そして扉は閉ざされた


 濡れた髪を乾かして立ち上がると、たちまち体中がバキバキと悲鳴を上げた。

「うぁ〜……体痛い……」
「せやから床で寝るなて言うたやん」

 特に被害の大きい尻を擦って顔を歪めると、キッチンの方からすかさず声が飛んで来る。

「いや〜、家着いたらなんもかんもが面倒くさくなってもうて」

 昨日まで、私は途方もない激務に襲われていた。数日掛かってそれらを全て片付け、残った気力を振り絞って帰宅したは良いものの、そこで力尽きた。何とか内鍵を閉めたところまでは覚えているけど、そこからの記憶が全くない。

「帰って来たらぶっ倒れとって、心臓止まるか思たわ」
「ごめんやん。けど、心配してくれるんは嬉しいわぁ」

 笑いながら言う私を、治は「アホか」と一蹴した。

「次おんなじ事してたら蹴っ飛ばすで。人騒がせな」

 口ではそんな事を言いながらも、治は手を動かすのを辞めない。治が今作っているのは、私の朝ご飯だ。
 もっとも、今を朝と呼ぶかどうかは人による気はするけど。

 治も昨日は夜まで店があったけど、今日は二人揃ってお休み。せっかく被った休日だけど、どこかに行くのは無理だろうと何となく分かっていた。
 それでも、まさかここまで世話を焼かせるつもりもなかった……はずだった。

 ちょうど私がテーブルにたどり着いたところで、治がタイミングよく出来上がったご飯を持って来てくれた。
 ほうれん草と豚バラ肉をバターで炒めて、温玉を乗せる。これが米にとてもよく合うのだ。私が疲れている時、よく作ってくれるメニューで、好物の一つでもある。バターの香りが鼻腔をくすぐった瞬間、唾が出てくるのが分かった。
 いただきます、と手を合わせてから治を見上げる。

「……私は治も悪いと思うわ。ダメ人間製造機」

 今日、目が覚めたら布団の上だった。メイクは落とされていたし、服もラフなものに変わっていた。寝ぼけ眼で部屋から出ると、風呂を沸かしてくれていて、すぐに汚れた体をさっぱりさせてくれた。
 しまいには、ご飯の準備までしてくれている__という、完全におんぶに抱っこな状態だ。しかも怖いのは、この状況を迎えるのが一度や二度では無いということ。いくら私の方が繁忙期に来ていると言っても、限度がある。

 付き合い自体は高校の時からあっても、紆余曲折を経たために、恋人になってからはまだそんなに日が経ってない。それなのに、彼女になってからの私は、治に甘やかされっぱなしだった。

「俺なしでは生きて行かれへんなるって?」

 何か片付けがあるのか、再びキッチンに戻った治に尋ねられる。どういうつもりで聞いているのか、知りたくても私に背を向けている今は、分かりそうもない。

「正直、冗談抜きでそうなりそうやから怖い」
「…………」
「えっ、引かんといてや〜。自分から振ってきたクセに」

 治がどこまでどう思ってるか知らないけど、顔がいい人の真顔は怖いからやめて欲しい。確かに、ちょっと重かったかもしれないけど。

「いや、引いてるんやなくて。さすがに、心配になってきてん」
「はあ?」
「そうなるよう仕向けたんは俺やけど、こんなアッサリ言われてしもたらな。他の男にもすぐ引っ掛かりそうで、ほんま心配やわ」
「はあ!?!?」

 突然のカミングアウトに、私は怒ればいいのか、喜べばいいのか、全く分からなくなってしまった。……いや、っていうか今なんて???

 思わず叫びながら立ち上がってしまう。そこへ、片付けを終えたらしい治が、普段と変わらないペースでやって来た。
 せっかくの朝ご飯にはまだ殆ど手を付けていないけど、それどころじゃない。唖然として目の前の治を見上げた。

「付き合ってからめちゃくちゃ甘やかしてきたんって、そういう事やったん……?」
「お前は知らんかったかもしれんけど、俺めっちゃ重いで。ほんで、こういうんは戦略立てて動けるタイプやから」
「自分でバラすんかい……」

 知らなかった。いや、薄々どこかで感じていたのかもしれないけど、忙しさにかまけて深く考えようとも思わなかった。治にそういう風に思われる事は、私にとって全くマイナスな事ではなかったから。
 今も治の瞳には、燃え上がるような熱と、ほんの少しの仄暗さが透けている。そこに私だけが写し出されているのだと思うと、気分が高揚してくる。

「やから言うてるやろ、心配やって。やっぱり、ちゃんと直接伝えとかんとあかんわ」
「えっ、あの〜治?わたしこれから朝ご飯食べるんやけど……?」

 ただ、それとこれとは話が別だ。
 治がジリジリと、でも確実に距離を詰めてくる。この空気で、何が起こるのか分からないほどボケてはいない。バクバクと音を立てる心臓は、はしたない期待のせいか、本能的な危機感を覚えたせいか。

 きっとどちらでもあって、でもこの時は後者が勝って、思わず後ずさる。けれどあっという間に手を包み込まれて、そのまま引き寄せられた。

「俺な、名前のこと一生離す気ないねん。せやから、誰が優しくしてきても、甘やかしてきても、俺以外は受け入れたらあかんで」
「分かってる!わたしも、そんなアホちゃうって!」

 胸元に飛び込んで、治の匂いをたっぷり吸い込んでしまえば、ちゃっかり流されてしまえと囁く自分もいて、それに乗っかってしまいたくなる。

 だって別に、そういうことをするのが嫌な訳じゃない。
 ただ、こんな朝っぱらから、しかもまだ起きて数時間で再び寝床に戻るなんて不健全だし。ついでに、全身の疲労が回復したとも言えないワケで。

 せめてもう少し後に、出来れば夜になればいいという想いを込めて、語調を強めて言い返すも、治は「そら良かったわ」と、ひょいと私を横抱きにした。

「わっ……って、ちょお全然聞く気ないな!今ベッド行く事しか考えてへんやろ!!」
「言うて聞かすより、そっちの方が早いやん」

 何だかかなり失礼な事を言われた気がしてムッとして言い返そうとすると、治が耳元に唇を寄せる。

「……名前、身体で教えた事は、絶対忘れへんやろ?」
「……!!」

 そっと囁かれた言葉に、全身が熱く沸騰したような気分になった。恥ずかしい。知られている。
 愛情も、温もりも、猛りも……治に与えられる全てを鮮明に記憶に焼き付けている事。私の身体がそれらを余さず覚え込んでしまっている事。

 分かっていて、全部打ち明けて、私を更に溺れさせるのだ。

「…………治のご飯、冷めるけどええの」

 それが少し悔しくて、小さな声で最後の抵抗をしてみると、治は「フッフ」と楽しそうに笑った。

「あとでちゃあんと温め直したるわ」


back

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -