- ナノ -


 Sという場所へ行くと誰だってスケートの魅力に囚われる。今まで滑っていたスケーターはより一層スケートが好きになり、見ているだけだった人はスケートをやってみたいという気持ちにさせる。
 花城結萌がスケートをやってみたいと言い出したのは、まさに熱気溢れるレースを終えたSの帰り道でだった。その一言を聞いた時忠も愛之介も一瞬だけ驚いた表情になったものの、それを否定することはなかった。それどころか「教えるのは忠の方がいい」と提案したのは愛之介だった。それだけではなく、彼は伯母たちの対処まで引き受けるとまで言ってくれたのだ。こうしてあれよあれよといううちに、結萌のスケート講座はそれぞれ予定のない来週に開かれることが決まった。



 夏でもないのに照りつける日差しが熱い。休みを迎えた結萌はこの日、神道邸の庭に、それもあの水が引かれていないプールに居た。格好はというと、結萌はSに参加する時に着ている動きやすいものだ。忠は相変わらずのスーツではあるが、暑いこともあり上着は脱いでいた。
 そして結萌の手には、忠に渡された初心者用のボードがあった。早速滑ってみようとした結萌だったが、そこで待ったをかけたのは他でもない忠だった。一体何だろうと結萌が返事をすると、忠は有無を言わさずにプロテクターを結萌に渡した。
 
「ええと……こんなに必要なの?」
「むしろ始めたての頃の方が転びやすいからな。しといて損はないだろう」
「そういうものなんだ……あ、そうだ!私、忠くんの滑りが見てみたいな!」
 準備をしながらそう言ってきた結萌に、初めこそ忠は断るつもりでいた。何より今回は時間も限られているし、あまり別なことに使いたくはなかったからだ。しかしきらきらとした結萌の期待を寄せる目を向けられてしまえば、もうそのお願いを却下することは出来なかった。
 自分のボードを用意した忠は、昔のようにいくつか技を選び滑ってみせる。それでも今回あまりトリックを決めなかったのは、結萌の興味を引かせないためだ。今日のスケートはあくまで「乗る」ことと「滑れるようになる」ことだ。だから余計なことをやろうとして怪我をさせることだけはどうしても避けたかったのだ。
 こうしてしばらくの間、庭園ではスケート講座が開かれていった。

 
 結果として、結萌がボードに乗れるようになるまでにかなり時間がかかっていた。利き足が分かったところでバランスを取ることは始めたての結萌にとっては難しく、気を抜けばすぐに転んでしまう。しかし傍で忠が見てくれていることもあって、結萌は転ぶことに対する恐怖心もなくなっていた。こうしてスケートを体験していくことで、どうしてあんなにみんなが「誰かと一緒に滑るのは楽しい」と言っていたのか、結萌はやっと理解できていた。
 なんとかボードに乗れるようになってから結萌が教えてもらったものはプッシュだ。これが結萌のスピード好きという心をくすぐり、滑っていくうちにもっともっと勢いを感じたいと思った結萌は地面を思いっきり蹴り加速させる。風を感じられたことに感動していた結萌だったが、そこで一つ問題も発生していた。前の方には壁があって行き止まりである。しかし止まり方がまだ上手くない結萌は、この勢いで降りることに恐怖心も抱いてしまった。先ほどしっかりと教えてもらったけれど、混乱していたせいでよく思い出せない。無意識のうちに前の方に重心をかけていた結萌の体はそのまま前方へと投げ出されていく。このままでは地面にぶつかってしまうと衝撃に備えて目を瞑った結萌だったが、痛みが広がることはなかった。
 
「大丈夫か?」
 掛けられた言葉を聞いてから結萌は目を開く。そして自分が遠くの方で見ていた忠に抱きとめられていることに気がついた結萌は離れようとしたのだが。忠はそれに気がついているのかいないのか、特に変わらない様子で結萌にアドバイスを伝えていく。
 
「そうだな……まずはゆっくり滑るところから始めてみるといい。それから、」
「あ、あのね、忠くん」
「?」
「その……そろそろ離してほしいかなって……」
 結萌のお願いに忠は少しだけどうしようかと迷ったが、すぐにそれを受け入れることにした。なにより結萌はスケートを初めたてであり、これからも同じような状況になることは十分に予想できたからだ。もう一度やってみると挑戦する結萌を見送りながら、忠は時計を確認する。残された時間はまだ残されている。これからのことを想像しながら結萌の練習風景を眺めている忠の表情には、自然と笑みが零れていた。

Special thanks:淵さま