- ナノ -

 子供にとって、家族との時間ほど大切なものはない。
 花城家はごく一般の家庭であった。ひとつ違うところを上げるとするならば、父親が弁護士というところだろう。段々と名が売れるようになり、仕事量も増えてそれなりに大きな案件を引き受けることも増えた。それと同時に夜遅くに帰ることも少なくなかった。
 それでも子供である結萌はそんな父親を誇りに思っていたし、時間さえ合えば一緒にすごしてくれるため、共にいる時間が少なくても何もいうことはなかった。そんな結萌が「お願い」をしてきたのは、土曜日に遊ぶ約束をしてきたのに父親がそれを破った時だった。「もっと一緒に居たいのに」というお願いに彼は一度悩んだのだ。今回のクライアントは「普通」ではない。週末に時間が取れることが多く、それが約束を破ってしまうことに繋がっていた。
 悩んでいる彼に助け船を出したのは、意外にも相手の方だった。同じ年頃の息子がいるからその気持ちはよく分かる、と悩みを共有してくれて、更には娘さんを連れてきてはどうかと提案してくれたのだ。そうして彼は、次の顔合わせの時に結萌を神道邸へと連れていくことにした。


「今日は一緒に行こう」と言って結萌が父親と共に向かった場所は、とても広いお屋敷だった。玄関が開くと依頼人に続いて、何人か女性と、使用人たちがぞろぞろと結萌を迎える。
 
「いらっしゃい。あなたが娘さんの結萌さん?」
 そう女性に問われ、結萌ははきはきと返事をする。それから彼等に案内されるまま応接間にいるように言われ、結萌は素直に従った。父親が仕事をしている間は、結萌は本を読んで過ごすことを選んでいた。


 神道家を訪れることは、数週間経った今でも変わらなかった。あれから帰る時に伯母たちに「またいらっしゃいね」と言われたこともあり、父親と一緒に居られるという事実は結萌にとっても嬉しかったため、その誘いを断る理由はどこにもなかった。
 結萌の居場所は、大広間から割とプライベートが守られたゲストルームへと移されていた。ここにある本は結萌にとっても初めて見るものが多く、これも神道家に寄る時の楽しみになっていた。

「…………、?」
 いつものように本を読もうとしていた結萌だったが、ふと視線に気付き本を閉じる。扉の方に何かの気配を感じた結萌は立ち上がった。元々この本はこの家のものだ。もし他に読みたい人がいるなら返した方がいい、と思ってのことだった。

「だれかいる……?」
「わあっ」
「え…………」
 結萌が声がした方向に目を向けると、そこには驚いたのか尻餅を付いた男の子がいた。見た感じ、自分と同じぐらいの年だろうと結萌は予想する。
 まさか声を掛けられると思っていなかったのか、男の子は腰を抜かして立ち上がる様子がない。結萌が「大丈夫?」と声をかけると、彼の表情が少しだけ明るくなる。

「ご、ごめんなさい……」
「どうして謝るの?大丈夫だよ!……あ、そうだ。もしよかったら、君の名前を教えてほしいな」
「なまえ……」
「私の名前は花城結萌っていうの。お父さんがここに連れてきてくれたんだ」
 結萌の説明にどうして彼女がここにいるのかを納得した彼は、ぽつりと小さく自分の名前を呟いた。消え入りそうな声だったが、それは確実に結萌の耳に届いていた。
「あ、愛之介…………」
「愛之介くんっていうの?よろしくね!」
 結萌の言葉に愛之介はゆっくりと頷いて、差しのばされた手を握る。女の人に拒否されなかったこと、普通に接してくれるということは、彼の警戒心をたやすく解いていたのだ。これをきっかけに、2人の時間は目に見えて増えていった。


 案件が終わった後も、神道家と花城家との交流は続いていた。「これからも仲良くしてほしい」と言ってきたのは驚いたことに神道家の方からだったのだ。彼女たちはあわよくば将来結萌のことを愛之介の婚約者として迎え入れ、弁護士の父親との繋がりも絶えさせないようにと画策していたのだ。しかしそんなことなど知る由もなく、愛之介と会えることが楽しみになっていた結萌にとってそれは嬉しすぎるものだった。
 それ以来、結萌の神道邸での居場所はゲストルームではなく個室に移されていった。父親の仕事が終わるまで待つ必要はないのだが、代わりに愛之介のことを待つことが時々あったのだ。そういう時は学校で出された宿題をしながら時間を潰していた。
 今日は宿題を終えたあと、いつもとは逆に、結萌は部屋を後にして廊下へと出ていた。この神道邸を訪れてから、実に数か月が経とうとしている。しかしこの屋敷のことをまだ何も知らないと思った結萌は、迷惑を掛けない程度に散策しようと考えたのだ。
 今自分に与えられている部屋と大広間とゲストルームしか入ったことのない結萌にとって、どの場所も見たことのないものばかりだった。廊下を右に曲がり、ふと結萌は足を止めてその先に続くスペースを見やる。そこは普段、伯母たちがお茶会を開いているサンルームと呼ばれる場所であり、子供である結萌が行くことは許されてはいないところだった。しかし、今そこに彼女たちはいない。
 子供の好奇心とは、一度動いてしまえば止まることを知らない。結萌の足はサンルームへと向かい、そしてそのまま奥の扉へと手をかけた。ぐっと重たい扉を前に押すとバルコニーへと出ると、そこはサンルームと呼ぶだけあってそこには暖かな日差しが降り注いでいた。 
 こんな場所があったのかと、結萌は思わず感嘆の声を漏らす。景色はよく、周りは解放感に溢れている。その時浮かんだことは、まさにここが「楽園」のようだということだった。
 ふと、結萌は割と手間の方にあるプールへと視線を移す。そこに水は張られていなかったが、誰かがいることに気がついて結萌はじっと目を凝らした。

「え…………」
 そして見えた人物に、結萌は思わず目を見開いた。そこで楽しそうにスケートで滑っていたのが、愛之介だったからだ。今までどこか遠慮がちで、こちらの様子を窺うようにして接してきた愛之介しか見たことのなかった結萌にとって、彼の笑顔は新鮮で胸が踊る。隣にいる男の子も笑顔を咲かせていて、そんな2人の様子を眺めているだけで心が温かくなった。もっともっとこんな幸せな2人を見ていたいと、この時結萌の心にはそんな気持ちが自然と湧き上がっていた。


「忠、ねえ忠!いまのみてた!?」
「…………」
「忠?」
「ああ、いえ……愛之介さま、そろそろ戻りましょう」
 プールで愛之介とともにスケートで滑っていた忠は、神道邸のバルコニーの方を確認したあとごく自然と愛之介にそう持ちかけた。もっと一緒に滑りたいと言ってくる愛之介に胸が痛むが、本来庭師の息子である自分が愛之介とこうして遊ぶことは決して許されることではない。そして何より今の忠は内心焦っていた。確実にあれは「見られていた」に違いないはずだ。
 
「ご友人が来ているかもしれませんよ。ボードは預かっておきますから」
「うう……また今度、一緒に滑ってくれる?」
「…………はい」
 愛之介の問いに、思わず忠は言葉が詰まりそうになる。申し訳ないと思いながらも、彼に事実を伝えることなど出来るはずがなかったからだ。
 最後まで振り向く愛之介を見送ってから、忠は再びバルコニーの方へと目を向ける。あそこに居たのは、確か最近まで神道邸を出入りしていた人の関係者だろう。彼女が自分たちがやっていたことを、周りに言わないとも限らない。次に忠が抱いたものはただひとつ、もうこの時間は「終わり」だという絶望だった。



 春休みになり、今日から2週間ほど結萌は神道邸ですごすことになっていた。荷物を自分の部屋まで運んで片付ける。この日は愛之介はまだ帰ってきていなかった。そのため結萌はある「計画」をしようと企み、すぐにその計画を実行した。
 こっそりと部屋を抜け出し周りをよく見て、誰もいないことを確かめてから結萌は一度外に出る。薔薇の通路を抜けた先にたどり着いたところは、あのプールがあった。ここで愛之介と彼がスケートをしていた場所だと思うと、今まで経験したことがない程に結萌の胸は高鳴っていた。
 だが、今回はプールを見ることが目的ではない。そのまま結萌は隣の屋敷へと歩き、きょろきょろと辺りを見回す。あの彼が居るなら多分この辺りだと目星を付けていたからだ。ちょうどその時、曲がり角から目的の人物がやってくる。思わず「あ!」と結萌が声を上げると、こちらに気づいた青年──菊池忠の表情はぎょっとしたものに変わった。

「ど、どうして貴方がここに……!?」
「愛之介くんにスケートを教えてたの、君だよね?」
「そうですが……」
「やっぱり!スケートを教えられるなんて、すごいね!」
 てっきり咎められると思っていたため、結萌の一言で忠の言葉は飛んでいき、最初は思考が追いつかなかった。しかしすぐに平常心を取り戻し、忠がここにいてはいけないことを結萌に伝えると彼女の表情は分かりやすいぐらいに不満の色が濃くなる。

「愛之介くんと滑ってるとこ、見れると思ったのに……」
「え……」
「あ、そうだ!まだ名前言ってなかったよね!私の名前は花城結萌っていうの。あなたは?」
「……私の話、ちゃんと聞いていましたか?本当なら私とあなたは話してはいけないんですよ」
 言いながら忠は結萌の方向を無理矢理変え、背中を押して部屋から追い出そうとする。最後まで抵抗していた結萌だったが、なんとか忠は彼女を屋敷の出口へと向かわせることに成功した。

「今度は絶対、愛之介くんも連れてくるから!」
 結萌のその言葉を聞いたとき、忠は思わず頭を抱えた。それでも完全に嫌だと言えなかったのは、ひとえに彼女が本当にそれを実行しそうだとどこか確信めいたものがあったから、また愛之介とスケートができるかもしれないと希望を抱いてしまったからだ。
 事実、この数日後に結萌は愛之介を連れて忠に会いに行っていた。伯母たちの目を盗んでは愛之介を忠の所へ連れて行き、3人でいることも、結萌が愛之介と忠の滑りを見る時間も増えていった。決して結萌自身がスケートに乗ることはない。結萌にとってこの2人が幸せそうに滑っているだけで満足であり、この時間がずっと続けばいいと願って止まなかった。結萌は2人の幸せのためなら、自分はどうなってもいいという覚悟すらあった。




 結萌が神道邸に立ち寄ったのは、前回から実に2カ月以上経ってからだった。高校生になってからは圧倒的にこの屋敷に寄ることは減っていたが、それでも愛之介と結萌の交流は終わっていなかった。
 遠くではごろごろと雷鳴が轟いており、空は今にも雨が降り出しそうな曇り空だ。急いで屋敷内に入った結萌は、雨が降らなかったことに安堵してひとまず落ち着いて深呼吸する。確か天気予報で週末は大荒れになると言っていたことを思い出し、このままだと夜は愛之介と「あの場所」には行けないかもしれないと思った結萌の気分は落ち込んだ。
 久しぶりに結萌は神道家の自分の部屋へと向かう。角を曲がった時、ちょうど愛之介と鉢合わせて結萌の顔は無意識のうちに綻んでいた。だが、この時間だというのに愛之介はフードを被っていて、そのお陰で結萌は愛之介の表情を確認することはできなかった。

「来ていたんだね、結萌」
 愛之介の声を聞いて、思わず結萌は息を飲む。その声は感情も何もなく、死んでいたからだ。無意識に恐怖心を抱いた結萌の背中に、ぞわりとした感覚が走る。そういえば、いつもならたくさんいるはずの使用人を今日は見かけない。その時点で「何かあった」のだと結萌は察していた。

「久しぶり。……この様子だと、あの場所には行けそうにないね」
「ああ、そうだね。でも、もうその必要もなくなったよ」
「え?」
「ボード、燃やされたんだ」
「っ……!」
 結萌の頭に鈍器で殴られたような衝撃が走る。あまりにも信じたくない事実に頭がくらくらする。どうしてそんな仕打ちを愛之介が受けなくてはいけないのだろうか──それは「スケート」というものが、ただ単純に神道家にとって相応しくないものだからだ。結萌はそんな疑問すらすぐに理解してしまう自分が嫌だった。
 この時結萌が蘇った言葉は、伯母たちが口を酸っぱくして言っていた「余計なことをするな」というものだった。もし正しいことをするならば、自分が愛之介にスケートを辞めるように言わなければいけなかった。自分が忠と一緒に滑っているところを見たいなんて言わなければよかった。むしろ忠と一緒に居てはいけないと言えば、そもそもこんな事態にはならなかったのかもしれない。結萌がどんなことを考えても、何もかもがもう手遅れだった。
 「結萌」と愛之介に名前を呼ばれ、結萌の足は一歩後ろに下がる。だが、逃さないようにと愛之介の手が結萌の腕を掴んでいた。

「結萌のことは、愛してもいいんだよね」
「それ、は……」
「だってあの時、僕のことが好きだって言ってくれただろう?」
 ぐっと愛之介の手に力が入る。結萌は愛之介に対して、すぐに言葉を返せなかった。なぜならこの家で「愛する」ということは、痛みを伴うものであり、一般的にいう愛とは違うものだからだ。それを知っていた結萌は、何も言うことが出来なかった。「ごめん」という一言すら出なかった。今まで自分の気持ちのせいで壊してしまったのかと思うと、この状況を受け入れることしか出来なかったのだ。

「何も言わないなんて、人形みたいじゃないか」
 いっそのこと、人形になれたらどれだけ楽だろう。どんなに頭を切り替えようとしても、結萌はまだそこまで割り切ることができなかった。謝ることも、その手を振り払うこともできない。どうしたらいいのか悩んでも、結萌はただ愛之介が手を引く時を待つという選択肢しか浮かばなかった。





 極秘の鉱山で開かれるSは、集まったスケーター達による熱気に包まれていた。今までにない規模のトーナメントが開催されていること、そしてそれにあの愛抱夢も参加しているとなれば盛り上がらないはずがない。
 大抵ならこの雰囲気を眺めている結萌は、いつもとは違いキャップマンが詰めている監視室に居た。代わりに仕事を頼まれたからであり、本来いるはずのキャップマンであるスネークは第2レースに出場するための準備を行っていた。彼の手にしっかりとボードが握られていることに気がついた結萌は、思わずスネークを呼び止める。その声に彼が振り向くことはない。
 
「本当に、参加するの?」
「はい。……愛抱夢に勝ちます」
 ここで開かれるレース──ビーフは、「大事なもの」を賭けることが基本だ。結萌はスネークが一体何を賭けたのか大体予想が付いていた。だからこそ、こんなことは止めてほしいと言いたかった。いくら久しぶりに2人の滑りが見れたとしても、こんなものは全然嬉しくない。やめてほしい、という言葉を伝えたくても、結萌はその言葉を出さないようにぐっとこらえる。大人になった今、色々知らない子供の時ように無邪気にお願いをするなんてことはもう出来ないのだ。出来ることはただひとつ、結果を受け入れるということだけだ。