弁解しようとし、戦う意志を見せない飲月を刃が煽る。しかし飲月の姿になってもなお、彼の頭の中を占めている殆どは仲間に関してのことだった。仲間の無事を願う度、想いに同調するようにして丹恒の水による一撃が重くなっていく。

 いくら羅浮の剣首候補だと謳われた彦卿でも、さすがに「雲上の五騎士」だった2人を相手にするのは限度があった。ここでどうにか食い止めようと、彦卿は先日剣士である女性が使用したあの剣技を繰り出した。以前橙夏と特訓した時に放った時よりも大きな剣を召喚して相手へと投げつける。確実に威力は前よりも上がっているというのに、刃も飲月も特に傷つくことはなくしっかりと立っていた。
 それどころか「ここで立ち止まるわけにはいかない」と飲月の力を更に解放してしまうこととなり、最終的に一番初めに膝を付いたのは彦卿となってしまった。

「僕は、まだ…………」

 悔しそうに彦卿が呟く。
 ここまで、橙夏は何もすることが出来なかった。確かに「何もなければいい」と願ったけれど、それは何もしないというわけではない。既に橙夏の腕を縛るものは消えてなくなっており、本来であれば彦卿の戦いに加勢することができるのだろう。しかしそれは、それだけはできなかった。かつての友人に剣を向けることなど、橙夏はしたくなかったのだ。

「はい、そこまで。みんな……聞いて。もうやめなさい」

 今まで橙夏の傍で一連のことを眺めていたカフカが言葉を放つ。彼女の持つ言葉には人を操るような効果があり、今回もその効果は発動されていた。カフカに「満足した?」と聞かれ、刃はひとつため息を吐く。しかし飲月は未だに警戒心を解いていない。

「……何をした」
「ちょっとした準備よ。羅浮の将軍の前で、刃ちゃんや君たちが笑い物になったら困るもの」
「ははは」
「な……え、景元……!?」

 いきなりのことに橙夏も驚きを隠せない。だがやってきた景元が「立てるかい?」と手を差し伸べてきてくれたお陰で、ようやく橙夏は立ち上がることができた。
 橙夏が立てたことを確認した景元は、改めて目の前にいる2人へと目を向ける。見た目も、人格も、どれもこれも変わっている。「あのころ」と同じではないことも理解しているつもりだ。
 
「久しぶりに帰ってきたというのに、気まずい場面になっているようだ。旧友を懐かしく思うようであれば、もっと早く知らせてくれてもよかったのではないかい?」
「俺のやるべきことは終わった」

 景元の問いに答えず刃は淡々と結果だけを伝える。確かに刃の言っていることに間違いはない。元々星核ハンターの役割は「星穹列車と仙舟同盟を繋ぐこと」である。要するに今こうして開花している建木に関しては、星核ハンターは関係ないのだ。彼等は仕事を十分にこなしてくれた。今回の事件の全容を把握していた景元はそう評していた。

「微かな助力とはいえ、感謝しているんだ。今回は見なかったことにしよう」
「なっ……将軍!?」

 景元の判断に反論したのは彦卿だった。それでも元々彦卿は「今は何もしなくていい」と彼から指示を受けていた。勝手に行動してしまったのは自分のせいだ。彦卿の主張は景元に受け入れられることはなく、それどころか彼等と共に戻るように言われてしまった。
 刃たちが祈龍台をあとにしたあと、景元はいよいよ飲月へと視線を動かす。「あのころ」とは違うと心では理解していても、景元はやはりこう言いたかった。

「久しぶりだな……旧き友よ」
「俺は彼じゃない」
「ああ……すまない」

 景元に謝罪されても、飲月は特に何も反応を見せずにその場を立ち去っていく。しかし景元はそのまま見送ることはせずに言葉を続け、橙夏はそれまで静かに2人のやり取りを見守っていた。

「君をまだ行かせるわけにはいかない。「鱗淵境」で君を列車の仲間たちが待っているんだ。私と一緒に彼らに会いに行こう。橙夏も一緒に来てくれるかい?」

 だから、突然一緒に着いてきてほしいと誘われて橙夏は素直に驚いたのだ。でもきっとこれは断るべきではない。彼は橙夏が断らないことを前提に話していることだということが、なんとなく分かっていた。だからこそ橙夏は景元に問いかけた。

「景元、分かってて聞いてるでしょ」
「でも、君はこうして私のお願いを聞いてくれただろう?あの時からね」
「はぁ……」

 景元の言う「あの時」が一体いつからなのだろうかという疑問が橙夏の中で浮かぶ。太卜司で待機していろと命令した時か、それよりも羅浮に戻った時に太卜司を推薦された時だろうか。しかしそんなことは、今の橙夏にとってはどうでもいいことだった。ここまで来たのだったら、最後までこの事の顛末を見届けてやるまでだ。




 鱗淵境に到着して砂浜に降り立つ。ざあんという波の音と、海鳥の鳴き声が響いている。橙夏が振り返ると遠くの方には、先刻まで居た丹鼎司の建物も霧がかかってよく見えなくなっていた。
 最後に鱗淵境を訪ねたのはいつだったか忘れてしまったけれど、そんな昔の記憶の鱗淵境と今橙夏が立っている場所は特に変わった様子はない。変わったとすれば、そう──ここにいる人物だけだ。立場も何もかもがあの時とは違った。

「ここの景色は昔見た時と変わらないのに、再びここに立つ君と私は違う。老いることのない長命種だとしても、天地と並ぶことはできないか」

 景元も橙夏と同じように鱗淵境を懐かしんでいたが、どこかその表情には寂しさも含まれていた。
 だが過去に想いを馳せる2人とは違う反応を見せたのは飲月だった。彼は景元に自身の脱鱗転生の能力を知っているはずだろうと説明し、不快感を隠すことなくそのまま反論を続けた。

「かつて将軍とここに立ったものはもういない。俺の名は「丹恒」だ。丹楓が何者であろうと今の俺には関係ない。彼の刑罰を受け、永久の追放をうけたことに関して文句を言うつもりはない。ただ、将軍は過去の残影を捨てて見てほしい」

 彼の主張は最もだろう。飲月の乱を起こした丹楓は幽囚獄に囚われ、強制的に脱鱗転生の刑を受けた。持明族の間では転生をした場合、転生前と後では別の人格だという認識になる。当事者はそれを受け入れて新たな人生を歩むことが基本だが、あくまでそれは本人の判断だ。今までその人と過ごして来て「今日から新しい人格です」と本人に言われても、周りの人間がすぐそれに納得できるかと言われるとそれは難しいことだった。
 橙夏はどちらかというと既に彼のことを「丹恒」として見ていたが、景元はまだそうではない。
 昔のことを話そうとすると、景元は心の中に重たい泥が流れこんでくるような不快な気持ちが生まれてくるのだ。どうしてなのか、その原因は既に景元の中では判明していた。

「……恐らくその龍の角と龍尊の気質が、2人を結びつけているのだろうね」
「だから、違うと言って……」
「ああ、聞こえているよ。聞こえてはいるが、それがなんだと言うんだい?……丹楓として見ないでほしいと言ったが──いいだろう。だがその代わりに、あることをやってもらいたい」
「…………」
「丹楓として、最後に力を貸してほしい。それが終わったら彼の死を認め、君への追放令も撤回しよう。約束だ」
「丹楓に出来たことが、俺に出来るとは限らない」
「できないなら、約束はなしだね。……再びここを立つ君と私は違っていると、私はさっきそう言ったね。丹楓はいなくなり、丹恒だけが残っている。そこにいる彼女も、以前は丹士だったがもうそうではない。私も……今はただの羅浮将軍でしかない。やらざるを得ないことがあるのだよ」

 やっぱりこうなってしまうのか──2人のやり取りを景元の傍で聞いていた橙夏は、薄々予感していた流れが現実となってしまったことにため息を吐いて頭を抱えた。出来ることなら今すぐ橙夏も「もう今の彼は関係ない」と反論に加わりたかった。しかしもうそれが受け入れられないことを知っている。もし今回も同じ主張をしたとしても、それは拒否されるだけだろう。なぜなら既に橙夏も、景元の行動は全て羅浮の安寧を思ってのことだとをいうことを理解してしまったからだ。景元が以前橙夏の意見を否定したのも、何も感情的になったからではないのだ。どうすることもできないもどかしさに、橙夏はぐっと拳を握る。
 しばらくのあいだ、重たい空気が続く。だがそれを変えたのは「さてと」と普段よく見る穏やかな表情をした景元だった。

「明るい話題に変えよう。君が列車で作った友人たちがこの近くにいるんだ。会いたいと思わないかい?」
「……あいつらをここに連れてきたのか!?」
「ああ。この先で待っているよ」

 列車の一行と合流するべく、橙夏も2人とともに砂浜を歩いていく。途中にはところどころに見慣れない「なにか」の残骸が落ちていた。深い青色をしており、砂浜には武器であろう二重螺旋構造をした槍のようなものが刺さっている。戦った形跡からここに生息する敵であることは確かだが、豊穣の忌み物はこのような形状をしていない。橙夏はそれが何なのか疑問に思っていたが、隣で残骸を観察していた景元が忌々しそうに呟いた単語を聞いて耳を疑った。
 
「外道どもと戦うことになるか。……この一戦のあと、同盟はレギオンを根絶やしにするべき敵だと見做すだろう」

 つまりこれは、あの時アーカイブで見た「反物質レギオン」の一員だったのだ。画面越しでしか見たことのないそれを実際に目にし、その無機質で現実離れの物体をいよいよ相手にするのだという事実に橙夏の背に薄ら寒い感覚が走る。これと対面した時、自分が穹たちのようにしっかりと戦うところを橙夏はまだ想像できない。
 砂浜を進む道中でもいくつかその残骸は目に留まった。そして階段を上ろうとした時、近くの方で戦闘が行われているであろう音が聞こえてくる。

「君の友人たちがレギオンたちと戦っているね」
「急ぐぞ。早く加勢してやらないと」
「橙夏、彼等の支援を頼むよ」
「わかった!」

 すぐさま仲間に駆けつけた丹恒たちから一歩下がったところで、橙夏は霊符を取り出して発動させる。回復効果が働き、そして少しばかりの守りの盾を展開した。穹たちの他に符玄もいたから防御面ではそこまで不足しないはずだ。
 拮抗していた戦局は水を操る丹恒の雲吟の術と、景元が神刀を振るったお陰でレギオンを跡形もなく消す形であっという間に終了した。

「景元!やっと来ましたか!」

 景元の存在に気づいた符玄が彼の元へと駆け寄る。彼女は隣に居た橙夏には特に何も反応しなかった。符玄は確定した未来を視ることに長けているから、きっとこうなることも既に折り込み済みだったのだろう。符玄は景元が戻ってくるまで、ここで将軍代理としての責務を全うしていた。

「はは、すまない。ご苦労だった符玄殿。神策府の戦報はもう読んである。幻の計画については……」
「「建木」です!一番の異様はあそこにあります。きっと奴は建木を操って豊穣の力を撒き散らそうとしているに違いありません」

 幻──それが、今回建木を蘇らせた大元の原因だった。壊滅を司る星神ナヌークは7人の幹部を選抜した。その中のひとりが、今回倒すべき敵である「絶滅大君」と呼ばれた幻だった。
 幹部たちはそれぞれ美学を以て壊滅を遂行する。決して自分は手を汚さずに、物事を内部から崩壊させるという方法が幻の用いる手段だった。そうやって建木を開花させ、羅浮を地獄に陥れようと画策したのだ。そのために幻が今回選んだ「内通者」は、今まで星穹列車を案内していた停雲だった。彼女は始めから幻に操られていたのだ。「敵は内部にもいる」というカフカの一言は本当だった。

「状況は大体把握した。列車の諸君、喜んでくれると思いある人物を連れてきた。ぜひ会ってくれ」

 景元に紹介されるようにして、今まで後ろで控えていた丹恒が前に出る。丹恒に似ているその姿を見た仲間たちは、それぞれ驚いた反応を見せた。丹恒はずっとずっと過去を隠してきたのだ。だから突然この姿を見せてもその反応になるのは当然だ。
 何も言わない穹とは違い、なのかは素直に「ウソ、本当に丹恒……!?」と言葉を溢していた。

「ええっと……丹恒、でいいんだよね?頭の角とか、それどうなってんの……?」
「話すと長くなる。はあ……だが、俺で間違いない」
「じゃあやっぱり、本当に何かの力を隠してたってこと……!?」
「さて、雑談はここまでにしよう」

 一旦景元が間に割って入る。こうして丹恒を紹介したのには他にも理由があった。
 初めて星穹列車の一行が羅浮を訪れた時、彼等は「星核の問題を処理するため」だと説明してきた。しかし景元は列車の一行が星核ハンターの助けを借りて羅浮に入船してきたこと、そして星核ハンターに別の企みがあることを恐れて星穹列車との協力関係は結ばなかった。だがそのハンターの企みこそ「仙舟同盟と星穹列車を繋ぐこと」であったのは明白である。元凶であるナヌークの手下である幻を倒すためには、それと同等の戦力が必要になってくる。

「もしこれ以上何かを望めば、厚かましいと言われるだろう。だが幻の登場により、事態は制御不可能な状態に陥った。羅浮の将軍として、どうか丹恒殿の力をお借りしたい。どうか諸君にも、全面的にご協力いただけないだろうか」
「羅浮の危機と星核が関係あろうとなかろうと、そのまま見過ごすつもりはない。だがこれは俺自身の意見であって、星穹列車を代弁しているものではない」

 景元の要請に言葉を返したのは、今回年長者として列車の一行を率いてきたヴェルトだった。彼はそのまま「開拓とはなにか」を説明していく。「探索」と「理解」、そして「構築」と「連係」。これが列車組が全うする4つの信条だ。だが旅とは厳しいものであり、それらを貫き通すのは簡単なことではない。「恐怖」や「窮地」、それに「敵」と「死」といった困難を乗り越えていけるナナシビトは多くない。前に進むのか、それとも別の方法を選ぶのか──ナナシビトの目的地を決めるのは、いつだって自分自身なのだ。実際羅浮に向かうかどうかも、それぞれ自分の意志を投じてそうしてきた。だから今回も、それと同じだ。
 ヴェルトの言葉を聞き終えた穹となのかは、迷いなく丹恒に手を差し出した。彼等にとって丹恒が列車の仲間であることは変わらないのだ。
 差し出された手を取ることに、丹恒はどこか後ろめたさを感じていた。今はナナシビトではないのに本当にこの手を取っていいのか躊躇ってしまったが、自然と彼等の手を取っていた。
 その様子を黙って見ていた橙夏は胸が熱くなっていく。彼にも──丹恒にも、「大切な仲間」と呼べる存在が出来ていたのだ。それを知れただけでももう十分だった。

「ありがとう、丹恒殿」
「俺はナナシビトとしてここに立っているわけではない。これまでの道のりも、決して自由とは言えなかった。だが……持明の末裔として、俺は羅浮への責任を全うしよう」
「よしっ、みんな最初と変わらず、正義とは何かを分かってるみたいだね。じゃあ将軍、これからどうすればいいの?」
「妙案はない。……これは一種の賭けだ。持明族の長老がかけた中途半端な脱鱗の術でも、丹恒殿が龍尊としての記憶を取り戻すかのね」
「りゅう……そん?」

 なのかの疑問に、景元は付いてくるように一行をその先へ案内した。そこに建っていたのはとある人物の像だった。
 遥か昔、建木は羅浮に長命をもたらした。始めこそそれに喜んだ仙舟人だったが、それも魔陰という症状が現れるまでだ。それ以降長命はある意味呪いと位置づけられ、呪いの元である建木は巡狩の星神である嵐の弓によって伐採された。しかしその力はまだ残っており、そこで羅浮は不朽の龍の末裔でもある持明族の力を借りることにした。そして古代龍尊の指示により鱗淵境を水没させ、建木を収める容器とした。
 この像はその功績と犠牲を称えるために、工造司の職人によって建てられたものだった。

「ふーん……この像、なんだか丹恒に似てるね。もしかして……丹恒の兄弟だったりして!」

 なのかの空気を読まない一言にその場が一瞬固まる。しかし彼女のそういった言動は、重くなりがちな今の状況には清涼剤にもなっていた。

「ははは、少し似ているだけだよ。これはかなり昔の話だからね。強いていえば、歴代の龍尊は皆外見が似ているんだ」

 長い髪を靡かせ、槍を構えるその姿は表情が見えなくとも美しく、そして雄大さを感じさせる。橙夏の記憶にある丹楓とも、そして今ここに立っている丹恒にも似ているところはある。だが、それだけだ。どこにも誰一人として同じ物はいない。
 例外を上げるなら、それは今の龍尊だ。今代はただ「龍尊」を襲名しただけの子供で、完全に力を受け継いでいるわけではない。

「丹恒殿は知っているだろうか?丹楓がなくなり、持明族には建木を制御できるものがいない。かつて建木を守っていた君ならば、私たちのために「建木」へ至る道を開けるはずだ。すべて、君に託したよ」

 丹楓が強制脱鱗をした際、龍師たちは龍尊だけが行使できる「龍化妙法」という秘技が完全に失われることを恐れ、その脱鱗にある細工を施した。それが逆に今の不完全な龍尊を生み出す原因となってしまった。
 本来の継承者である丹恒なら、もしかしたらこの先を開ける可能性がある。しばし猶予を与えられた丹恒は、今まで避けてきた記憶をたぐり寄せる。仲間たちは自分が方法を思い出すために待っていてくれている。少しでもなにかきっかけになればいいと、丹恒はまず符玄に話しかけた。過去も未来も視ることのできる彼女なら、何か知っているかもしれないという希望的観測もあってのことだった。

「飲月君……の転生ね。丹恒、でしょ?おまえの名前は聞いたことがあるわ。影絵図とかで見た感じと変わらないのね。持明族の輪廻転生って、本当に生まれ変われるの?」

 しかしいくら符玄でも、龍尊の秘技に関しては何も知らないようだった。それどころか情報でしか知り得なかった伝説を目の当たりにして関心すらしていた。結局手がかりは掴めずに、丹恒は次になのかの元へと向かう。どうやら彼女は丹恒が何かをやらかして将軍に捕まってしまったのだと想像していたらしい。むしろ助けにきたのはこちらの方だと丹恒が主張すると、彼女は素直に「嬉しい」と感動していた。なのからしい発言といつもの雰囲気に、丹恒の心も少しだけ落ち着いていく。

「とにかく、丹恒、来てくれて本当に助かったよ!」

 どんなに姿が変わっていようと、彼女にとっては丹恒が大切な仲間なのだ。また仲間とともに開拓の道を歩むためにも、早くこの一件を片付けなくてはいけない。そのためにはやはり、記憶を取り戻す以外の方法はなさそうだった。
 そうして──ついに丹恒は、景元の近くでぼんやりと龍尊の像を眺めている女性に目を向けた。容姿はあの時と違えど、右耳に紅葉の形をしたピアスを付けた人物は、間違いなく丹恒が夢の中で見た女性と同じだった。彼女になんて声をかけようか、歩を進めながら言葉を選んでいく。

「……、橙夏さん、だよな……?」

 今までずっと過去の記憶は自分のものではないと否定してきた。奥へ押し込んで蓋をして、見ない振りをしてすごしてきた。それでも彼女の顔を見た瞬間、丹恒はその名前を無意識のうちに呼んでいた。
 呼び止められて少し驚いたような橙夏の表情を見た時、そこでようやく丹恒は「しまった」と自分の失態を理解して言葉を訂正しようとする。ただ出てきた言葉は歯切れの悪いものばかりで、先に言葉を返してきたのは橙夏の方だった。

「……初めて会う、よね?私たち」
「え、」
「……私は、丹恒の……あなたの「やりたいこと」に従うだけ。あなたの考えを尊重するよ」

 最初は橙夏に言われた言葉に丹恒は言葉を失ったけれど、それよりもその後に続いた一言に強い衝撃を受けていた。
 今まで自分の過去を知る人物は、自分を丹恒としてではなく丹楓として見ていることがほとんどだった。でも彼女はそうではなかった。橙夏の目にはしっかりと丹恒は丹恒として映っていたのだ。
 列車の仲間たちと同じことを言われたはずなのに、丹恒の心の中にはまた違った感情が芽生えていた。それが何なのか、今はまだ分からない。もしかしたらアーカイブで検索したら出てくるかもしれない。
 どうしてか丹恒は気まずくなり、この場を離れてヴェルトの元へと足を向けた。彼は丹恒が列車に乗ってから、過去に何かあると分かっていても何も聞かずに接してくれていた。

 「丹恒、君は列車の一員だ。さっさとこの件を片付けて、次の旅に出よう」

 だから、こうして今も前と変わらずに話してくれることが何より嬉しかった。
 力強く頷いたあと、丹恒は穹の元へ駆け寄り彼の名前を呼んだ。しかし穹はただ何も言わずに首を横に振るだけだ。先ほど丹恒に手を差し出したことが穹の答えだ。こうなってしまうと、穹が話したくない時はもう誰もどうすることができない。

 ここまで色々と聞いて回ったけれど、やはり丹恒の記憶には靄がかかったままだ。景元に「何か思い出したことはあるかい?」と投げかけられたが、丹恒は何も答えなかった。

「禁制を解くんだ。その身に背負う力こそが、建木への道を開く鍵となる」

 ──つまり、もう丹恒が過去の力も記憶も受け入れることしか方法は残されていない。
 丹恒は目の前に建てられている像に改めて目を向ける。すると今までおぼろげだったそれが、ひとつとなって丹恒の記憶の中に流れ込んでくる。ばらばらだった繊維の糸を辿るように、丹恒は今度こそそれを強く掴む。そしていよいよ丹恒は、その力を解放させた。

 今まで凪いでいた海が蠢き、意志を持ったかのように左右二手に割れていく。そこから現れたのはまるでおとぎ話にでしか出てこないような、珊瑚に囲まれた宮殿だった。これこそがかつて持明族が管理していた場所であり、永い時を経て今ここに再び戻ってきたのだ。

「す、ごい…………」

 初めて見た光景に、橙夏は景元の隣で感嘆の声を漏らす。鱗淵境は基本的に持明族以外立ち入ることは禁止されている。存在自体は知っていても、橙夏がこうして全貌を目にしたのは今回が初めてだった。この時やっと橙夏は丹楓が普段抱えていたものの一端に触れることができたような気がした。

「そうか……橙夏がこの場所を見るのは初めてか。私は幸いにも倏忽の乱の時に目にすることができてね」

 倏忽の乱──それは飲月の乱の少し前に起きた大戦であった。橙夏はそこで両親を失い、そして景元を含む「雲上の五騎士」は大切な仲間の1人である「白珠」を失った。そこから4人の中で彼女の死に対する考えのすれ違いが生じ、飲月の乱が起きてしまった。すべての始まりであるものが今回もこうして関わってくるとは、どこか因縁めいたものを感じてしまう。

「今のこの宮殿は、既に廃墟となっている。持明族の聖地で建木を封印したことで、羅浮は彼等に大きな借りを作った。……符玄殿」
「はい」
「他の邪魔が入らないように、残ってここを守ってほしい」

 突然の景元のお願いに、さすがの符玄も一人で幻に挑むつもりなのかと景元に詰め寄った。だが景元は首を横に振ってそれを否定する。そして橙夏を見据えたあと、丹恒たちの方へと視線を動かした。

「1人ではない。友人たちが同行しているではないか」

 景元のその言葉に次に反応したのは、符玄とともにここを守ってきた雲騎軍の兵士たちだった。部下が将軍を守ることは当然だ。だがこれは、今までのような豊穣の忌み物を相手にするような戦いではない。壊滅の星神であるナヌークの手下を相手にするのだ。生半可な気持ちで挑むことは許されないうえに、戦争には不測の事態が付き物だ。全戦力を投入して全滅なんてのはもってのほかだ。「君たちの気持ちはよくわかった」と、これまでに少しばかり残っていた景元の穏やかな雰囲気が一気に消える。そこにはただ緊張感だけが漂っていた。

「それよりも、君たちにはもっと重要な役割があるんだ。……雲騎軍よ、聞け!私が建木に入り海が元に戻ったら、すぐにここを閉鎖せよ。その後の指示は太卜に全て従え」
「はっ!」

 兵士たちのしっかりとした返事を聞き、景元はひとつ頷いた。そして彼は再び符玄へと向き直る。これから先、なにもないとは言い切れない。「もしも」がある可能性もある。それは、ある意味命令に近いものだった。

「符玄殿、もし私が帰ってこなかったら、事の顛末を整理して他の仙舟へ報告してほしい」
「「帰って自分でやれ」とは申しません。その命、しかと承りました」
「ふふ、少しだけ、将軍に見えてきたよ」
「……。橙夏も、悔いのないようにやりなさい」
「っ、ありがとうございます……!」

 符玄に礼を伝え、橙夏も本格的に彼等と共に建木のある場所を目指す。永らく続いた悪夢の終わりも、もうすぐだ。