- ナノ -

 星核ハンターが現れたというニュースは羅浮全体にあっという間に流されて大きな話題となっていた。これを受け、神策府はまず玉界門を閉鎖した。玉界門は羅浮と他の星へ行き来するための玄関口である。そこを閉鎖するとなると羅浮への旅行客だけでなく、商談で訪れた接渡使が入港することも妨げとなる。しかしそのデメリットを考えても神策府は星核ハンターを捉えること、そして羅浮に持ち込まれた星核を排除することを最優先としていた。


 雲騎軍にある訓練場にて。
 金属同士のぶつかる音がする。その他に剣が風を切る音が響く。
 少年の周りに5本の剣が展開する。金の髪を1つに縛り、自信と余裕の満ちた目で少年はまず1本の剣を相手に放った。予想通りそれは避けられ、すかさず新たな剣を投げる。今度それは相手の持つ武器である偃月刀によって弾かれた。きっとこのままでは何度やっても結果は同じだろうと予想した少年は、展開していた剣を片付けた。
 
「小手調べは終わりだよ!」
 
 そうして再び少年は剣を召喚する。でもそれは以前のような細剣ではなく、身の丈以上もある大剣だ。少年は自分のコレクションである剣を披露できる瞬間がとても楽しくて仕方がない。だから相手の降参も聞かずに、容赦なく相手へ向けて剣を投げつけた。衝撃音のあとに砂が舞う。勝負はもう付いていた。

「彦卿くん、もう無理…………」
 
 大剣の攻撃をぎりぎりのところで躱せた橙夏はバランスを崩して尻餅を付いた。ようやく視界が晴れたところで彦卿は橙夏の方へ駆け寄っていく。「橙夏お姉さん、大丈夫?」と心配そうな表情で差し出された彦卿の手を取り、橙夏は「よいしょ」と立ち上がってスカートに付いた砂埃を払う。

「今回も僕の勝ちだね!」
 
 彦卿が腰に手を当てて自信満々に言い放つその様子は、まさに「えへん!」と言っているようでもあった。
 彼の発言から分かるように、橙夏と彦卿が手合わせをしたのはこれが初めてではない。そもそもの話、橙夏は剣士でもなければ軍人でもない。それどころか彦卿は羅浮の最強剣士であり、景元将軍の唯一の護衛だ。彼がいるからこそ景元は自分の手の内を晒さないでいられるのだ。
 それでも橙夏が彦卿と手合わせしているのは一重に橙夏が景元と古い付き合いがあり、そして「雲上の五騎士」とも関係があったからだった。
 彦卿は羅浮で一番強い剣士に送られる称号である「剣首」を目指している。彼の向上心は止まらず、伝説の英雄たちと知り合いだった橙夏の腕前も見てみたいと願ったことが手合わせの始まりだった。
 最初こそ橙夏は断ったものの彦卿が引き下がることはなく「1回だけ!」というお願いを聞いてあげたのだが、いつの間にか今でもこうして手合わせは定期的に開催されていた。

「橙夏お姉さん、腕の方はどう?」
「うん、もう特に問題ないみたい」
「それはよかった!」
 
 橙夏は手を握ったり腕を動かしたりして違和感が残っていないか確かめてみる。あの夜──刃の襲撃を受けてから数日が経とうとしていた。
 あの後、運よく見回りに来ていた雲騎軍の兵士が橙夏を見つけてくれたことで彼は丹鼎司の龍女を呼んでくれて、やってきた百露が的確に処置してくれたことで大事にはならずに怪我もすぐに治っていった。あの夜が嘘だったのではと想像してしまうぐらいには、もう傷跡も残っていない。
 
「2人共、お疲れさま」
 
 すると今まで2人の様子を眺めていた景元が言葉を発した。彼は毎回こうして手合わせの監督役を務めてくれていた。その景元の手にはひとつの手提げ袋が握られている。「不夜候」の文字が入ったそれは、橙夏もお気に入りのお茶屋さんのものだ。
 
「ちょうど不夜候が江戸星から取り寄せた最中が入荷したみたいでね。みんなで一緒にどうだい?」
 
 あまりに魅力的すぎる提案に、橙夏と彦卿は一度顔を見合わせる。そして「食べる!」という言葉が重なったタイミングは同じだった。


 暖かな太陽のひざしが降り注ぐ。
 最中を一口食べるとパリパリとした皮と小豆の粒々とした食感、そして餡子の甘さが口いっぱいに広がる。そこに淹れたてのお茶を飲むと苦さがちょうどよく、橙夏は自然と「美味しい……」と呟いていた。隣に座る彦卿も最中を食べ、同じように「美味しい!」と感想を景元に伝えている。今3人は長椅子に座っていて真ん中に彦卿、そして彼の右手側には橙夏が座り、左手側には景元という位置で座っていた。しばらく橙夏は最中の味を楽しんでいたが、「でも……」と先ほどとは変わって不安そうに呟いたのは彦卿だった。彼が手にしていた最中は既に半分以上が食べられていた。
 
「橙夏お姉さんの剣筋、いつもと違った」
「え……そ、そうかな」
「うん。こう……どこか迷いがあるというか……お姉さん、何かあった?」
 
 彦卿の言葉に、景元も「おや」と橙夏の方へと顔を向けている。橙夏自身は特にいつも通りに戦っていたつもりだったが、根っからの剣士である彦卿にはたった少しの違和感でも誤魔化せないのだろう。実際に橙夏に何かあったのは本当だからだ。
 しかしここで橙夏は今回の件について、彦卿にどこまで伝えるべきなのか迷っていた。きっと彦卿が現時点で知っていることは、橙夏を襲ったのは「星核ハンターで宇宙一の指名手配犯である刃」であり、橙夏と知り合いで雲上の五騎士として景元と共に肩を並べた「応星」ではない。刃の変化に動揺したことがきっと今回の戦いに影響してしまったのだろうと橙夏は予想したが、そこまでは彦卿に言うつもりはなかった。ちらりと橙夏は景元の方を見る。彼は特に何でもないようにお茶をすすっていた。
 
「ううん、何でもないよ。心配してくれてありがとう」
「そう?ならいいんだ」
 
 再び橙夏は最中を口にする。甘さが疲れた身体に染みわたっていき、みるみるうちに回復していく。橙夏にとって、美味しいものを食べるこの時がなによりも至福のひとときだった。
 
 穏やかな時間が過ぎ去っていく。それでも羅浮に持ち込まれた星核は、沸々とその開花の時を待ちわびていた。

       


 
 いつも穏やかな太卜司内も今日はどこか慌ただしい。それはつい先ほど、太卜司の長である符玄が指名手配犯であるカフカを捕らえたという知らせが入ったからであった。カフカの尋問をするためには窮観の陣を使う必要がある。
 窮観の陣は羅浮の航路と未来を視る演算機だ。卜算した結果を情報として入力すれば、大体の未来を調べることができる。つまりそれはいわゆる「占い」というものにあたり、太卜司に所属する卜者なら大抵は可能とするものだ。
 そして符玄ほどの腕前にもなると未来だけではなく、過去を視ることもできる。星核ハンターには未来の筋書きを書く「脚本家」がいるという。それなら過去では一体どんな経緯でこの状況となったのかを調べればいい、という結論になったのだ。 
 そのためには色々と準備を進めなければならないのだが、ただでさえ最近は星核のこともあり人手が足りずにまさに逼迫している状況だった。
 しかしそこへ新たな助っ人がやってくる。それこそ符玄と共にカフカを捕らえたナナシビト──星穹列車の面々だった。現在青雀が長楽天にいる彼等を連れてくるために派遣されており、その帰りを待っているところだ。

「あの……太卜様?私は別に居なくてもいいのでは……」
「馬鹿ね。あの女の仲間にやられた貴方も傍聴しなくてどうするの」
 
 符玄の声音にはどこか怒りが込められていた。少なからず彼女も部下である橙夏が星核ハンターにやられたことに怒りを抱いていた。ごもっともすぎる返しに橙夏は何も言えない。
 
「太卜様、ただいま戻りました

 ぴりぴりとした空気が漂う中、気の抜けた声がする。星穹列車の面々を迎えに行っていた青雀が戻ってきたのだ。彼女の周りは接渡使とされる狐族の女性の他に、3人の人物がいた。きっと彼等がナナシビトなのだろうと想像しつつ、橙夏はいつものように挨拶をした。
 
「初めまして。卜者の橙夏です。よろしくね」
「どうも、銀河打者です」
「ちょっと!こんな時にアンタ何やってるの!?」
「え、えっと……」
「ウチは三月なのか!で、こっちが穹。それから後ろにいるのはヨウおじちゃん!」
 
  紹介された順に橙夏は3人を見ていく。今話していたピンク髪の少女が三月なのかで、その後ろに控えている落ち着いた雰囲気のある眼鏡をした茶髪の男性がヴェルト・ヨウ。そして自らを「銀河打者」と名乗った青年が穹。3人とも羅浮では見慣れない服装を着ていたためにそれなりに目立つし覚えやすい。そして最後に狐族である女性は自らを停雲と名乗り、接渡使として羅浮に商談に来た際に魔陰の身に囲まれたところを列車の面々に助けてもらったのだということを教えてくれた。羅浮に来たばかりだというのにすぐに魔陰の身を相手にできたとは、それなりに戦闘の場数を踏んできたことが窺える。
  
「魔陰の身にすぐ対処できるなんて……もしかして、今までも色々な敵と戦ってきたの?」
「そりゃあね!最初は驚いたけど……でもウチらは開拓者だからね!どんな敵だってやっつけちゃうんだから!」
「へえ……他の星にはどんな敵がいるのか気になるなあ」
「例えば……って言っても説明が難しいな。橙夏さん、スマホ持ってる?」
 
 穹にそう言われて橙夏が「持ってるよ」と答えると、彼からアーカイブとして纏められたデータが送られてくる。ファイルを解凍するとそこには今まで出会ったであろう敵の情報が整理されており、生息地から種類までバッチリとラベリングされていた。ざっと見ただけでもかなり丁寧に纏められている。非常に見やすく、橙夏は無意識のうちに感嘆の声を漏らしていた。
 
「すごい……穹くん、これ誰がまとめたの!?」
「これは俺の仲間が纏めてくれて……ああ、今はここにはいないんだけどな」
「いない?」
「最初羅浮には行けないって言ってたんだ。結局こっちに来てるみたいだけど上手く連絡が取れなくて」
「そっか……いつか会えるといいね」
 
 この時の穹の目は仲間をとても心配しているようであり、彼にとってその人がどんな存在であるか見てとれる。仲間と離れ離れになってしまうのは辛いことだと橙夏は既に知っている。だからこの時穹に返した言葉は本心だった。
 思わず会話に花を咲かせていた2人だったが後ろから「コホン」という符玄の咳払いが聞こえ、ようやく当初の目的を思い出す。ここへやってきたのはカフカの尋問をするためで、窮?の陣を使うためにはまず太卜司にある「空間」「因果」「時間」を司る機械をそれぞれ起動させなくてはいけない。穹たちはそれを任されることになる。
 
「おまえたち、頼んだわよ」

 穹たちが機械のある場所へ向かったことを見届けたあと、橙夏は先ほど穹から渡されたアーカイブのデータを見返していた。中でも橙夏の目に留まったのは星神ナヌークに仕える「反物質レギオン」と呼ばれるものたちだ。羅浮で相手する敵といえば「豊穣の忌み物」がほとんどであり、レギオンたちは見慣れない形状をしている。前情報なしで会敵したらどう対象していいか分からないところだろう。情報に夢中になっていた橙夏だったが、符玄に名前を呼ばれて意識が現実へと戻っていく。
 
「太卜様、なんでしょう?」
「念のため、お前もカフカに聞きたいことを考えておきなさい」
 
 聞きたいこと──そこから先日のことが思い出され、橙夏は少し身体を強ばらせる。どうしてか考えようとすると胸騒ぎがして仕方ないのだ。どうにかしてこの場から逃げ出したくても、ここで働いている以上それは許されない。尋問が穏やかに終わることをただひたすら願うばかりだった。



 穹たちが戻ってきたのは数分も経たないうちだった。準備はいいかという符玄の問いに穹が頷くと、彼女は雲騎軍へと連絡を入れた。それからほどなくしてようやく──今回の犯人であるカフカが、兵士に連れられてくる。その姿は指名手配書にあるような見慣れた格好ではなく、いつも付けているサングラスもなければ黒いコートも着ていない、さらに目や口元に施されている化粧すら落とされた「素」のカフカが立っていた。あまりに大掛かりな尋問に、カフカは少しだけ不満そうに愚痴を零す。なにをしなくても言うことを聞くのに、と。

「人の心を惑わす魔女の言葉なんて聞きたくないわ。私が信じられるのは窮観の陣の結果だもの」
「そう……なら私の運命を見届けてちょうだいね」
 
 「見届けて」という単語がカフカの口から出た瞬間、思わず橙夏はカフカに視線を向けてしまった。たった一瞬だというのに、すぐ目を逸らしても橙夏の身体には蜘蛛の糸が纏わり付いたような感覚に陥る。どんなにそれを振り払おうとしても、気持ち悪いその感覚が拭えることはなかった。
 
 カフカが陣の中心に立ったことで、いよいよ尋問が開始される。まずは符玄が魔法陣を展開させ、それが窮観の陣と共鳴して符玄がカフカの過去を読み取っていく。しばらくお互い無言のまま見つめ合っていた2人だったが、先に変化を見せたのは符玄の方だった。その表情は何か信じられないものを見たようなもので、符玄は「そんな……!」と驚きを見せている。橙夏が「太卜様?」と問いかけても符玄が言葉を返すことはない。これだけ余裕のない符玄は珍しい。それだけ彼女が見たものが予想外だったということだ。対するカフカは相変わらず落ち着いている。きっと彼女にとっては、こうなることも脚本に書かれた既に確定した未来だったのだろう。橙夏には余裕のある顔は勝ち誇ったようにも見えていた。
 
「どう?私の真相は気に入った?」
「カフカと星核は無関係……まさか、おまえたちが……」
 
 符玄が列車の面々へ目を向ける。彼らがどうしたのだろうか、橙夏が聞こうとしたことを穹が問いかける。しかし符玄は質問に答えず、時間は十分にあるから自分たちで確かめろと言い返した。今は一分一秒すら惜しいというような様子だ。
 
「このことを将軍に伝えに行かなくては……私は先に失礼させてもらう。橙夏はここで彼らを見届けなさい」
 
 そう言って符玄は足早にこの場を離れていった。次にカフカへ問いかけたのは、やはり穹だった。彼は堂々とカフカに質問を投げかけている。2人のやり取りを見ながら、橙夏は穹とカフカが今回で初対面ではないのだろうということを何となく察していた。
 先ほどとは違い、カフカは穏やかに問いに答えていく──星核ハンターは仙舟の敵ではないこと。つまり、星核を持ち込んだのは彼らではないということだ。このことを知ったから符玄はあんなに慌てたのだろうと、橙夏は聞きながら合点がいく。そして橙夏がそれよりも衝撃的だったのは、黒幕ではない彼らがわざわざ仙舟に現れて今回の星核と関係があるように見せたのは、「星穹列車と仙舟をつなぐため」ということだった。いずれ敵対するであろう壊滅の星神ナヌークに対抗するためには同じ星神の力が必要となる。そのために、羅浮で英雄になることで仙舟に貸しを作ることが目的だった。そうすれば必然的に仙舟と契約を結んでいる巡守の星神とも縁ができるからだ。
 そこまで聞いて、橙夏はひとつある疑問が生まれる。それはどうして自分が刃にあの時襲われたのかということだ。列車と仙舟の縁を作るなら、自分の存在は必要ないはずだ。そんな橙夏の脳内を見透かしたようにカフカが言葉を続ける。
 
「あの時彼女を襲ったのは、その方がより「らしい」からよ。ほら、捕まるためにも理由がいるでしょう?映画にだって演出は必要だもの。だからエリオは彼女をエキストラにしたの──見届け役としてね」

 またこの言葉だ。刃もカフカも、自分のことを「見届け役」と言うのだ。それはどうしてなのか、今の橙夏がカフカに橙夏がそれを尋ねたくても聞くことはできない。なぜなら橙夏はこの問答の見届け役だったからだ。

 
 穹とカフカの問答は暫く続いた。どうして彼らがここまでして仙舟との縁を作ろうとしているのか、一体未来では何が起きようとしているのか。どれもこれも大切なことのはずなのに、橙夏の頭には先ほどのカフカの言葉がこびりついて話が入ってこない。
 
「待って。……そろそろ時間よ」
 
 今まで淡々と問いに答えていたカフカが突然それを遮り、長楽天の方向に目を向けている。橙夏も同じようにしてそちらを見ると、地鳴りがした後に今まで枯れていたはずの建木が急成長を始め、花を開花させた。
 ひらひらと、建木の花びらが羅浮全体に舞い散っている。綺麗とも不気味とも取れるそれは、あまりにもあり得ない光景だった。
 
「あっ……待ちなさい!」
 
 みんなが現状に唖然としているところで、カフカは窮観の陣から抜け出してこの場から逃げようとする。橙夏が気づいて武器を取り声をかけたことで、穹もともにカフカを追いかけようとしたが妨害が入った。何も言わずに剣の切っ先を向けてきた人物を見て、橙夏の足がつい竦む。その人物こそ、先日橙夏を襲った刃だったからだ。
  
「あ…………」
「…………」
「行くわよ、刃ちゃん」
 
 カフカの合図で刃は剣を下ろし、カフカとともに太卜司から飛び降りていく。飛び降りた先を確認しても、もう彼らはどこにも居なかった。あの時とは違って空は明るく、相手の表情もはっきりと見ることができた。どうしてか、橙夏には刃のその目がとても悲しいように映っていた。




 列車の一行が符玄のいる区画へ向かうと、そこではちょうど符玄とホログラムで投影された景元が話し合っているところだった。内容はきっとこれからどう動いて行くかということだろう。建木と星核が関係していることは明らかで、それを狩ることが一番の目的となる。
 
「星核ハンターが列車と仙舟を結びつけるためにこんなことをしたのなら、それを利用しようじゃないか」
「また俺たちをパシリにするのか?」
 
 当たり前のように言い放った景元に穹は不満を隠さない。このやり取りを見ただけで、橙夏には列車の面々が今まで景元と何があったのか軽く想像できてしまった。
 建木──それは羅浮に植えつけられた巨大な木で、元はといえば長命を叶える「豊穣」の力を授けたものである。後にその力は「呪い」とされ、仙舟を守る巡守の星神の弓によって狩られて以来、その力は封印されていた。開花したのは、十中八九持ち込まれた星核の影響であることは明白だった。
 羅浮には悪とされている「豊穣」を信仰し、魔陰の身に落ちることこそが幸福だという思想を持つ「薬王秘伝」と呼ばれる集団が何百年も前から存在している。奇しくも彼らの本拠地は、建木が植えてある鱗淵境から一番近いという丹鼎司だった。力を拡大したくても上手くいかない現状に、薬王秘伝の連中も痺れを切らしたのだろう。しかしこれは羅浮にとっては彼らを根絶やしにできる好機でもあった。
 景元は将軍という立場上、気軽に動くことは出来ない。そのため時期将軍を目指す符玄に雲騎軍の指揮権を譲与し、星穹列車の開拓者たちを正式に星核封じの策を行うために招き入れたのだ。
 
「君たちには工造司を通り、丹鼎司に向かって符玄殿と合流して策を練ってほしい。道案内は引き続き停雲殿に任せるとしよう。……丹鼎司に関して、本来なら橙夏に同行してほしかったのだが」
 
 ちらりと景元から目線を向けられ、橙夏は首を横に振る。
 確かにこの中で橙夏は丹鼎司に関して一番詳しいだろう。元々丹鼎司で生まれ、丹士として過ごした橙夏は次第に薬の調合士としての腕前を開花させていった。それが持明族である龍師の目に止まったことで、後に「飲月」の称号を継承する先代の龍尊である丹楓と知り合うきっかけとなった。彼とは人生をともにする間柄にまでなるが、それも「飲月の乱」が起きるまでのことだ。それ以降は龍師たちと龍尊に対する考えの違いから軋轢が生じ、橙夏は丹鼎司と縁を切ることとなった。
 だから、いくら景元のお願いといえどそれを受け入れることはできない。何より彼は橙夏のこの過去も知っている。だからこそ橙夏は否定の意志をはっきりと示したのだ。
 
「君にはこのまま太卜司で警戒にあたってほしい」
「……なんだか申し訳ないね、気を遣わせちゃって」
「ははは。卜者なんだ、仕事場にいるのは当然だろう?」
「あー……そうだね」
 
 いつものように景元に言い返せなかったことに、橙夏はやれやれとため息を吐く。でもようやく今後どうするのかという方針が出来たことで解散し、それぞれ目的を果たすべく行動を開始していく。
 相変わらず司内ではひらひらと建木の花びらが舞い散っている。一体これからどうなって行くか分からないという不安は依然としてあるけれど、羅浮で何かが起きているということは確かだった。