!軸
さらさらと、風がわたし達の髪を攫って行く。時には桜の花びらなんかも混じっているそれは、とても心地良かった。春の風がこんなに気持ちがいいだなんて、知らなかった。知ろうともしなかった。
春は良い季節だ。風だけじゃない。花の香りは気持ちを落ち着けてくれるし、気温は昼寝をするのにちょうどいい。
「……凛月先輩」
「なぁに」
夢ノ咲学院のガーデンテラスの芝生。そこにうつ伏せに倒れ、微睡の中にいる先輩を、わたしは敢えて呼び戻した。
凛月先輩は気分屋なところがある。いつもならそんな事をすれば大変にご機嫌斜めになって、結局暫くは活動しない事だろう。けれど、今日は「安眠妨害」と言って怒らなかったばかりか、返事をしてくれた。彼は聡い人だから、わたしがそうした理由に勘付いているのかもしれない。
宝石のように輝き、そして血のように彩っている真紅の瞳がわたしを捉える。そこに映るわたしは、いつも以上に覇気の無い顔をしていた。
「凛月先輩は……わたしと初めて会った時の事を、覚えていますか」
「……忘れたくても忘れられないけど。史上最悪な起こされ方したんだから」
少しだけ間があって、先輩は答えてくれた。呆れたように笑いながらも、その時の事を思い出したのか、少し苦々しそうなニュアンスを込めて。
初対面の時。わたしは太い木の根に躓いてしまい、昼寝中の凛月先輩の上に、思い切りダイブしてしまった。「ぐえっ」というアイドルらしからぬ、潰れたカエルのような先輩の声を、わたしは今でも鮮明に思い出せる。
他のKnightsの方々には笑い話として片されたけど、お陰で当時の凛月先輩のわたしの印象は最悪だった。
「はは、すみません」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
わたしが凛月先輩の本気のキレ顔を見たのは、後にも先にも無かったと思う。そもそも怒る事にエネルギーを費やすくらいなら、寝る時間を増やしたがる人だ。背筋の凍るような怒気を孕みつつもその美しさは損なわれなかったところは流石としか言いようがない。
風が、また吹き起って、折角綺麗に整え直した前髪を掻き乱す。その序でと言わんばかりに、わたしの心も、次々と蘇る思い出によってかき乱される。私は右手で前髪を掻き上げ、応急処置を施す。乱れた心は、今更如何にも成らないから……どうすることも出来ない。
「何笑ってんの」
「……すみません」
てっきり、ダイブ事件を笑った事に怒っているのかと思ったけれど、凛月先輩は「違うでしょ」とぴしゃりと言い切った。和解してからはあまり聞くことのなかった鋭い声に、身が竦み、瞳孔が意図せずして開く。
気怠そうに地面に投げ出されていた肢体を起こし、凛月先輩は自身の頭をわしゃわしゃと掻き回した。セットしても様にならないわたしと違って、無造作なその姿すら絵になる。
「ほんとは、俺に言いたい事があって来た癖に。変に勿体付けないでよ」
そんな言い回しは一見冷たく聞こえるけれど。
やっぱりわたしの心なんてお見通しで。言い出せないわたしの背を押す言葉ということで。
わたしにとっては、それが何より嬉しい。
「……凛月先輩には、隠し事は、出来っこないですね」
隣に座りなおした凛月先輩を見つめて、息を小さく吸う。覚悟はもう決まった。
今までずっと左手で隠し持っていた“ある物”を差し出す。それを目にした瞬間、凛月先輩は瞳を大きく見開いた。その形の良い唇が、ゆっくりと動く。
「何、これ……花束……?」
「そんな、大層なものでもありませんけどね」
そう、わたしが差し出したのは、花束。
数本のスイートピーを束ねた、小さな、小さな花束。
「凛月先輩。わたし、この学院に来ることが出来て、貴方に出会えて、本当に良かった!どこにいても、わたしは凛月先輩を応援してます」
「は……」
「さようなら」
「!ちょっ……」
本当に伝えたい事だけを短く纏め、ゆっくりと丁寧に言い切った。そしてそこからは迅速だった。
わたしは凛月先輩に、ガーデンテラスに、わたしと凛月先輩の安息の場所に背を向け、一気に走り去る。
「待ちなよ!名前!」って。凛月先輩の綺麗な声が、わたしの名を呼んだ時はドキリとしたけれど。
振り向きはしなかった。今振り向けば、きっと去りたくなくなってしまうから。
これから先、一生会う事が無かったとしても。凛月先輩の人生のほんの片隅の塵のようなところに、わたしに関しての記憶が、追いやられてしまったとしても。
わたしはきっと、忘れない。
きっといつまでも、あの花のように、わたしの中に残ってる。
ーースイートピーの花言葉。
「優しい思い出」
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