- ナノ -
 アーラシュがこっそりと先日ナマエの鞄にしまってあった募集広告を見てしまったからといって生活が変わることはなかった。いつものように朝ごはんを食べたあとナマエは身だしなみを整えて鞄を取りに行き学校へ行く。それを見送るところまで、今までと同じだった。
「今日もいつも通りか?」
「うん、そのつもり。もし遅くなる場合は連絡するね」
「おう。気をつけろよ!」
 行ってきます、とナマエが言ってから閉じられた扉を見ながら、アーラシュは安心したようにため息を吐いた。心のどこかではこのままではいけないと分かっている。そもそもこの生活自体が「終わり」が分かっているものだから別に生活が変わってしまうことに問題はないだろう。それでも自分からこの話題を出すことは気が引けたからずっと見て見ぬふりをしてしまう。元々これは自分の方からとやかく言えることではないから言わないようにしていたのもある。だからもしナマエからあの話題を出すと言うのなら、その時はしっかりと話を聞いて相談にも乗ろうと改めてアーラシュは考える。それまではせめていつも通りに過ごしていようと結論付けて、いつものように食器洗いから始めるのだった。


 移動授業から戻ったナマエは次の授業の準備をしようと鞄から教科書を取り出す。この時期にもなると殆どの科目は自習になることも多かったが、次の科目はそうでもなかった。そして教科書を探しながらふとあるものが目に留まったナマエはそれを取り出して「そういえばもらっていたっけ」とその存在を思い出す。それは数日前、駅前でたまたま見かけたある企業の求人広告だった。「マスター」や「カルデア」と言った所々に見かける単語の意味は相変わらず分からないものの、気が惹かれるといえば惹かれるのだ。それよりも一番ナマエが惹かれたのはその待遇だった。今のバイトよりも断然給料はよく、何より住むところまで付いてくるという。それだけで有り難いのだが、それは今住んでいるアパートから引っ越すということも意味している。つまりアーラシュとの生活も終わってしまうかもしれないということにもなるのだ。けれども元々彼との生活は「暖かくなる春まで」と決めてあるものだからその終わりが早くなったところで何も問題はないだろう。問題はないはずなのに、どこかこの話をしてしまったら何かが変わってしまうような気がしてしまう。それでもずっとこの時間が続くわけでもない。早く出て行けとか、そういうことを話すわけではないから新しく仕事を始めてみたいということぐらいは言ってもいいだろうか。いずれどうして一人暮らしをしているのだとか、どうしてこんなにバイトを入れていたのかも話さなくてはいけないと思っていたから「ちょうどいい」時期なのかもしれないとナマエは思うのだ。そこまで考えたところで次の授業の先生が入ってきてナマエは慌ててファイルをしまい、教科書を準備する。そして気持ちを授業へと切り替えた。


 バイトが終わり家に帰ると夕飯を食べ、お風呂が沸くまでの間をナマエは課題をやりながら過ごすことが当たり前になっていた。けれども沸き上がる前に課題が終わらないこともあり、その場合はお風呂から出たあともしっかりと寝る前に課題を終わらせるようにしていた。問題を解き終えたナマエはシャーペンとノートを鞄へとしまっていく。しかしその時にその存在を思い出して「あっ」こ声を上げる。ちらりとアーラシュの方を見ると彼はいつものようにテレビを見ていたから、ナマエも極力普通に、特に深刻な様子を見せることもなくアーラシュに声を掛けた。
「ねぇアーラシュ、ちょっといい?」
「ん?どうした?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
 何事もなく振り返り、「これなんだけどね」と差し出されたものを見てアーラシュは思わず息を飲む。けれどもナマエはそんなアーラシュの様子に気づいていないのかそのまま言葉を続けているが、アーラシュには全然その内容が頭に入ってこない。いざ話題を出されたらそのまま何も知らない振りをして話を聞けばいいと思ったが、どうにもそれができそうにないと思ったアーラシュは「すまん」とナマエの言葉を遮った。どうして謝られたのか分からないナマエはきょとんとしている。
「ええと、何かした…?」
「いや、そうじゃない。ナマエは悪くない。その…見ちまったんだよ、それ」
「なんだ、そういうこと」
「そもそもどうしてナマエはそんなに新しい仕事を探すんだ?俺にとっては高校生で一人暮らしっていうのも珍しいもんなんだが」
「あー、やっぱりそう思う?」
「もしかして悪いことを聞いちまったか?」
「ううん」
 募集広告を先に見てしまったことは特に気にされなかったからアーラシュは一番気になっていたことを尋ねた。それもまたナマエは嫌な顔一つせず、むしろその反応が普通だといった様子を見せている。ナマエはアーラシュの問いに答えるように、どうして一人暮らしをすることになったのかゆっくりと話していく。アーラシュはそれをじっくりと何も言わずに耳を傾けていた。
「私ね、小さい頃はネグレクト…育児放棄っていうのかな。それに遭っていてね。親が帰ってくるのは一ヶ月に一回あればいいぐらいで、家のこととか掃除とか全部1人でやるのが普通だったの。さすがに小学校にあがるぐらいになると見兼ねた親戚の人がお世話をしてくれたんだけど、やっぱり他の人に迷惑をかけるのが嫌で、どうしても早く一人暮らしがしたかった。それが漸く叶ったのが高校生になってからだったって言うわけ。」
 だからこの環境も全部自分が望んでなったものなの、というナマエの言葉を聞きながら、アーラシュはナマエの言葉を一つ一つ噛み砕いていく。最初助けてもらった次の日から家事は自分に任せていいと言っても全部先にやってしまおうとするし、何か取ってほしいものがあれば些細なことでもお願いしていいと何度か同じやりとりをしたものだった。でもどうしてそうなってしまったのか、ナマエの過去を聞いた今なら納得してしまう。それを踏まえたうえで、アーラシュはナマエが手にしている募集広告を見ながらあることを問いかけた。
「じゃあ、その仕事がやりたいと思ったのも、ナマエが望んでのことか?」
「……うん。実はとっても気になってて。正直やってみたいっていう気持ちの方が強いかな」
 じっとナマエの表情を見ればそこには嘘も何もない。だからアーラシュは自分が言えることはこれだけだと直感していた。
「それなら、やってみてもいいんじゃないか?」
「…、いいの?」
「ああ。ただ、もしナマエがマスターになって俺の力が必要になればいつでも貸してやるし、…そうだな、英雄にだってなってやるさ」
 アーラシュの言葉を冗談だと受け止めながらも、ナマエは「ありがとう」と言葉を返す。それでもアーラシュはこれでいいと思っていた。自分がこれ以上のことを言ってナマエの決意を変えてしまうのは嫌だったから、むしろその反応でよかったと思えるのだ。
ようやく自分のことと何事もなく新しい仕事に関して話せたナマエは安心しながらファイルを鞄にしまっていく。
「それじゃあ、先に寝るね。この後と明日もお願いね」
「ああ、おやすみ」
 おやすみ、とナマエの言葉を聞いて今日一日がいつものように終わっていく。もうそこに今までのような緊張感と、今朝感じた不安感は残っていなかった。







 次の日もとくに変わったところはなかった。食器を洗い終えたアーラシュはその後部屋の掃除をして、お昼を食べたあとはテレビでもしながらまったりと過ごす。夕方ぐらいになってくるとカーテンを閉めるわけだが、何を思ったのかその日外に出てみたくなったアーラシュはそのままベランダへと出て柵に腕を付いて空を見上げる。当たり前だがこの東京の空では星空は見えない。でも空を見上げながらアーラシュは考える。―ずっと、悩んでいたのだ。自分がナマエに言ったことはあれで正しかったのかと。この世界ではすでに聖杯戦争はなくなっていて、あの時のように無辜の民を守らなきゃいけないという状況でもない。それでも英雄として一人の少女の背中を押せたのなら、やっぱりそれだけでアーラシュは充分だった。元々ナマエと共に過ごしたこの生活はいいものだったから、彼女はいいマスターになれることだって想像できる。だからもうそこにもう後悔はないと言い張れた。
「………?」
 次の瞬間、違和感を覚えたアーラシュは自分の身体を確認して目を見開いた。この感覚は今回が初めてではない。前回の聖杯戦争でも経験したもので、自分が宝具を使うと必ずなってしまう現象だった。つまりそれは自身の消滅を意味していた。あの時と違うとすれば、肺も体もぼろぼろではないということだろう。しかしアーラシュは特に取り乱すことなくそれを受け止めていく。ただひとつ悔しいことと言えばマスターになったナマエが見れないことだろうかと考えながら、アーラシュは東京の暗くなり始めた空の下で消えていった。









「ただいま」
 バイトを終えていつものようにアパートへと帰ったナマエは玄関を開けた瞬間部屋の違和感を感じた。まずいつも返ってくるはずのアーラシュの返事がない。それだけならまだ特に不思議なことではないが、部屋は電気が付いていなくて真っ暗だった。嫌な予感がしたナマエは急いで部屋の電気を付けて部屋全体を見回す。そこでアーラシュはもう「いない」のだと直感する。流れ星のようにいきなり現れてきた人だ、いつのまにかいなくなっていたっておかしくはない。これからは今までの一人暮らしに戻るだけだとナマエは切り替える。けれども台所に向かい並べられていた食材を見て、やはりすぐに気持ちを切り替えることなんてできなかった。きっと夕飯の準備をしようとしてくれていたのだろうか―それを考えるだけで思わず泣きそうになるが、拳をきつく握ってぐっとこらえる。泣いたってどうにもなることはない。
 結局夕飯は用意されていた食材で作ったサラダと、前に買ってあったグラタンを温めるだけというものになった。「いただきます」ももう一緒に言ってくれる人はいない。ただテレビの音声が流れているだけの、今までの夕飯と何ら変わらなかった。



 お風呂からあがったあともやはりアーラシュはいなかった。少しだけ期待したのだ、もしかしたらアーラシュがいるかもしれないと。それでもやはり存在感すらなくて、ナマエは「いなくなってしまった」と考えるしか他なかった。寝る支度をした後はちゃんと鍵が閉められているか確認してから布団に入る。明日は朝ごはんやお弁当も準備しなくてはいけないから目覚まし時計をいつもより早めにセットしてナマエは眠りに就くのだった。「おやすみなさい」はもう言う必要もなかった。