- ナノ -
 レイシフト先から戻り、じんわりと意識が返ってくる。ゆっくりと目を開けると飛び込んできたものは今までいた青い海と青い空が広がる景色ではなく、見慣れたカルデアの景色だった。
「おかえりなさい、先輩!」
 声のした方に視線を向けるとそこにはデミサーヴァントとしての格好ではなく、制服姿のマシュが立っている。それを見ると、ようやく無事に今回も帰ってくることができたのだとナマエは実感した。第三特異点での人理修復は終わり、無事に聖杯を回収することができた。お疲れ様とドクターロマンに声を掛けられながら軽くメンタルチェックを受け異常がないことを知らされる。聖杯はダ・ヴィンチちゃんの元に預けられていよいよ今回のオーダーは終了した。本来ならすぐにでも次の特異点へと出向いて人理終了をしたいところだが、特異点を割り出したりデータを解析したりと時間が必要なためその間ナマエは休憩がてら待機状態となる。やるべきことがなくなったため、お疲れ様でしたと告げてコフィンを出たナマエは管制室を後にした。


 カルデアの外はやはり今日も吹雪いていて本当の空の色が分かることはない。ぼんやりと外を眺めていると「先輩!」とマシュの声が聞こえてくる。
「なあに?」
「折角ですから、これから一緒にお茶でもしませんか?」
「うん、いいね!準備はマシュにお願いしてもいい?」
「はい!そろそろ先輩の昔話とか、聞きたいです!」
 本来カルデアではナマエの他に四七人の「マスター候補」が居たはずだった。しかし彼らはレフの破壊工作により重症を負い、現在は凍結保存という形になっておりナマエは文字通り「人類最後のマスター」になっていた。しかしナマエは今でこそサーヴァント達から色々教えてもらってるとはいえ、魔術もなにも関係のない本当に一般から採用された人物だ。だからここにくる前の人生があったはずだと、マシュは思っていた。
「昔話とか、そんな大したことじゃないよ」
「で、でも…!」
「また今度ね。それじゃあ、準備よろしくね」
 しかし返ってくる言葉はいつも同じものだった。マシュにとってはナマエから聞く話はどれも面白いもので興味を唆られるのだ。だから決して大したことではないなんてマシュは言いたくなるけれど、いつもはぐらかされてしまうのだ。話すタイミングというものがあると聞いたし、きっとナマエのそれもそういったものだろう―そう言い聞かせて、マシュはお茶の準備をするためにキッチンへと向かうことにした。







 時は二〇一四年、そろそろ今年初の冬将軍が到来というワードが聞こえてきそうな頃にまで遡る。名字ナマエは新宿の安いアパートにて一人暮らしをしていた。現在高校三年生で、同級生達の話題といえばもっぱら受験のことが多かった。けれどもそれはナマエに関係のないことで、今日も先程バイトを終えたナマエは帰路を歩いていた。一人暮らしをすることになったのもちゃんとした理由がある。それは幼少期、親のネグレクトに合っていたからだった。母親が帰ってくるのは月に一度あるかないかで、その頃から家事全般を含めた最低限のことは自分でするようになっていた。小学校に上がる頃になるとさすがに見かねた父方の祖母が時々面倒を見てくれていたが、それでもどこか申し訳なかったナマエは早くあの家を出て行きたかったのだ。幸いその意見に反対する人はいなかったが、せめて義務教育を終えるまでは実家ですごしなさいという祖母の言葉でようやく一人暮らしを出来るようになったのだった。最初こそどうなるかと思ったけれど、慣れてしまえば案外なんでも出来るものだ。今では授業が終わった後にバイトに明け暮れる毎日を送っている。それでも今ではそれが普通だった。嬉しいことにバイト先の店長とも相性が良く、ナマエの家庭環境を聞いた彼は賄いを持って帰ってもいいと言ってくれているので食費に関しては助かっていた。
 ひゅうう、と冷たい風が吹いてナマエは巻いていたマフラーを直す。夜から冷え込みが厳しくなってくると天気予報では言っていたからその通りだなあと思いながら時計を確認すれば、既に23時前を指していた。これで夕飯を摂ったりして最終的に寝れるようになるのはもうちょっと先だろうか、そんなことを考えながら自分の部屋へと続くアパートの階段を登る。けれども登りきる少し前、ナマエは思わず足を止めた。部屋へ続く道、正確にはあれはちょうどナマエの部屋の前だろうか、そこに誰か倒れているのだ。面倒事には巻き込まれたくないと直感がそう言っているのだが、部屋へ行くにはこのまま進むしかない。ナマエは意を決して階段を登り、部屋の前まで歩いていく。そして倒れている人の前まで行ってゆっくりとしゃがんでじっとその人を見てみる。東洋人と同じ黒髪をしているけれど、その褐色の肌は見慣れないものだ。鍛え上げられたその身体からは誰かに襲撃にあった、とは考えにくい。ナマエは意識があるのかどうかあまり負担を掛けずに体に触れて声を掛けて見る。
「あのー………」
「………」
 返事はない。もしかして日本語が通じないのだろうか、だとしたらこれ以上どうすることもできない。どうしたらいいのだろうか、悩んでいると相手は意識を取り戻したのか小さく呻き声が聞こえる。そして何か言いたげな感じだったからナマエは耳を澄ましてその言葉を待った。
「…し、を………」
「し?」
「…めし、を………」
 めし、飯―つまり、結果的に言うと彼は行き倒れということになる。それに気づいたナマエは慌てて部屋の鍵を開けてカバンを放り込む。この距離なら彼を自分の部屋まで運ぶことは可能だろう、そう考えてナマエは「よし!」と気合いを入れてなんとか倒れている彼を部屋まで運ぶことにしたのだった。




「いやぁ美味かった!」
 ありがとな、と礼を言った男性はそれはそれはナマエも思わず引いてしまうぐらいの見事なまでの食べっぷりだった。ナマエが用意したものは単純に一汁一菜とシンプルなもので、大盛りのご飯と昨日作っておいた豚汁、そして定番の肉じゃがといったものだった。日本人には定番のものだが果たして合うのだろうか、そんな不安はすくに払拭されていた。ひとまず行き倒れを助けるということは解決されたがまだまだ問題は山積みだ。ナマエはアーラシュと名乗ったその男性を見ながら、あることを質問した。

「あんまり急かしたくはないんだけど、……あなた、これからどうするの?」
「あー……」
 頬をぽりぽりと掻きながら問われたアーラシュは考え込むふりをして現在自分が置かれた状況を確認する。そもそもここにいる時点でおかしいのだ。自分が最後に持ち合わせている記憶といえば「あの聖杯戦争」での最後であり、本来ならばあのまま自分は英霊の座へと戻るはずだった。それがなぜかこうして別の時代へと飛ばされたというのは、これはもう聖杯のバグによるものと考えるしかないだろう。事実、バグのおかげで自分に持ち合わせているスキルが万全の状態ではない。千里眼が働かないだけよかったのかもしれないと思いながら、アーラシュは更に部屋の様子を確認する。ここは明らかに前居た時代より進んでいる。彼女の持っている見慣れない機械などが主な証拠で、そうなると他のものも色々発展しているはずだ。幸いサバイバル生活には慣れているから問題ないだろう。けれどもアーラシュはそれ以外にまずしたいことがあったのだ。

「…そうだな、まず、お礼がしたい。」
「お礼?」
「ああ。お前、俺を助けてくれただろう?だからお礼をさせてくれ」
「そんなこと言っても…私、普段は家を開けているし、家事とかも一人でやっちゃうからやることなんてないけど……」
「そうか…それなら、野宿なりなんなりして過ごすさ」
 その言葉を聞いたナマエは思わず驚いて声を上げる。冬の寒さが強くなるこの時期、いくらなんでも野宿なんてしたら辛すぎるだろう。しかしアーラシュにとってはそんなことないのか、どうした?と普通に言葉を投げかけてくる。
「野宿って、本当に言ってるの?」
「だってそれしか方法はないだろう。何か問題でもあるのか?」
「だって、これから寒くなるのよ?それなのに……」
「じゃあ他にいい案はあるのか?」
 言われてナマエはうっと押し黙る。泊めてあげたいのは山々だ。けれども先程言ったこともあるし、かといって他の案が浮かぶわけでもない。振り出しに戻って二人でまたうんうんと悩むが、結局いい方法は浮かびそうになかった。
「泊めてあげたいのは山々なんだけど……」
「………」
 ナマエの言葉にアーラシュは今まで言われたことを思い出していた。平日は家を開けることが多く、家事を含めたことを彼女一人でやってしまうことが多いという。けれどもそれを自分が代わりにやると言うのはどうだろうかと思ったのだ。何より彼女に告げてないとはいえ、サーヴァントは主人を守ることが基本だ。家の留守を守ることだってできる――そこまで考えて、アーラシュは「なあ」と言葉を掛ける。その様子に何か嫌な予感がしながらも、ナマエはなぜか応じなければいけないような気がした。
「もし昼間の間家を留守にしてるなら、その…泊めてもらう間は俺に守らせてくれないか?その間の家事のことは俺がやる。都合がいいことぐらい分かっているんだが、これでどうだ?」
「…………」
 じっと見つめられたその視線から目が逸らせない。何よりアーラシュが提案したものは、ナマエにとって何ら悪いことはなかった。家の留守も、自分がいない間の家事もやってもらえるとなると正直かなり助かるのだ。特に断る理由もないから、観念したナマエはため息を吐いた。
「……暖かくなるまで。」
「うん?」
「暖かくなるまで、それでお願いしてもいい?」
「本当か!」
「嘘言ってどうするの。…でも、本当に私昼間は学校に行ってるから何もしないし、夜だってバイトで帰りが遅くなることだってあるのよ。それでもいいの?」
「ああ、かまわないさ」
 それならもう何も言うことはないとナマエはアーラシュの条件を飲み込んだ。まさかアーラシュも自分の案が受け入れるとは思っていなくて、ひとまず大きな問題が解決したことに安堵する。そして一番重要なことを聞いていないと気がついてアーラシュはまた声を掛けた。
「そう言えば、俺は名前を言ったけどあんたのは聞いてなかったな。名前、なんて言うんだ?」
「ナマエ。名字ナマエ」
「ナマエ、か。よろしくな」
 こちらこそ、とお互い差し伸ばした手を握る。千里眼を持ち合わせていない今、自分のことを全部まだ話さなくてよかったと思いながらもアーラシュという自分の名前を聞いて特に何も反応を示さなかったナマエを少し残念に思ったりしたけれど今となってはそれも贅沢な悩みだろう。そんな彼女に助けてもらったのだからしっかりと家を守っていかなければいけない。こうしてアーラシュとナマエの慣れない二人暮らしが始まったのだった。