- ナノ -

 愛抱夢とスノーの最終戦はいつも使われているコースではなく、Sが開設された当初使用されていた場所で行われた。そこはまさに墓場という言葉が似合うところであり、レキによって完璧な絶対王者であり魔王という仮面を壊され、スネークが棄権したことにより忠と滑ることすら叶うことはなく、絶望を抱えた愛抱夢は死装束を纏っていた。そして最終戦で愛抱夢は死んだ。しかし、ただ死んだだけではない。スノーによってスケートへの愛を思い出した愛抱夢が戻ってきたのだ。
 それからSという場所は、今や「スケートが好き」という気持ちを持ったものが集まる空間として存続している。土曜日の深夜零時になれば、スケーター達がSで開催されるビーフに今も夢中になっていた。
 トーナメントが終わってから、神道家の雰囲気にも変化があった。愛之介と忠の関係はもちろんのこと、結萌が今までのように伯母たちに話しかけられ、相手にする時間が減っていたのだ。それはまるで「もうこの家で人形でいる必要はない」と言われているようでもあったが、いざ解放されても結萌はどうするべきか決められなかった。それは今まで人形に仕立て上げられた弊害でもあった。

 仕事を終えた結萌はそのまま家へ戻ることはなく、あるお店へと足を運んでいた。扉越しからはカウンターで楽しそうに話している高校生ぐらいの二人組がおり、まだ開いていることを確かめた結萌は「Dopo Sketch」と書かれたお店の中へと入っていった。そして店内にある色とりどりのスケートボードを見て、思わず目を瞬かせた。ボードには様々な種類があることは知っていたが、まさかこんなにもあるとは想像していなかったのだ。今回結萌がこのお店に寄った理由は、ただ単純に「スケートのことが知りたい」からであった。あの時以来自分からこうして関わることはなかったが、もう我慢する必要はないと判断していた。

「おねーさん、もしかして探しもの?」
 どんな商品があるのかと眺めていたが、話しかけられた結萌は声がした方に顔を向けて思わず固まった。彼が愛抱夢と滑ったあの「レキ」という青年であると分かってしまったからだ。だが、結萌はあえてそれに触れずに言葉を返した。

「うーん……探しもの、というよりかはどんなものがあるか気になった感じかな」
「?スケートはやってねーの?」
「どっちかというと見る方が好きかな。私の友達がスケート好きだから、どんなものがあるか知りたくて」
「へえ!それじゃあボードにも色々な種類があるとかは知ってんのか?それだけじゃなくて、パーツのカスタマイズによっては色々なことだってできちまうんだぜ」
「……スケート、好きなんだね」
「おう!一緒に滑れるやつがいるともっと楽しいぜ!なーランガ!」
 ランガと呼ばれた青年はレキの呼びかけに気づいたあとこちらへとやってきて、自分にスケートを教えてくれたのはレキだということを嬉しそうに語ってくれた。それからも2人は周りを忘れたようにスケートについて熱く話していたが、そんな彼等を見ていて結萌の脳内にはある思い出が蘇る。その様子は幼い時によく見ていた、スケートについて花を咲かせる愛之介と忠に似ていたのだ。
 花城結萌という人間には夢があった。それは愛之介と忠がスケートというものに対して「好き」という気持ちを共有できる時間が続けばいいと、2人が幸せでありますようにという小さな夢だった。


 同じ時刻の頃、仕事を終えて神道邸へと戻った愛之介は来週開かれる会議で使用する資料のチェックしていた。高野議員を売り、警察が手を引いた今自分を阻むものはなにもない。S方面も問題なく運営出来ている。何もかもが順調であるのだが、一つだけ面倒なことが残っているのも確かだった。
 扉がノックされ、返事を返すと先ほど資料を渡してきたばかりの忠が入ってくる。その表情はどこか気が滅入っているものでもあり、愛之介は彼が何を言おうとしているのか見当が付いていた。
 
「愛之介さま、伯母さまたちがお呼びです」
「……またか」
 ここのところ、伯母たちが愛之介を呼び付ける頻度が増えていた。彼女たちは自分が仕立て上げた人形では物足りないのか、より「いい案件」を見つけてきては、こうして自分に見合いを持ちかけてきていた。今までならば愛之介は彼女たちの期待に応える振りをして対応していたが、高野議員を売った今そうする理由はどこにももない。なによりあの伯母たちは、これからどんな立場になるのか理解すらしていない。そんな彼女たちに自ら手を下してもいいが、それでは何も面白くはない。
 しばらく頭を悩ませて他にもっといい手段を探していた愛之介だったが、その時あることを思いつく。愛は痛みを伴うものだとこの身に叩き込んだのは、何より伯母たちだ。それが精神的にも同じことを言えるならば、この方法が一番いいだろう。
 
「なあ、忠」
 その時の愛之介の声は、今まで以上にないぐらいに弾んでいた。だが名前を呼ばれた忠は薄々嫌な予感がしていた。こうした状況の愛之介が言い出すことは、大抵可笑しなことばかりだったからだ。極力何事もなく応じた忠だったが、主人をよく理解したその予想は当たっていた。

「お前、結萌のことが好きだろ」
 予想外のことを言い当てられ、忠は動揺を隠さなかった。今までなら流れるように否定するところを、違う反応が見れたことで更に気分を良くした愛之介は言葉を続ける。

「今から連れてこい」
「で、ですがそれは……」
「僕はただの人形に興味はないからな。……できるな?」
「……畏まりました」
 出来るかと主人に問われ、出来ないと言わない犬はいない。だがこの時忠は結萌を引き戻していいのか、自分のせいでこうなってしまったのではないかと自分を責めていた。しかし主人の言いつけを守るべく、愛之介の部屋を後にした忠は迷わず結萌の番号を選び、電話を繋ぐのだった。


「そういえば最初走った時はガムテで足元固定してたよな。あれ今考えれば無謀だよな?」
「でも暦がやってくれたから問題なかったし、一緒に滑れて楽しかったよ」
 彼等の会話がスケートについてであることに変わりはないが、内容は主にランガのことへと移っていた。元々ランガはスノーボードをやっていたこと。暦がランガにスケートを教えたこと。オーリーが出来た時は2人して喜びを分かち合ったこと──あの愛抱夢に勝ったランガにもスケートを始めて何も出来なかった時期があり、そして一緒に滑る仲間がいるということ。どれもこれも結萌にとっては興味深い内容であり、彼等のことをもっと知りたいと思った結萌は自然とあのことについて聞き出そうとしていた。

「ねえ、2人に聞きたいことがあるんだけど──」
 Sの名前を出そうとした時、結萌の鞄の中でタイミングよくスマホが鳴る。断りを入れた結萌は一度お店を出てスマホを取り出し、ディスプレイに表示された菊池忠という名前を見てボタンを押す指が一瞬止まった。トーナメントが始まってからは別に意識することはなかったけれど、こうしてプライベートで連絡があるとどうしたって「あの時」のことがよぎってしまう。ばくばくと煩くなる鼓動を抑え、余計なことを考える思考を振り払ってから結萌はボタンを押してスマホを耳に宛てた。

「もしもし」
『突然すみません、結萌さま。この後お時間大丈夫でしょうか』
「空いてるけど……何かあったの?」
『愛之介さまがお呼びです。来ていただけますか?』
「愛之介くんが私を?……わかった」
 電話はごくありふれた業務連絡ではあり、何事もなく終わったことに結萌はひとまず安堵する。しかし残ったものは一つの疑問だ。こうして改めて愛之介が自分に何か要があると言ってくることは非常に珍しいことなのだ。一体何があったのか想像してみても、結萌は愛之介の意図がまだ読めなかった。ひとまずお店に戻り、また寄ることを暦とランガに伝えてから結萌は神道邸へと向かうことにした。



 結萌が神道邸に到着した時には、すでに陽は落ちて辺りは暗くなっていた。呼び鈴を鳴らすとすぐに反応があったが、出迎えたのは忠だけだ。他の使用人はおらず、やはり伯母たちの姿も見られない。

「いきなりのことだったのにありがとうございます。愛之介さまがお待ちです」
 有無を言わさず中へと案内された結萌はそのまま忠の後を付いていく。向かった先は応接室であり、そこではいつものように書類に目を通している愛之介がソファに座っていた。彼が結萌の存在に気づくと視線を資料から結萌の方へと変えた後、「やあ」と話しかけたその声は、特段何か悩み事を抱えているというようなものではなかった。相対するように向かい側のソファに腰掛けて、結萌は愛之介の言葉を待つ。唯一愛之介の傍らに控える忠だけが、その様子を不安そうに見守っていた。

「突然呼び出してすまなかったね。今日は結萌にお願いがあって来てもらったんだ」
「お願い?」
「ああ。今後も結萌には、ぜひ伯母さまたちと仲良くしてほしくてね」
 愛之介の言葉に、結萌は一瞬自分の耳を疑った。それは普段から、神道邸を訪れた時に対応していることだったからだ。一体どうして愛之介が改めてこんなことを言い出したのだろうか──そこで結萌はある可能性を思い浮かべた。
 それは今の伯母たちの状況と、高野議員が逮捕された件との関係だった。愛之介はより太いパイプを繋ぎ、神道家の発展のためにも高野議員を守るように彼女たちに強く請われて行動していた。だが、そもそもが高野議員の逮捕となったきっかけを作ったものが愛之介だったらどうだろうか。こちらが主導権さえ握れてしまえば彼を守る必要はなくなるうえ、伯母たちのために動く必要もない。そうなると必然的に結萌の立場も変わってくる。これからは地位のなくなっていく彼女たちではなく、実質神道家のトップになった愛之介の言うことに耳を傾ければいいのだ。
 そうしてようやく、結萌はなぜ愛之介が自分を改めて呼び出してきたのか合点が行った。今まで自分たちが仕立てた人形だと思っていたものに自由を奪われていくことは、どれほどの苦痛なのだろうか。しかしそれらは彼女たちが今まで教育としてやってきたことでもある。自由が効かず、不満とストレスばかりが溜まっていくだろうその光景を想像した結萌の口元は、無意識のうちに緩んでいた。

「分かった。明日なら休みだし、問題ないよ」
「話が早くて助かるよ」
「それじゃあ、今度は夕食の時にね」
 話を付けた結萌は応接室を後にし、一旦身の周りを整えようと自分の部屋へと向かった。その時の結萌の心は、どこか解放感に満ちていた。


「結萌さま!」
 追いかけるようにして愛之介に断りを入れた後に忠も応接室を飛び出し、結萌を呼び止めた。忠の表情は未だ先程と同じものだ。こんな状況を作ってしまったトリガーを引いたのが自分だったら、忠は構わず謝るつもりだったのだ。もう昔のような過ちを繰り返したくはなく、可能ならばあの日伝えた言葉を取り消す算段ですらあった。

「よろしかったのですか?もし結萌さまさえよければ、私が対処に当たりますが……」
 申し訳なさそうに忠に提案された結萌の顔はどこか呆れたようなもので、じっとりとした視線を忠に向けている。そこに羞恥心があることに、忠は気づいていなかった。

「……忠くんってさあ、優秀な秘書なのに時々凄く察し悪くなる時あるよね」
「えっ」
「……あなたに興味がありますって人形だった私にナンパしてきて、人間にしたのは忠くんでしょ。愛之介くんだってそれは分かってるのに、どうして忠くんは気づいてないの」
「……それはつまり、結萌は私のことを……」
「言わせないでよ。……忠くんのばか」
 頬を赤く染め、照れくささを含む結萌の表情は人形では見れるものではなく、実に人間らしいものだった。それはあの時、忠が結萌に想いを伝えていなければ不可能なことでもあった。神道家の伯母たちに人形に仕立てあげられた花城結萌という女性は、菊池忠という一人の男に人間にされ、そして神道愛之介に人間として迎え入れられたのだ。もう何も自分を縛るものはない。悪夢から目覚めた人形は、自分の気持ちを伝えることが出来たのだ。

 とある少女は小さな夢を抱えていた。それは大切なひとたちの幸せが続きますようにという、ごくありふれたものだった。いつしかそれは悪夢になってしまったが、人形はその夢からようやく目を覚ます。そしてその願いを叶えるために、やっと1歩踏み出せた。