むせかえる程に充満したアルコールの匂いと、それに紛れて鼻腔を掠めるタバコの煙。ガヤガヤと騒がしく、落ち着きなど知らない周囲の声。
ーーさっさと帰りたい、というのが、私の嘘偽りのない気持ちだった。
「おーい、亮介!そっちのテーブルもドリンク揃ってるか?」
「うん、大丈夫」
この飲み会の進行役である、野球部宴会担当に向けて、隣にいる小湊が手を挙げて答えた。それを横目で見遣り、ごくり、と唾をのむ。
小湊亮介。私は今日、この男に用事があって、今まで何かと理由を付けて断って来た部の飲み会に出向いたのだ。
私と小湊は、同じ青道高校野球部出身だ。と言っても、今もその時も、私はマネージャー、小湊は選手と、立場は違うのだけれど。
その頃から、私は小湊のことが好きだった。プレー中は勿論、ユニフォームを脱いだ小湊にも、惹かれていた。
厳しい事を言うけれど、自分にはもっと厳しい。それでいて、ちゃんと優しい人だ。少し接しただけでは分からないかもしれないけど、そういう所がずるいと思う。後輩たちに慕われているのも納得だ。私がこの大学を受験したのも、小湊がいるというのが関係ないと言えば嘘になる。
「それじゃ、カンパーイ!!」
「「「カンパーイ!!」」」
宴会担当の掛け声に合わせて、皆でグラスを持ち上げる。四人席テーブルの片側で、乾杯、と改めて小湊がグラスを近付けるので、私もそれに倣った。
小湊がぐ、と勢い良く中身を呷る。喉仏が上下に動く様が妙に色っぽくて、思わずまじまじと見つめてしまった。その視線に気付いてか、何?と小湊が苦笑した。そんな筈はないのに、私の考えていることが見透かされていそうで、冷や汗が出た。
「べ、別に何も……」
「ふぅん。お前今日大人しいよね。何かあった?」
「な、何もないってば」
私の反応に納得していなさそうな小湊の視線から逃れる様に、グラスに少し口を付けてから、正面に座る友人たちの会話に混ざる。お願いだから、これ以上こっちの心を乱さないで欲しい。
(……小湊に、告ろうとしてるんだから)
私は今日、小湊に告白する。
そう決意して飲み会に参加したは良いものの。
(まさか同テーブルどころか、隣の席だなんて……)
席が遠すぎても話し掛ける機会がなくて困る訳で、近くの席を陣取れればいいなと思っていたら、入店時のてんやわんやで、いつの間にか隣の席に座ってしまっていた。
すぐ傍に小湊がいて、告白する、と考えただけで胃が恐縮する気配がするのだ。向かい合わせじゃなくて本当に良かった。
「……ねぇ、ちょっと!」
「え?」
「名前、絶対聞いてなかったでしょ〜」
気負い過ぎて、完全に自分の世界に没頭していた。先程まで話を振ってくれていたはずの友人は勿論、横で話を聞いていたらしい男二人も、私を見ていた。小湊なんて、先程も私の様子を気にしていたから、余計視線が鋭くなった気がする。
「ご、ごめん、何の話だっけ?」
「もう!この間声掛けてきた他学部の人の話!」
「えっと……そんな人いたっけ?」
「ウソでしょ?結構人気のある人だよ!ランチ誘われてたじゃない」
「すげーな!苗字、モテるんだなぁ」
「いやいや……そういえばそんな事あったような気がするけど、ちゃんと断ったよ」
聞いていなかった話題が恋愛絡みで、冷や汗が止まらない。これから告白しようという人を前に、他の人の恋バナなんて、どんな状況だ。
そして同席の残りの一人、エラく感心しているのは何故なのか。意外そうにしてるんじゃない。
「ええ〜!!勿体ない!なんで!」
「いや、だって……」
「好きな奴でもいるの?」
小湊が好きだから、なんて言えるはずも無くて、もごもごと意味も無く口を動かしていると、当の小湊本人から問われて、身が竦んだ。頭が真っ白になってしまう。
とにかく、どうにか時間を稼がなければ、とゆっくりと手にしたグラスを傾けて、中身がなくなるまで飲み続ける。ちょっと大丈夫?と心配する友人の声が聞こえたけど、気にせず飲み干し、テーブルにグラスを置いた。
「ま、まあ……そ、それよりそっちは?アンタなんか、練習見に来てた女の子に声掛けられたって聞いたけど?」
「何それ私初耳なんだけど!詳しく!!」
「え、ちょ、コイツにそれ言うなよ〜!」
こういう時は、答えを濁してサラッと話題を流すに限る。皆、アルコールが入ってるしテンションも上がってるから、一度はぐらかした言葉なんて深く追及してこないだろう。身を削って捻出した僅かな時間の中で、何とか編み出した対応は功を奏し、向かい席の二人は私の振った話題に夢中になっているようだ。
ほっとひと息ついて、またグラスに口を付ける。けれど、今しがた飲み干したばかりだと思い出した。二杯目を頼もうかと考えたところで、ふと頭に浮かぶ、一つの考え。このままどんどんお酒を飲んで、酔ってしまえば、小湊に告白するのも何とかなるかもしれない。
我ながら妙案だ、と顔を上げたはいいものの。
「よし、すみま……」
「すみません、烏龍茶二つお願いします」
「えっ……」
私は普段、あまり酒を飲む方じゃないけど、どちらかと言うと耐性はある方だ。なので酔っぱらうまで、となるとそれなりに飲まなければならない。
だと言うのに、他でもない小湊がそれを阻んで来た。……いや、小湊の事だし、酔っ払いの相手をするのが面倒なだけだとは思う。
私がお酒にそこそこ強い事は知ってるだろうに。
そう思って小湊を見ると、お酒を頼めなくて不機嫌だと思われているのか、小さく笑っている。
「……お前はもう酒はやめときな」
そしてあっという間に、頭にその手が乗る。酔ってもないのに頬に熱が集まった。
ずるい。ずる過ぎる。そういう事をされたら、私は何も言えなくなってしまうのに。そんな私の様子に満足したのか、小湊は私が話を振ったせいで未だに追及されている彼らの会話に混ざっていった。
それから、一時間半が経過した。
まだまだ飲めると息巻いている人もいれば、同じセリフを吐きながらも既に呂律が回っていない人もいる。私はそのどちらでも無かった。
当然だ。私は最初の乾杯での一杯以来、一滴もアルコールの類を飲めていない。ずっと烏龍茶をちびちびと口にしていた。
「んー、次でとりあえずラストにするか!生頼むヤツいる?」
「あ、私……いっ!」
最後のオーダーを取り始めた宴会担当に手を挙げかけたものの、それは叶わなかった。小湊お得意のチョップが、私の脳天に直撃したからだ。
先程からこの調子で、ずっと小湊にアルコールを阻まれ続けている。最初はもっとさり気ない感じだったのに、レパートリーが無くなったのか、とうとう実力行使というか、物理に頼って来た。一応、手加減はされているみたいだけれど。
「もうやめなって言ったよね」
「う……だって……」
さっきは上手いこと小湊に丸め込まれてしまったけれど、私だって今日は覚悟を決めてきたのだ。
そんなに小湊が酔っ払いの相手をするのが嫌だとは思わなかった。でも、やはり素面では告白なんて到底出来そうにない。
これはもう、二次会にもつれ込んだ時に小湊から隠れて飲むしか……などと考えていると、目の前の小湊の笑顔が一層黒くなった気がした。
「……もしかして、二次会行くつもり?」
「っ!?……そ、そりゃあ、誰かさんのせいで全然飲めなかったし……」
心の中が見えてるんじゃないかと思うくらい、ピッタリのタイミングで指摘されて、私は飛び上がりそうになった。実際、肩は何センチか上がった。
私の気持ちの全部が告白する前にバレてるんじゃないか、知った上で言わせないように邪魔してるんじゃないか、小湊は今のままでいたいんじゃないか、なんて色んな事を考えて、軽くパニックに陥った私に、更に追い討ちを掛けてくる。
「じゃあ、この質問に答えてくれたら飲んでもいいよ」
「……何?」
「酔っ払って、その勢いで誰を誘惑するつもりだったの?」
「な、な、何を……」
正直なところ、小湊の言い方はかなり語弊がある。きっとあえてその表現を使ったんだろう。
でも肝心なのはそこじゃない。予想はしていたけど、完全に告白しようと勇んでいる事はバレている。不幸中の幸いだったのは、その相手が小湊だと本人には気付かれていない事だ。……いや、これが幸運なのかどうか、まだ判断できないけれど。
「あれだけ誘われても断ってた飲み会に来たんだから何か理由があるんだろうとは思ってたけど……まさかそういう事だったとはね」
「た、確かにこういうのは好きじゃないけど……それだけでそんな、ゆ、誘惑とかじゃ」
「でも、普段大学でそういうスカート履かないじゃん」
Aラインのフェミニンな大人っぽいスカート。丈も膝上。高校時代の私を知っている小湊には今更だけど、少しでも着飾ろうとしたのが裏目に出たらしい。
告白しようとしている事が事前に知られてしまったことよりも、小湊に狙ってる男の為にわざわざ飲み会に来た女だと思われているのが地味にキツい。今日の所はやめておいた方が、と逃げる方へと傾きかけた時。
「……俺には言えないような相手なら、今すぐ却下だから」
「えっ」
「で、どこのどいつなの?」
「……あのさ、もしかして心配してくれてる?」
小湊は元々有無を言わせぬオーラがあるけど、それにはいつも、飄々とした余裕も一緒だった。打って変わって今日はと言うと、その余裕があまり感じられない。とても答えを急かされている事に、違和感があった。でもその中に嫌な感じは全然なくて、考えられる限りで一番正解に近そうなものを本人にぶつけてみると、少し虚をつかれたようだった。
「俺がそんな優しい奴に見えるの?」
「小湊は優しいよ。分かりにくいけど」
即答すると、へぇ、と返ってきた声は急に温度がなくなってしまったように、何の感情も読み取れなかった。
自分の告白の事は既に私の頭の隅に追いやられていて、目の前の小湊の様子がおかしい事が、心配だった。どう声を掛けようかと思案していると、突然小湊が動いた。
飲み会の初めに私がしたように、小湊は烏龍茶を一気に流し込んだ。
「ちょ、小湊大丈夫?」
当然烏龍茶にアルコールは入ってないから、諸々の病気の心配はないと思う。でも、一気飲みなんて普段の小湊からは考えられなくて、更に不安が押し寄せる。
慌てる私とは対照的に、小湊はむしろ落ち着いたようだった。静かに息を吐いて、私を見る。その眼差しは真剣そのもので、私は何も言えなかった。
「……酔った」
「えっ、酔った、って……」
そんなはずは無い。小湊も何故か私と同じで、最初の一杯以降はほぼ烏龍茶しか口にしていないはずだ。
どうしたものかとオロオロしている間にも、ラストオーダーだったお酒も皆大方飲み終えて、宴会担当が先に会計を済ませてくれている。その間に二次会に参加するメンバーは、少しずつ店を出始めていた。
なかなか動かない私たちに、同卓の二人が声を掛けてきた。
「お前ら、二次会行かないのか?」
「あ、いや、小湊が酔ったって……」
「えっ、小湊くんが?珍しいねぇ!」
「小湊、大丈夫かよ。帰れんの?」
「平気。苗字が家近いから」
「えっ」
何か今私の名前が聞こえたような。
「ああ、そうだっけ。じゃあ大丈夫そうね」
「宴会担当には俺から伝えとくから安心しろよ。苗字、送り狼になるなよな!」
「誰が!って、私は……」
私の言葉を聞くことなく、二人はさっさと店から出て行った。
他の皆も既に移動を始めているのか店の外から声が聞こえるし、会計していた宴会担当も、いつの間にか居なくなっていた。仕事が早すぎる。きっと後日、今の飲み会の請求が来るのだろう。
ともかく、今の私には何よりも重要な事がある。
「小湊、そんなに飲み会が嫌だったの?」
「どういう意味?」
聞いては来るけれど、小湊だって私の言いたいことは分かってるはずだ。
居酒屋ではまるで動けないかのように座ったまま動かなかった癖に、いざ帰り道となると私の肩を借りようともせず、至って普通の足取りで歩いている。
「だって、酔ったなんてバレバレの嘘つくから」
「苗字こそ、二次会行かなくていい訳?」
「小湊の様子変だったし、酔ってないとしても心配じゃん」
行くつもりだったし、行って酔っ払うつもりだった。でもそれはそもそも、小湊がいる前提だ。告白する相手もいないのに、酔っ払うなんて馬鹿な事はしないーーとついでに言えたら良いのだけど。
ムードのへったくれもない居酒屋からの帰り道に言うだけの勇気は無い。そんなの有ったら、とっくに告白してる。
「はぁ……」
ふと、小湊が溜息と共に立ち止まる。
やっぱりどこか様子がおかしい。溜息をつくなんて、らしくない。
私の視線に気が付いたのか、小湊は緩く首を振って苦笑した。
「そんな顔しなくても平気。自分に呆れてるだけだから」
「え?」
「知ってると思うけど、俺、苗字が誰かに迫ろうとしてるの、邪魔してた」
「言い方は気になるけど、まあそうだよね。でもそれって、心配してくれてたんでしょ?」
藪から棒に何の話だろうと思いつつも、付き合う事にした。そうすれば、小湊の言動の理由も分かると思ったから。
「それもあるけど、一番は、嫉妬」
「…………え」
「好きだよ」
「!?!?」
何も言わない私の顔を見て、小湊はクスッと笑う。なんて顔してんの、と言われてしまった。
それも仕方がないと思う。だって今の私は、口をあんぐりと開けて目をひん剥いているだろうから。
でもだって、だって。
「私が……言おうと思ってたのに」
無意識に溢れた言葉に、小湊はまた笑みをこぼした。
「第一声がそれなんだ」
「だって、ずっと告白しようって……でも言えないから酔っ払ってでもぶちまけようって……」
「何泣きそうになってるの。俺が泣かせたみたいじゃん」
「うう、だってだって……」
こんなの、駄々っ子みたいだ。
好きな人に告白された時くらい、いちばん可愛くいたいのに、顔がくしゃくしゃになってしまって、どうしようも無い。
涙腺が崩壊する前に手で顔を隠そうとした瞬間、ふわりと抱き寄せられた。
「今のお前の気持ち、ほんとにさっきので終わり?」
「お、終わりじゃ、ない……」
「だったら聞かせてよ。そしたらお前が泣き止むまで、いくらでも付き合ってあげる」
やっぱり、ずるい。
普段は意地悪で、すぐからかってくる癖に。野球に一途で、面倒見が良くて、優しくて。
「……私も、小湊の事が、好き!大好き!」
私の初恋は、とっくにこの男が奪い去っている。
back