- ナノ -

 愛抱夢から「連れてきたい人がいる」と言われた時、薫と虎次郎は思わず顔を合わせた。なによりあの滑りを見せる愛抱夢の連れなのだ、気にならないわけがない。一体その人がどんな人物なのだろうか、想像するなという方が無理な話だ。愛抱夢とはまた違った魅了する滑りをするのか、そうではないのか。そこにはただ期待だけが広がっていた。

「初めまして。レムです」

 だが、その期待はいい意味でも悪い意味でも裏切られた。レムと名乗った少女は自分たちとも、愛抱夢の通う高校とも違う制服を身に纏っていた。その柔らかく落ち着いた雰囲気は、あまりにもこの場所とは正反対のものだった。
 しかしレムは、いつも楽しそうに集まるスケーター、そして愛抱夢のことを眺めていた。決してレム自身がスケートに乗ることはなく、いつしかここにそんなレムがいることも当たり前になっていた。
 そんなある日、虎次郎はレムに一度だけ「あること」を尋ねたことがある。

「レムはスケートには乗らないのか?」
「……うん。私は見てる方がいいな。愛抱夢が楽しそうなら、それで十分」
 へらりと笑う表情に嘘はなく、その答えは結萌の本心のようでもあった。しかしどこかに「自分はこれ以上のことはしてはいけない」と線引きしているようでもあり、この時の虎次郎の目にはレムという人間が少しだけ歪なもののようにも映っていた。


 最終下校時刻を知らせるアナウンスが入り、図書室で本を読み耽っていた結萌の意識が現実へと戻される。本を閉じ、それが並べられていた場所へと仕舞いにいく。結萌が読んでいたものは主にスケートボードという競技について纏められていた本だった。もうそんなことを知る必要もないはずなのに、気がつけば最近はそんな本ばかりを探しては読んでいた。
 鞄の中身を確認する際、結萌は携帯をチェックする。そこには誰からも連絡は届いていない。
 ちょうど日が傾き始めたとはいえ、沖縄の夕方はまだ暖かかった。昇降口で靴を履き替えた結萌はそのまま正門へと向かう。しかし周りがどこか落ち着きがなく、何かあったのだろうかと疑問を抱いた。そして正門で待っていた2人組を見かけて、結萌は思わずそこから逃げ出したくなった。彼らは違う制服というだけで目立つというのに、それ以外の特徴でもあまりに人目を惹いていたのだ。
 「なんでいるの」と言ってしまいそうになるが、どうにかしてスルーできないかと結萌は何事もなく正門から出ようとする。「おい」と言われても聞こえないようにしたのに、がっしりと腕を掴まれて逃げることは叶わなかった。

「おい、ちょっとツラ貸せ」
「おい薫、それだとただの乗り込みだろ」
「あ?そっちの対応が温すぎるんだよボケナス。図体のデカさはお飾りか?」
 まるで堰を切ったかのようにそこから言い合いの応酬が繰り広げられていく。今まで何度も見てきた光景だっただけに結萌はそれにじっとりとした視線を送っていただけだったが、周りからちくちくと刺さる奇怪を見るような目についに耐えきれなくなった。
「……着いてきて」
 その一言に、2人の言い合いがパッと止まり、いつかのように顔を合わせた後、何も言わずに2人は結萌の後に着いていった。


 結萌が向かった場所は近くにある公園だった。そこにはスケボー遊具やバスケットコートなどが備えられていて、まだ明るいからか学校終わりの生徒たちで賑わっていた。
 結萌は設置してあった自販機から飲み物を買い、それから海の見える椅子へと腰かける。座るように言われて真ん中に薫が座り、その右隣に虎次郎が座った。
 プシュ、という缶ジュースを開ける音がしたあとにシークヮーサーの香りがほんのりと漂う。しばらく結萌の様子を見つめていた薫だったが、先に「何?」と聞いてきたのはジュースを一口飲み終わった結萌の方だった。聞きたいことは、山ほどある。しかし薫が問いかけたのは実にシンプルなものだった。
 
「愛抱夢はどうしてる?」
 その瞬間、結萌の目が一瞬揺らいだようにも見える。だが、彼女の答えは意外なものだった。

「知らない」
「……知らないって、そんなわけ──」
「本当に知らないの。知らないんだってば……」
 缶ジュースを握る結萌の手に力が込められる。それはある意味、結萌の拒絶だった。自分はもうこれ以上踏み込んではいけないという言い聞かせでもあった。事実、結萌は愛抱夢が今どうしているかも自分からは聞くことが出来ていない。
 子供の頃から神道家の伯母たちに「余計なことはしないでちょうだいね」と言われた理由がようやく理解できてしまった結萌にとって、薫のこの問いはあまりに痛すぎるものだった。理由が分かってしまった今、結萌は自分から愛之介が今どうしているか直接本人に連絡を取るつもりはなかった。そして今後スケートには関わらないと決めたのだ。その上での「知らない」という言葉を選んでいた。
 ただならぬ結萌の様子に、薫はもう何も聞けなかった。3人の間には沈黙が流れ、遠くでスポーツを楽しんでいる学生達の声が余計に大きく聞こえるような気がした。しかしそこで「なあ」と続けたのは、今まで薫の隣でじっと2人の会話を聞いていた虎次郎だった。その声は、誰よりも落ち着いていた。

「だったら、愛抱夢が戻ってきたら教えてくれよ。……それならできるだろ?」
「…………」
 虎次郎の提案に結萌は何も答えない。それす応えていいのか、今の結萌には判断がつかなかった。
 結局それ以降、結萌からの連絡が2人に来ることはなかった。代わりに届いた知らせは、Sという極秘の場所で仮面舞踏会が開かれるという、愛抱夢からの招待状だった。


 夜の帳が下り、辺りはすっかりと暗くなった。学生の時は遅いと感じていた完全下校時刻はあっという間に過ぎており、むしろ社会人になった今はその時間に帰れることの方が羨ましいほどだ。
 やっと仕事の打ち合わせを終えた結萌は、お腹を空かせたまま予約をしたお店へと向かっていた。それは中心街からいくらか離れた場所にあった。少し段差のある坂を登り、結萌は久しぶりにお店の扉を開ける。

「いらっしゃい」
「突然予約を入れてごめんね」
「気にすんなって。席、ここでいいか?」
 結萌が虎次郎に言われた席はいわゆるカウンターになっていた。隣には当たり前のように薫が座っているが、結萌は気にせず指定されたところに腰かける。実に、結萌が虎次郎のお店を訪れたのは約半年振りだった。それでも変わらずこのお店はゆったりとしていて、心が落ち着いて疲れが癒されていく。

「結萌は確かチーズ多めが好きだったよな」
「わあ、覚えててくれたんだ」
 出された前菜であるサラダを、結萌は嬉しそうに口へと運んでいく。空腹だったお腹に幸福感が詰まる。
 虎次郎は料理を提供するにあたって、次の料理を出すまでに「待たせる」ということはしなかった。そのため結萌の手は止まることはなく、堪能するように箸は進められていた。時々2人の間に会話があったりするが、それは結萌の近況報告のようなものが多かった。この前に行われた大会のことや、今度の大会では話題の選手が来るかもしれないということ。やはり今でも8年前と変わらずに結萌はスポーツを直接することはなく、見ている立場であった。

「飲み物は紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「うーん……コーヒーにしようかな」
 一通り料理を食べたあと、結萌はそう聞かれて普段とは違う方を選んだ。食後の紅茶ならいつでも飲む機会があるからだ。
 結萌の要望を聞き入れた虎次郎は、手慣れた様子でコーヒーとデザートを用意する。出されたものはしっかりとプレートも飾り付けられていて、結萌は思わず「撮っていい?」と虎次郎に尋ねた。きっと他の客にも同じようなことを聞かれているのか、虎次郎は結萌のお願いに快く許可を出した。

「なあ、レム」
 その時やっと、今まで2人の様子を黙って見つめていた薫が結萌に声をかけた。美味しさで綻んでいた結萌の表情は、いつもと違う名前で呼ばれたことにより一気に消えた。
 「S」に関する話題を外で出すことは基本的に禁止されている。だが今ここにいるのは3人だけであるため、別に何も問題はなかった。
 
「なに、チェリー」
「愛抱夢の滑りを、レムはどう思う?」
「…………」
 本来ならば、あんな滑りは辞めるべきだと批難することが正しいのだろう。いくらSでのレースは何でもありの決闘とはいえ、スケーターに直接ダメージを与える愛抱夢のやり方は誰から見ても、あまりにも危険であり「やりすぎ」だ。
 
「……特に私からは何もいうことはないかな」
「……」
「でも、愛抱夢の滑りを見れるのは私も幸せなの。とっても楽しそうだし、なにより彼の愛を感じられるから。彼が幸せなら、私はそれだけでいいの」
 しかし、結萌の返事は否定も肯定もするものではなかった。言い換えれば、それは「受け入れ」だった。
 ふと、薫は高校時代の結萌を思い出す。あのときは愛之介のことを知らないと言っていた理由も、今なら分かる気がするのだ。それは彼女が受け入れるだけの人形だったからこそ自分から知ろうとしなかったのだと、この時薫はようやく花城結萌という人物について分析できたような気分だった。だがいつもそこでマスターに反応する相棒は、充電していたこともあるのか、薫の感情に対して何も変化を見せることはなかった。