- ナノ -



 夢とは眠っている時に見るものである。内容は人それぞれであり、それが現実的であるものや、あまりにも「おかしい」というものまで様々だ。どちらも起きた時に強い印象を与えしばらく記憶に残ることがあるが、時間が経てばいつのまにか忘れてしまうことが大抵であった。


 朝になり、カーテンの隙間からは光が伸びている。外では雀の鳴き声が聞こえてきて、清々しい青空が広がっていることがカーテンを開けなくても想像できる。しかし今しがた目を覚ました結萌は、空とは正反対のどんよりとした気分だった。
 原因は先ほどまでに見ていた夢にある。それには蛇と兎が出てくるもので、種族が違うというのに仲睦まじい様子のものだった。しかし最後の方になるとどちらも年老いており、なにを思ったのか兎は蛇に食べられてしまうのだ。しかもじっと蛇に見つめられたあと抵抗せずに、というものだった。あんなに仲がよさそうだったのに、どうしてそんなことをしたのか結萌は理解できなかった。こんなにも気分が落ち込んだ理由はひとつ、結萌が夢に出てくる兎と同じ種族だったこともある。しかもこの夢を見たのは今回が初めてではない。不定期に見るもので、それも必ず「初夢」と呼ばれる時にだけ見るものだった。子供の頃の結萌は、最終的に食べられてしまうこの夢が嫌いだった。できれば見たくないと思っていた夢は、大人になっていくにつれて見る回数も減っていた。
 
 この世界には、色々な種族が存在している。それだけなら特に何も不思議なことではないが、彼等は進化を遂げて「ヒト」と同じカタチを持つことができた。そのお陰で異種族同士の恋愛も可能となったのだ。だからこの世界では「弱肉強食」が成立しないこともある。捕食者と被捕食者が集まっても、恋人という関係に行き着く可能性もあった。だからこそ、結萌はこのタイミングでこの夢を見てしまったことに非常に嫌なものを感じてしまった。結萌の大事な人も、夢に出てきた「蛇」だったからだ。
 今日は午後から会うことになっており、いわゆるそれはデートというものであった。そんな時に水を差されてしまった気持ちだった。彼が自分を食べるなんてことがないと、結萌は自分に言い聞かせてみせる。だがしかし結萌の頭にある耳は、自信なさげに垂れたままだ。こうなってしまうと、結萌は今日見た夢の話を彼に話したくなってしまう。そして「そんなことはない」と直接彼に──忠の声で否定してほしかった。それからは結萌のなかで午後からのデートが、よりいっそう待ち遠しいものになってしまった。


 真っ青な空は一度も曇ることはなく、午後になっても太陽が顔を出している。神道邸の庭園では、蛇と兎だけの優雅なティータイムが開かれていた。今ここに使用人といった人たちの姿は見られず、もちろん主人である孔雀の愛之介もいない。2人の時間を拵えたのも、元はといえば愛之介の計らいによるものだった。
 紆余曲折あって愛之介の一押しによって恋人となった忠と結萌ではあるが、彼等の進展は実に亀が歩くような速さであった。基本的にどちらも他者を優先する性格で、時々会えるだけでも十分でそれ以上は望まなかったこともあり、特に今までデートらしいデートといったものもしたことがない。それを見かねた愛之介が「たまには戯れろ」とこの機会を設けてくれたのだ。愛之介は愛之介なりに「羽を伸ばしたい」といった理由で使用人たちに休めと言い渡しており、それは今はもう地位もない伯母たちにとっても同じことであった。そういった経緯もあり、今ここには忠と結萌しかいなかった。2人だけというのも不思議なもので、結萌には馴染みのある庭園がいつもと違うようなものに見えていた。

「美味しい!うん、忠くんにお願いしてよかった」
「そうか。結萌が準備してくれた珈琲も美味しいぞ」
 今回、2人はそれぞれティータイムで使う飲み物を持ち寄っていた。忠は結萌のために紅茶を、そして結萌は忠のために珈琲を淹れた。ケーキスタンドにあったケーキは、既に結萌によって食べられている。そもそも結萌の好きなものしか乗せていなかったわけだが、嬉しそうな表情をする結萌の頭にある兎の耳は揺れ動いていた。 
 動物がヒトと同じような形を取れるようになったけれど、それは「完全に」というわけではななった。忠は蛇であるため一目見ただけでは分からないが、犬や猫といった種族はヒトの形態になった際、いくつかその特徴が残ることがあった。特に耳や尻尾といったものが一番残りやすい部分だった。日中は大抵仕舞うこともできるが、周りを気にしない時やリラックスしている時などは普通に出ており、兎である結萌もそれは一緒であった。忠は感情を表現するこの耳の動きを見ることが好きだった。
 結萌の表情こそ満ちあふれたものであるが、忠の目にはどこか耳がしょんぼりと垂れているように映っていた。気になった忠は、何かあったのかと自然と結萌に尋ねていた。

「えっと…………」
 忠に尋ねられたことで、結萌は今朝見てしまった夢の内容を思い出す。今まですっかり忘れていたこともあって、結萌の耳は更に悲しそう垂れた。この際なら忠に否定してもらおうと思った結萌は、本当は言いたくなかったけれどおかしな夢のことをゆっくりと話し出した。
 子供の頃に不定期に見るもので、それも初夢の日に必ず見ること。蛇と兎が出てくること。とても仲良さそうなのに、年老いた頃には兎は蛇に食べられてしまうこと。特に兎であった結萌自身は起きた後後味が悪く、見たくないと思っていたこと。そして久しぶりに、今日この夢を見てしまったこと。
 結萌から内容を聞いたとき、忠は素直にその蛇に対して「羨ましい」という感情を抱いてしまった。愛おしい人と共に過ごし、最期は愛おしいものを食べて終える。きっとそれは何ものにも代えがたいもので、その蛇にとってはその兎しかいなかったのだ。途端に、忠の中に「結萌を食べたい」という欲が湧き上がってくる。その肌に牙を立てたらどんな味がするのだろうかという、いけない感情がどんどんと溢れていく。あの蛇はそれをできたのだから、忠にはそれが羨ましくて仕方がなかった。
 
「せっかく忠くんと会える日なのに、こんな話題嫌だよね。忠くんも兎なんて食べたくないでしょ?」
「……羨ましいな」
 この夢を否定してもらえると願っていた結萌にとって、忠のその反応は裏切られたような気分だった。どうしてそんな考えに行き着くのか分からないと結萌が言葉を返せずに呆然としていると、忠が「結萌」と名前を呼ぶ。名前を呼ばれた結萌は忠の方へと視線を移して、じっと見つめられていたことに気がついて思わず息を飲んだ。
 この状況を、どこかで見たことがあるのだ。
 それはまさに、結萌が夢で見た兎の最期と同じだった。食べられる前、兎は蛇と目を合わせていたのだ。結萌は目を逸らせないどころか、心臓がばくばくと音を立てて煩くなっていた。
 
「結萌」
 
 もう一度、忠が結萌の名前を呼ぶ。そして忠は椅子から立ち上がったあと、前のめりになって結萌の腕を引いて無理矢理立ち上がらせ、有無を言わせずに唇を重ねた。蛇の舌のように二股に分かれたそれが結萌の腔内を犯し、容赦なく舌へと絡み付く。どこかそれは結萌を「食べられている」という感覚に陥らせた。だが、それでも結萌は嫌ではなかった。
 がちゃん、とデーブルの上にあったカップが揺れる。きっと紅茶が零れてしまっただろうが、そんなことは今の結萌にはどうでもいいことだった。
 もっと自分を食べてほしいと忠に応えるようにして深く口付けを交わしていく。この時、ついに結萌はあの夢の意味を理解するのだ。あれは弱肉強食なんかではなく、愛によるやさしい捕食だったのだと。