年末を迎えた神道邸では、使用人たちが忙しなく働いていた。新年を迎えるための大掃除をしていたのである。
その役割は結萌にも回ってきており、結萌は倉庫のように使われている物置部屋の掃除を任されていた。掃除となると、懐かしいものが見つかったりしてつい手が止まってしまう。その度に「いけない」と意識して手を進めた結萌だったが、今回ばかりは手を止めざるを得なかった。それは文房具屋でよく見かけるデザインをした日記帳であり、おなまえと書かれた欄には丁寧な文字で「きくちただし」という名前が記されていた。結萌が手にとったそれは、もう何十年も前に出されたであろう忠が小学生の頃に書いた夏休みの宿題の日記帳だった。
本来ならこのまま片付けるというのが正解なのだろう。だが興味が沸いてしまった結萌は、申し訳ないと思いながらもその中身をぱらぱらと捲って覗いていく。内容としては「庭の手入れをした」といった父親の手伝いをしたというものと、やはり愛之介との思い出が書かれていた。この頃からそれは変わっていないのだと分かり、結萌の顔から自然と笑みが零れた。
「あれ……?」
しかし、31日で終わるはずの日記帳には次の日付が続いていた。8月32日と書かれたそこには、今までと同じようにして日記が残されている。だが「私にはやりたいことがあります」という一文がはっきり見えただけで、あと他の文字は上手く読み取ることが出来ない。辛うじて読めたものは「園」「作」「3」というたったの三文字だけだった。
3人だけの楽園を作る──自分なりに答えを導き出してみた結萌だったが、どうも違うような気がするのだ。完全に片付けを進める手が止まり暗号を解こうとしていた結萌だったが、ガチャリと部屋の扉を開ける音に結萌の体はびくりと反応する。扉を開けたのは、まさに日記帳の持ち主である忠だった。
「結萌さま、お疲れさまです。そろそろ休憩にしませんか?もうじきお茶の準備ができますよ」
「ありがとう。……ふふ、ねえ忠くん、これ見て!」
じゃーん!と日記帳を忠に見せると、彼はそこに何が書かれていたのかを把握したのか、ため息を吐きながら顔を覆った。忠にとっては、まるで黒歴史が見つかってしまった時のような気分であった。
「やめてくれ……どうしてそんなものを……」
「片付けしてたら見つけたの!そうだ、この日記面白いものがあってね……あれ?」
「どうした?」
「31日のあと、まだ日付が続いていたはずなんだけど……」
先ほどのように結萌が日記帳を調べてみても32日のページが見つからない。それはどこにでもある小学生の夏休みの宿題に戻っていた。
「やっぱり疲れてるんじゃないか?」
「うーん……そんなことないんだけどな……あ、これどうする?とっておく?」
「……処分しておいてくれ」
忠の言葉に、結萌は分かったと返事をする。だが結萌は結局その日記帳を捨てることは出来なかった。何より幼少期の忠の、大切な記憶なのだ。それを処分なんて結萌にはできるはずもなく、結萌は休憩室へと向かう前に自室に行き、本棚の目立たない場所へその日記帳をしまうのだった。
あれから月日は流れ、8ヶ月が経とうとしていた。夏の沖縄は蒸し暑く暑さが厳しい。夜になってもまだじっとりとした暑さが残り、寝苦しい夜が続いていた。
それでも空調が効いた神道邸では、暑さなどお構いなしであった。結萌の部屋も適度な温度が保たれていて過ごしやすくなっている。
「もう9月かあ……」
結萌の視線の先には、壁に立てかけてあるカレンダーがあった。深夜0時を回ったことにより日付が変わり、31日が終わった。8月と描かれたカレンダーの役目もなくなり、結萌は1枚剥がしゴミ箱へと捨てる。
そうして結萌は眠りに就く前に、寝る前に読んでいた本を開いた。今読んでいる物語はとても惹かれるもので、つい夢中になってしまうのだ。この日も結萌はかなり遅くまで読んでしまった。日の出が早い夏は、既に外が明るくなり始めていた。
数時間後、目が覚めた結萌はベッドから起き上がる。いくら空調の効いた部屋といえど、さすがに全く汗をかかないというわけにもいかず、べっとりとした不快感が体に纏わりついている。早くすっきりしたくなった結萌はシャワーを浴びるために浴室へと向かう。その間はまだ意識が覚醒していなかったこともあり、結萌は屋敷内の変化に何も気づいてはいなかった。
汗を落としてさっぱりとした結萌は、朝食を摂るために食堂へと向かう。だがようやくその時に、屋敷内が静かすぎることに疑問を抱いた。思い返すと、結萌は起きてから今までに誰ともすれ違っていないのだ。いつもならば使用人といった人とも会うはずなのだが、今は人の気配すらしない。
ひとつ、結萌の背中に嫌なものが走る。異常を察知しながら結萌は他に誰かいないか部屋ひとつひとつを調べあげたが、やはり誰ともすれ違うことはなかった。それでも結萌は諦めずに屋敷を飛び出し、庭園へと向かう。真夏だけあって照りつけるような日差しに、結萌は一瞬目を細めた。そして焦っていたせいかこの時真夏だというのに、結萌はセミや虫たちの鳴き声が全然聞こえないことに対して何も感じていなかった。
薔薇の通路を抜けたところで、結萌は人影をみつけて声をあげる。しかし振り向いた人物を見た時、結萌は自分が見えている世界が信じられなくなった。
「……やっと来てくれたのですね。結萌さまなら、来てくれると信じていました」
大事にボードを抱えている人物は、子供の頃の忠だった。しかも彼の手に握られているものは自分のボードではなく、「Till death do us part」と描かれた愛抱夢のボードであった。この世界に幼い頃の忠がいることもありえないが、その彼が愛抱夢を知っているということも不可解な話だ。この世界はなにかがおかしいと嫌でも分かる。穏やかに微笑む忠に対し、結萌は警戒心を緩めずに言葉を返す。
「どうして、私を待っていたの?」
「覚えていないのですか?結萌さまは私の「やりたいこと」を見てくれたでしょう」
「!」
不意に、結萌は去年年末での大掃除のことを思い出した。確かあの時、変な日記帳を見つけたのだ。あの三文字は何だったのか──その答えは今でも見つかっていない。だがしかし、ようやくそれが分かる時がきたのだ。
「愛之介さまと結萌さまと私がすごせる、楽園を作りたいのです」
8か月前、結萌が予想した答えは大体あたっていた。しかし他にも言葉があったはずだ。「3」の正体は自分たちのことではなかった。このとき結萌はこれ以上深入りしてはいけないと頭では理解していたのだが、自然と口が「3」の答えを聞き出していた。
「……ねえ。他にもあったよね?」
「ああ、それですか。ずっとずっと消したいのに、消えてくれないんです。どうしたら消えてくれると思いますか?」
至極当然のように言われ、結萌は一歩後ずさる。この屋敷で他に3が示すものは「彼女たち」以外ありえない。ずっとあの頃から彼は叔母たちを消そうと企んでいたのかと思うと、既に正常な思考ではなかった結萌はそこから逃げるようにして自分の部屋へと戻った。
「……あった」
自室で結萌が探したものは、あの時本棚に保存した忠の日記帳だ。急いで中身を調べて見ると、しっかりと内容が記されている。こんなものを破り捨ててしまえば元に戻るはずだと考えた結萌は、片付けをした時とは真逆に容赦なくページを剥いでそれをゴミ箱へと入れていく。全部処理をして一息付いてから結萌は自室を出た。
廊下に出るとどことなく雰囲気が変わったような気がして、結萌はひとまず胸を撫で下ろす。あれはきっと白昼夢と呼ばれるようなものだろうと自分に言い聞かせていると、背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえて結萌は声のした方へと振り向いた。そこには先ほどの子供の頃ではなく、見慣れたスーツ姿の忠がいた。やっぱり元に戻ったのだと安心したが、次に忠が発した言葉に結萌はなにも返せなかった。
「今日はこのあと×園に行くのですよね」
忠が言った場所は果たして「楽園」なのか「庭園」なのか聞き取れなかったのだ。いつもならどちらなのか普通に聞きかえせるはずだ。だが、既にバグに蝕まれた結萌には正常な判断ができなかった。何より今目の前にいる忠は、ずっと前に結萌が撒いた種を回収しているにすぎないのだ。あの時結萌が日記帳を処分しなかったことによりできてしまった永遠と続くこの空間は、ある意味楽園だった。