- ナノ -


※未成年が喫煙しているシーンがあります。決して現実で推奨している行為ではないことをご了承ください
※高校時代の話です


 花城結萌は、最近とある悩みを抱えていた。それは誰にも言えないものだ。学校にはもちろん、家族にだって相談できるものではない。どちらにも相談すれば、それは大問題へと発展してしまうだろう。ただひとつ言えることがあるとするならば、それは結萌自身のことではないということだった。

 普段なら近隣住民から「うるさい」というクレームが入るぐらい騒がしいこの場所は、今夜は嘘のように静まり返っていた。いつもなら集まっているスケーターたちも、今日は他に誰ひとりいなかった。基本的に彼等は集まる日時を決めたりはしない。滑りたい時に滑るだけである。そのため、誰もここにいないということもごく稀にではあるが起きることがあった。特に今日は、先ほどまで雨が降っていたということも少なからず影響していた。
 今ここにいるのは、制服のままの結萌と愛之介の2人だけだ。結萌はちらりと横目で隣から立ち上るゆらゆらとした白い煙を見る。まさにこれこそが、現在結萌が抱えている悩みであった。
 いつからそうなったのかは分からないが、気がついた時には既に愛之介は煙草を吸うようになっていた。それも愛抱夢としてここに居る時だけであり、それ以外では決してそんな素振りは見せていない。ジョーやチェリーを始め周りの人たちからも何も言われないということは、こういったことは普通なのだろう。だが結萌は、いつか見つかってしまうのではないかと気が気でなかった。
 
「ねえ愛之介くん、帰ろうよ。……今ならまだ間に合うよ」
 時刻は間もなく22時を指そうとしている。そのため今家に帰れば補導されないということを言いたいのだろうと理解していながらも、愛之介は結萌の言葉を聞き流した。
 ただでさえ悪いことをして咎められ、更には煙草を吸っているところまで目撃されてしまったら停学すらあり得るのだ。それに愛之介の父親は、全国的にも名の知れた有名な政治家でもある。そんな人の子供が非行に走っていたなんて流れてしまえば、こぞって週刊誌は餌に食いついたように記事にするはずだ。
 
「……まだ、帰りたくないな」
 愛之介は煙草を吸って、白い息をひとつ吐き出す。愛之介が煙草を吸い始めたことは、家への当てつけでもあった。家に戻れば、伯母たちが「愛」と称した教育を与えてくるはずだ。それも一度だけではなく、自分が失敗する度に行われる。だったら一度にたくさん愛を与えてくれればいいと考えていた。それに、こんなクソみたいな家なんかなくなってしまえばいいとすら思っているところもあった。
 さらに理由はこれだけではない。最近は父の秘書になった忠との時間もめっきりと減っていたのだ。一緒にいることも、滑る時間もない。あろうことか、忠はやんわりと「スケートをやめろ」と言ってきたのだ。しかも直接的な言葉ではなく、遠回りで分かりにくいものだ。何より主人である愛一郎に言わされているのだと嫌でも分かってしまった。それが余計に愛之介の苛立ちを募らせていた。
 煙草を吸いながら、愛之介は隣に立っている結萌を見る。彼女はちらちらとこちらの様子を遠慮がちに伺っていた。結萌の言いたいことは、愛之介も何となく察しが付いている。そのため、煙を吐き出した後にあえて愛之介は煽るような一言を結萌に投げつけた。
 
「結萌も吸ってみるか?」
 愛之介の言葉に結萌の瞳が揺らぐ。確かに結萌は愛之介に喫煙を止めてほしいと願っていたが、完全にやめてほしいと言うことはできなかった。なぜなら、煙草を吸っている愛之介の姿がただ単純に好きだったからだ。未成年だというのにその姿はどこか色気を含んでおり、結萌の目を自然と惹いていた。一目見てから、あっという間に結萌はそれの虜になっていた。
 もし自分がやめるように言ってしまえば、もうこの姿が見られなくなってしまうはずだ。そう思うと、どうしてもやめてほしいという一言がすぐに出なかった。これでは自分も共犯者になってしまうが、だからこそ愛之介のその誘いは結萌にとってはまさに悪魔のささやきのようでもあった。闇夜でも映える紅い双眸が、よりいっそうそうさせていた。
 
「……美味しいの?」
 愛之介の魅力をこんなにも引き出す煙草というものはどんなものなのか、そして彼が好む味はどんなものなのか結萌は気になっていた。好きな人の好きなものは知りたいという、ありふれた心理によるものだ。既に結萌は善悪で物事を計れていなかった。 
 当然止めるように言われると予想していた愛之介は、結萌の問いかけに思わず目を瞬かせた。せっかく味を聞いてくれたのだから、結萌にも1本吸わせてやりたいというのが本音ではある。だがさすがにそうするわけにもいかなかった。機嫌をよくした愛之介は不適な笑みを浮かべながら咥えていた煙草を地面へと捨て、灯されていた火を足で消す。そして「結萌」と名前を呼んでからこちらに意識を向けた結萌の手を引いて、自分の唇を結萌の唇へと押し付けた。それは触れるだけの、シンプルなキスだった。

「……どう?」
 唇を離したあと、愛之介は結萌にそう尋ねる。今吸っているものは、愛之介の中でも特にお気に入りのフレーバーだ。結萌に気に入ってもらえるなら、これほど胸が躍ることはない。早く結萌の感想が聞きたい──結萌が口を開くまでそんなに時間はかかってはいないが、愛之介にとってはとても長く、胸を焦がす思いだった。

「お……」
「お?」
「美味しくない!」
「な、ウソだろ……!?」
 信じたくないと結萌の表情を見てみても、彼女の顔は苦味が気に入らなかったのか眉間に皺を寄せている。さすがにこの一言は愛之介にとってはショックであり、それは煙草をやめろと言われることよりも大きいものだった。
 気を紛らわすように、愛之介は次の煙草を吸おうとポケットにある箱を取り出そうとする。だが、この時愛之介の腕を掴んだのは意外にも結萌の方だった。
 
「……、でも……その……、もし次に同じことするなら、違う味にして」
 こちらを見ずに目を逸らしながらも言う結萌の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。あまりにも可愛すぎるお願いに、愛之介は「分かった」と返事をしてやりたかったが、すぐに言葉を返すことが出来なかった。
 今愛之介が吸っている煙草はお気に入りの味であり、大事に大事に使っているものだ。他に誰にも見つからないようにしているそれは、まだ箱の中で半分以上も本数が残っている。だというのにあんなにも大好きだったフレーバーが、結萌の一言で真逆のものへと変わってしまっていた。だからといって、新しいものを買うわけにもいかない。今のものをどう処分するかという問題も増えてくるうえに家族なんかに見つかったりしたら、それこそ何をされるか分からない。一体どうしたものかと、愛之介はフードを目深に被って自分の顔を結萌に見せないようにする。そして誰にも聞こえないような小さな声で「……まいったな」と呟いた。