- ナノ -

 週末を迎え、結萌はいつものように神道家ですごしていた。叔母たちの機嫌を取りながら普段と変わらずにお茶をして談笑したが、実のところ結萌は平静を装うのが精一杯だった。
 それは夜、ベッドに入ってからも変わらなかった。目を閉じて眠ろうとすればするほど別のことを考えてしまい、余計に目が冴えてしまう。こうなったら気分転換でもしようとベッドから降り、結萌は机へと向かう。仕事でお世話になった人にお礼状を書いてしまおうと思ったのだ。
 便箋を取り出して文章をしたためていく。しかし、今の落ち着かない状態で話を書いてもミスが連発してしまうだけだ。ゴミ箱には既にぐしゃりと丸め込まれた紙が積まれていた。

「あ……」
 また間違ってしまったと結萌は新たな紙を用意しようとするが、運の悪いことにちょうど紙を切らしてしまった。予備がないか引き出しを調べてみたものの、ただ時間を費やすだけに終わってしまう。目はまだ冴えたままだ。諦めた結萌は新しいものを探しに行くために、自分の部屋を後にした。

 神道の屋敷はそれはそれは広く、数回訪れただけではどこに何があるかまず把握することは難しい。しかし何年もここを訪れたことがある結萌にとってはそうではなかった。
 備品が置いてある部屋を見つけだし、目当てのものを探していく。しかしなかなか見つけることができず、別のところにあるのかも知れないと予測した結萌は早速その場所へと向かうべく部屋から出た。

「何かお探しですか、結萌さま」
 その時聞こえてきた声に、結萌は思わずびくりと肩を震わせる。そこに居たのは未だ仕事が終わっていないのか、スーツを身につけた忠だった。結萌はなるべく忠の方を見ないように、気づかれないように床へと視線をずらす。
 
「えーっと……仕事で使うために、便箋探してて…この部屋にはなかったから」
「そういうことでしたか。確か以前片付けた際に別の場所に移した気がします。お届けしますので、結萌さまはお部屋で待っていただけますか」
「わかった…………」
 結萌は自分で取りに行くとは言えなかった。いつもと違うことをしてしまったら、相手に不信に思われることは確実だからだ。
 返事を返した結萌はそのまま忠から逃げるように、足速に自分の部屋へと戻っていった。


 自分の部屋に戻った結萌は一息ついたあと、ゆっくりとベッドに腰掛ける。忠と普通に話せていたか不安だった。結萌がこんな状態になっているのかという元々の原因は忠にあった。「あなたに興味があります」と言われて以来、結萌は忠に対してどう接していけばいいか分からなかったからだ。あんなことを言っておいて、忠の様子はいつもと変わらない。それこそあの日の言葉が夢なのかと錯覚してしまうほどだった。
 扉を叩く音が聞こえて結萌は落ち着いて返事をするが、思わず身構えていた。
 
「こちらが言われていたものになります。間違いありませんか?」
 忠が手にしていた便箋を受け取り、目を逸らしながらお礼を伝える。しかしすぐに部屋を出て行かない様子に、結萌は思わずどうしたのかと問いかけていた。
 
「いえ……今日は目を合わせてくれないのかと思っただけです」
「そ、それは……」
「もしかして先日伝えたことを気にしているのですか?」
「!」
 一番聞かれたくないことを聞かれ、結萌は動揺を隠せない。気にしていないなんてことを言っても無駄だ。何より結萌はどうして自分がこんな状態になってしまったのかすら分からない。結萌から見た菊池忠という人間は、小さな頃から過ごしてきた「大切な人」だ。そして自分自身は神道家によって「婚約者」として迎え入れられた立場だ。忠だってそれは理解しているはずだ。それなのにどうしてあんなことを言ったのか、どうして自分なのか結萌は忠の思考が読めなかった。
 
「どうして、私なの」
「どうして、ですか」
 結萌の言葉を聞きながら、忠は隣に腰掛ける。そして目を伏せて語られた言葉は、結萌の予想の斜め上を行っていた。

「そうですね……元々のきっかけは小さい頃、結萌が私に話しかけてきてくれた時からでしょうか」
「そんな前から!?」
「いつも見つからないように愛之介さまの様子を眺めていたのに、結萌はしっかりと私にも気づいて声をかけてくれただろう。スケートが教えられるなんて凄いね、と言われた時はいつもとは違って不思議な感覚だった」
「そう、だったっけ…………」
「言われた側は案外覚えていたりするからな。それから、愛之介さまを驚かせようと高校生になった頃は化粧をしていただろう。私はしっかりと気づいていたし、そこからあなたはそんなこともするのかと、更に興味を抱くようになった」
「なんで、そんなことまで覚えているの……」
「……好きな人のことを覚えているのは当然だろう」
 面と向かって伝えられた好意を、結萌はいつものように受け入れようとする。しかし、忠の言葉の意味を深く読み取ろうとするほど胸の鼓動がうるさくなってしまう。今までこんなことはなかったはずなのに、結萌はどうしたらいいか分からない。1人ではどうすることもできずにお手上げ状態だった。

「忠くんの気持ち、嬉しくて……受け入れたいのに、そうすると胸がうるさくてどうにかなりそうなの。……忠くんなら、これを治す方法も知ってるのかな」
 それはこれまで受け入れることしかできなかった女の、初めての小さな抵抗だった。結萌にとっては必死のことだったが、忠はそんな彼女に衝撃受けた。例えるならば、愛抱夢がイブを見つけたあの時のようなものだ。非常に気分は興奮しているというのに、忠の行動は意外にも冷静だった。
「結萌」と名前を呼ぶその声は普段よりも低く、呼ばれた結萌は思わず後ずさる。距離を取りたくても背後には壁があった。前のめりになった忠に追い詰められ、お互いの距離が近くなる。目を逸らしたくてもそれは叶わず、嫌でもその緑の双眸から逃げることはできなかった。

「私を煽るのもいい加減にしろよ」
「……っ!?」
 恐怖を抱いた結萌は思わず目をきつく閉じたが、何かされる様子はなく恐る恐る目を開ける。忠の表情はいつも通りの秘書の顔へと戻っていた。
 
「……冗談ですよ。あぁそうだ、このことは愛之介さまさまには内緒にしておいてくださいね」
 果たしてそれは、今こうして関係を築いていることか、それとも先ほど見せてきた忠のことだろうか──きっとどちらのことも言っているのだろうと放心状態の結萌はそれを考えるだけで精一杯で、「お休みなさい」と部屋を出て行く忠をぼんやりと眺めることしかできなかった。


 結萌の部屋から出た忠は扉が閉まったことを確認し、小さく息を吐き出した。
 今日の仕事はもう残っていない。実はあの時結萌に話しかけたことは、全くのイレギュラーだった。それでも疲労感どころか嫌悪感もないということは、それだけ結萌の反応を探って正解だということだ。
 自分から見た花城結萌という人間は、神道家によって用意された空っぽのような人形といった印象があった。それも愛を受け入れるだけのものだ。確かに愛之介に愛を囁かれ、それを受け入れてはいるが、2人共そこには無意識にではあるが「家のため」という共通意識があった。そんな人形に、しがらみも何もない「好意」というものを与えた人が自分だと思うと、忠の気分は高まるのだ。婚約者である愛之介には見せないその表情を、もっともっと見たいと自然と結萌の反応を楽しむようになっていた。
 ただ、だからといって今までと同じように女性を落とすだけではつまらない。せっかくこんなにも心躍るものを見つけたのだ。念入りに、じっくりと味わっていく方がさらに美味しくなる。仕事の合間に色々と思考を巡らせることは実に愉快だった。
 次は一体どんな手段を使おうかと想像しただけで口角が上がる。その時の忠は、愛之介の犬ではなく──まさに獲物に狙いを定めた蛇そのものだった。