- ナノ -
 初めて体験するレイシフトというのは期待と不安で満ち溢れていた。どうしてブリジットがレイシフトすることになったのかというと、それは数時間前に遡る。いつものようにブリーフィングを終えて医務室に戻ろうとするとドクターロマンに引き止められたのだ。そしてお願いされたことが「レイシフトをしてほしい」ということだった。最初はどうして自分がレイシフトしなければいけないのかと思ったけれど、要するに訓練をしてほしいということだった。それならマスターに頼めばいいのではと思ったものの、ブリジットはレイシフト適正を持つうえに、データならたくさんとっておきたいというロマンの意見にブリジットは特に反対することもなかった。近くに居たトリスタンに聞いてみても彼は特に異論を唱えることはなくこうして訓練に出向くことになったというわけだった。

「準備は大丈夫かい?」

いつもの優しいドクターの声が聞こえる。返事をすればコフィンの扉が閉じていった。今回の訓練は特異点を模したシミュレーターの中での生活になる。期間は約6日間、できるだけレイシフトしたマスターと同じ条件になるように補給ポイントは設けてもらうようにしている。それならなんとかなるだろうと思いながら、改めてブリジットは意識を集中させる。機械的なアナウンスが聞こえたかと思うと、他の思考が出来ないぐらいすぐにブリジットの意識は沈んでいった。




 ずっと沈んでいた意識は段々と浮上していき、体の感覚が戻っていく。ゆっくりと目を開けるとそこは既にシュミレーション先であり、辺りには背の高い木々が生い茂っている。どうやら自分が飛ばされたのはどこかの森のようだと確認してからブリジットは立ち上がり、自分のサーヴァントであるトリスタンの無事を確認する。とりあえず一安心してからドクターの言っていた補給ポイントを探してみようということで一歩進んでみたが、それはトリスタンの言葉によって遮られてしまった。

「ブリジット、下がって!」
「え、?」

言うが早いかトリスタンはすぐに弓を取り出して弦をかき鳴らす。それは矢となりその先に居るであろう敵を確実に射抜いていた。そのままトリスタンは敵がすでに消滅していることを確認してブリジットの方へと振り返る。いきなりのことだったからか、未だにブリジットはどこか呆然としていた。

「突然すみませんでした、ブリジット。敵を見かけたもので」
「そっか、ありがとう。本当ならこれでカルデアとの通信が入るはずなんだけど………」
「………なぜか入りませんね」

今回の訓練はカルデア主導で行われているはずだ。しかし何度カルデアとの通信を試みようとも繋がる気配が全くない。それにいつも供給されるカルデアからの魔力も途切れているようだ。もしデータが取れていなかったらどうしようかと思ったけれどそんなことを言っている場合ではない。まずはこれからの6日間をどう過ごすかが重要だった。とりあえずこの先にきっと補給ポイントがあるはずだからまずはそれを探してみよう、ということで暫くの目的だけは決まっていた。





 不安ばかりの訓練だったが、補給ポイントは難なく探すことができた。そこには最低限のものも揃っており、これならカルデアとの通信が出来なくても大丈夫そうだろうとすこしだけ安心する。そもそもがマスターもカルデアと通信できなくなることはあるから、むしろこの条件は好都合かも言えるかもしれない。補給ポイント付近はそのままにするのではなく、ブリジットが魔術を掛けてそしてその辺りには敵が来た際に反応するようなトラップを引いていく。大抵はトラップにひっかかる前にトリスタンが敵の存在に気づいて倒してしまうのだが、それでもないよりはマシだろうということだった。

訓練は実に順調だった。探索が主だったものの、補給ポイントを少し歩いたところには川も流れていたから最悪ここを利用すればいいだろうということになる。もっともっと探索を進めていきたいけれど、さすがに夜ばかりは無理することはできなかった。そして順調だった訓練も、2日の夜にあることは起きた。いつもは夜だからといって眠らないブリジットではあるが、今回ばかりはテントの中で眠るようにしていて外での見張りは寝る必要のないトリスタンが当たっていた。今回もブリジットが引いたトラップにエネミーが引っかかる前にトリスタンが弦を鳴らし、その音が矢となって敵に命中する。敵が消滅間際に矢を放ちトリスタンの右手に命中したものの、ダメージ自体はそんなに大したものではなかった。だからトリスタンもそんなに気にすることはなかったものの、違和感を感じたのはその数十分後だった。

「………?」

どうも右手の感覚がおかしいような気がするのだ。そしてその違和感の正体をトリスタンはよく知っていた。それは「毒」によるものだった。あの敵が与えた毒はそれほどのものではないということはトリスタンもよく分かっている。傷自体は小さいものだから、性急に治すものでもない。毒だって暫くしていれば自然と治るだろうとトリスタンは自分に言い聞かせる。確かにブリジットに頼めば彼女はすぐに治してくれるだろうが、カルデアとの通信が途切れた今、魔力供給減は彼女のみと言うことになる。それをこんなことで使いたくなかったから、結局トリスタンはブリジットを起こすことはなかった。放っておけば治るものだ。これくらい問題ないとトリスタンは自己解決して再び見張りを再開させる。それでも胸騒ぎが納まることはなく、夜明けまでの時間が非常に長いように感じた。


 日が登ってからブリジットはゆっくりと目を覚まし、トリスタンと共に軽く食事を摂ってから今回も探索を再開させる。他にも何人か居るなら分担して色々と探索するのが手っ取り早いのだが、生憎今回は2人だけのレイシフトだからそういうわけにもいかない。そしてブリジットは少しだけ気になっていることがあった。どうにも朝からトリスタンは右手をあまり動かせていないような気がするのだ。使ってはいるものの、どこかぎこちないようにも見える。医者という人をよく見る職業のせいか小さな変化が気になってしまうのだ。このまま何かあったのかトリスタンに聞いてもいいが、彼のことだからきっと何もないと答えるのだろうことはブリジットにも想像しやすかった。だから少し意地悪かなと思ったけれど、「ねえ」とトリスタンを呼び彼の右手を握ってみせる。案の定、トリスタンは戸惑った表情をしてみせた。

「あの、ブリジット、何を…?」
「いいから右手、握ってみて」
「それは……、その」
「……いつからなの?」

あくまで優しく問いかけるブリジットに、トリスタンは昨日の出来事を話していく。ブリジットを頼りたくはなかったという気持ちは言わなかったけれど、それでもブリジットはトリスタンの服を捲り傷の箇所を確認していく。

「どうしてすぐに言ってくれなかったの!?」

そのブリジットの問いに、トリスタンはすぐに答えることができなかった。そもそもがトリスタンは不思議でならなかったのだ。ただのマスターとサーヴァントという関係なら、どうしてここまでサーヴァントにすぎない自分を心配するのだろうかと。その思いは自然と言葉となってブリジットに問いかけていた。

「…どうして、そこまでしてくれるのですか」
「どうしてって……だって、トリスタンは私のサーヴァントでしょう?そうじゃなくても大切な人なんだから、そりゃあ大切な人が傷ついて大変だったら治してあげたいって思うのが普通でしょ?」

そこでようやくトリスタンは自分の本当の気持ちに気づいたような気がするのだ。何せブリジットに「大切な人」だと言ってもらえたことは、トリスタンにとって素直に嬉しかったのだ。これが彼女をただのマスターだと思っていれば感じないことだろう。
ブリジットが傷の箇所あたりに手を翳して何節か呟くとそれは淡い緑の光となって傷を癒やしていく。それは解毒作用もあるものらしく、光が消えていく頃にはトリスタンの右手に違和感は残っていなかった。

「これで大丈夫だと思うんだけど、どう?」
「大丈夫みたい、ですね。ありがとうございます。」
「ふふっ、よかった。…これからも何かあったら言って欲しいな。トリスタンが大切な人であることは変わらないんだから」
「……はい」
「それじゃああと数日間もよろしくね」

少し先を行くブリジットを見つめながら、トリスタンは先程のやり取りをもう一度思い出す。今まではブリジットのことをマスターだから彼女を守ることは当たり前だと考えていた。けれども今は違う。自分はブリジットに喚ばれた唯一のサーヴァントなのだ。それは特別であり、誇ることである。これはらはその誇りを胸に、自分を治してくれるこの女性を、大切だと言ってくれた女性を守っていこうと改めて誓うのだった。




 ドクターにレイシフトしてみないかと言われたことにブリジットは感謝していた。今までレイシフトや訓練のデータはマスターである立香から聞いてデータを集計していたし、これからもそうするつもりだった。しかし実際に体験してみると聞いただけでは分からなかったこともあり、これからも定期的に訓練に参加してみるのもいいかもしれないと考えていた。頭の中でぐるぐると考え事をしていたからか、ブリジットはすぐ近くまで迫っていた敵に気づくことができなかった。慌てて魔術を発動させようとするも既に間に合いそうになく、ブリジットは防御態勢をと取り来るであろう衝撃のために身構える。

「失礼!」

しかし衝撃がくることはなく、聞こえてきたのはいつもの聞きなれたトリスタンの声だった。恐る恐る目を開けるとそこには剣を携えたトリスタンが立っており、既に敵は斬られた状態だった。トリスタンは敵が完全に消滅したことを確認した後、剣の汚れを拭き取り鞘に閉まっていく。トリスタンがブリジットの方を見れば表情はどこか驚いているようだった。

「ブリジット、大丈夫でしたか?」
「………」
「ブリジット?」
「あっ、ああ、大丈夫。でもびっくりした、トリスタンって剣も使えるのね」
「…まあ、円卓の騎士ですからね。しかし…」
「?」

基本的に使う武器は弓であるが、剣で戦えないこともない。あの超人揃いの円卓の中にいるのだから剣技が磨かれていくのも自然だろう。けれども今回剣を抜いたのはそうではない。確かにあの間合いではどうしたって剣の方が確実だったけれど、トリスタンの理由は他にあった。トリスタンはブリジットの前に跪いて、自分の傷を治してくれたその手を取り、想いをブリジットに告げる。

「あなたがこの身体を治してくれましたから。これからは身を挺してでもお守りさせて頂きます」

突然のことにもちろんブリジットは驚き、そして顔が一気に赤くなる。そう、ブリジットはトリスタンのことを大切だと言ってくれているのに、自分自身はまだ抱えている本当の気持ちには気づいていなかったのだ。それでも、トリスタンは別に落ち込んだりはしなかった。未だに気づいていないのならそれでいい。ブリジットが未だに自分をただのサーヴァントだと思いこんでいてもそれでいい。トリスタンはブリジットが自身の本心に気がつくまでは、「ただのサーヴァント」である振りをするだけだった。