01
春。
予てからの念願だった青道高校に、私は無事、入学する事が出来た。当然、試験の結果は2ヶ月ほど前に分かっていたけれど、実際に制服に袖を通し、校門を潜った時の高揚感は、また格別だ。
道なりに植えられた満開の桜が、私たち新入生を出迎えてくれる。その淡い色から連想される“記憶”に想いを馳せながら、私は昇降口へと足を進めた。
***
ーーそれから、早一ヶ月。
私は、青道高校野球部マネージャーとして、それなりに忙しい日々を送っていた。
朝はジャージのまま登校して、朝練の片付けをお手伝いする。放課後はもちろん練習のサポート。休日は試合の応援に行ったり、他校の試合のビデオを撮ったり、それらを見たり。
まだまだ先輩マネージャー達に助けられる事ばかりで、私自身これで十分とは思ってない。でも、私はこの仕事を楽しいと感じていたし、この先も続けていくつもりだ。
「あ、やべ」
私の隣の席の男子ーー期待の一年捕手、御幸一也が小さく声を上げたのは、そんなある日の事だった。
野球部、という共通項があると言っても、所詮選手とマネージャー。その上、彼が教室で誰かと仲良く話している所なんて見た事がない。例外的に、同じく野球部の倉持とは何か言い合っていたけれど。そんなわけで、当然私も自己紹介以外で、まともに彼と話をした事は無い。
しかし、何か不都合が起きている様子だ。既に授業は始まっているから、言い出しにくいのかもしれない。何の縁か、先日の席替えで隣の席になった事だし、聞くだけでも聞いてみよう。
「どうかした?」
「!いや〜、数学の教科書忘れちって」
まさか私の方から声を掛けてくるとは思わなかったのだろう。少し目を瞬かせてから、彼は苦笑した。
実を言うと、少し意外だった。御幸一也と言えば、シニアの頃から幾度も持ち上げられていた有名選手だし、リトルで野球を辞めた私でさえ、何度か耳にしていたくらいだ。教室でもよくスコアブックを眺めているし、捕手というポジションの性質上、しっかり者のイメージが強かった。
実際、野球の面においてはそうなんだろうけど、日常生活ではうっかりしている事もあるらしい。
「じゃあ私ので一緒に見よう」
少し親近感を覚えながらそう提案すると、「さんきゅ、助かるわ」とまた笑ってくれた。
数学は、正直そこまで好きではない。ただ、公式や解き方を覚えればある程度何とかなるので、とにかく授業で吸収しておこう、というスタンスだ。
とはいえ、今日は少しばかり事情が違う。通路を挟まず、すぐ隣に、御幸一也がいるのだ。
いつものように、鬼気迫る勢いで授業を受けていては流石に驚かせてしまうだろうし、教科書を参照する際にも波長が合った方が良い。そう思って、時折様子を伺いつつ、シャーペンを走らせていた。
今は指示された練習問題を皆して解いている。教師はその様子を見回りつつ、口を出す事もあるが、友達同士で確かめ合っている子もチラホラいるので、教室は少し騒然としていた。
そのざわめきに紛れて、隣から伸びてきた指先が軽く私の机を叩く。
「声掛けてくれてマジで助かったよ。席も壁際でそもそも人少ねーし、どうしようかと」
「普通に声掛けてくれていいのに。部活も同じだし」
「そうだけど、ただでさえマネージャーには色々支えて貰ってんのに、って思ったらさ」
「赤点取って補習にならないように、助けるのもマネージャーの仕事だよ」
「……それはちょっと優しすぎねえ?実際頼らせてもらってたけどさ」
間髪入れずに答えた私に、彼は少し驚いたようだった。問題を解く手を止めてまじまじと私を見ている気配がする。
全然、と私は手を止めずに答えた。
「皆には、絶対甲子園行って欲しいから。負担なんかじゃないよ」
「……」
私の発言の何がそんなに気にかかるのか、一度止めた手を再び動かす気配はなく、未だに視線を感じる。いい加減、進めないと先生の解説が始まってしまうんじゃないだろうか。
そんな私の心配をよそに、「違ってたら悪いんだけど」と彼はまた口を開き、爆弾を落とした。
「皆に、というより亮さんに、じゃねぇの?」
「……は?」
「高村って、亮さんの事好きなんだろ?」
「……はぁ!?」
それを聞いた瞬間、もうすぐ解を導けそうだった問いなんて、どうでもよくなってしまって。シャーペンを放り出さんばかりの勢いで、ぐりん、と首を回すと。
「ちょ、おま、声デカい……」とぼやく御幸一也の顔があり。それを見た私もようやく、教室中の注目が自分に集まっている事に気付いたのだった。
最悪だ。本当に最悪だ。
「はぁ……」
思わずため息が漏れるほどに、私は参っていた。
授業でやらかした事についてではない。
勿論、先程の事は先生にはすぐに謝ったし、先生も「高村の事は心配してないから安心しろ」と言ってくれた。私が意図的に大声を出した訳では無い事は分かってくれているようで、そこはホッとしたのだが。
(どうして平然とスコアブック読んでるの……)
問題は、隣の席のこの男。御幸一也だ。正確には、彼が先程放って来た爆弾発言について、だけれど。
どういう意味なのか、何故そんな事を考えたのか、問い質したいのは山々だが、内容が内容だけに人に聞かれたくはない。少ないとはいえ、他にもこのクラスに野球部員がいる事を考えたら、迂闊に口にはできなかった。
(私が、小湊先輩を好き、だなんて)
天地がひっくり返っても、本人の耳には入れたくない話だ。どうしても早急に、御幸一也と二人で話す必要がある。それも、教室以外で。
今までの状況を考えると、そう都合よく巡って来るとは思えず、何か策を講じるべきかーーなどと頭を抱えていたのだけれど。
その機会は、至極簡単に訪れた。
「……え?倉持……じゃないよね」
「はははっ、ひっで〜。クラスメイトの顔間違えんなよ」
部活終わり。
校門にやって来た私の反応に、酷い、と言いつつケラケラと笑っている男が一人。あの出来事から今日一日、ずっと話したいと思っていた相手だ。
随分と失礼な態度だった事は申し訳ないけど、驚くなと言う方が無理だ。
今まで、電車で帰る他のマネージャーは伊佐敷先輩が送る事が多かったし、実家まで歩きの私は、初日に送って貰って以来、倉持が来てくれる事がほとんどだった。倉持が無理でも同室の増子先輩が送ってくれるし、どうにも今目の前にいる彼とは結び付かない。
思っていることが顔に出ていたのか、察しが良すぎるのか。恐らく両方の理由で、彼は私の疑問に答えてくれる。
「俺から倉持に言ったんだよ。今日は俺が送るって」
「……どうして」
「あんなにずっと見られてたら気付くって。あの事話したいんだろ?」
やはりと言うべきか、流石というべきか。素知らぬ顔をしてスコアブックを読んでいた割に、私の視線の意味までしっかり読み取っていたらしい。こちらとしては、願ったり叶ったりだ。
「ありがとう。それじゃあ、よろしく」
私がそう言って横に並ぶと、おう、とだけ返ってきた。
まだ五月初旬と言えど、ぼーっとしていたらあっという間に梅雨がやって来る。
心なしか、空気が湿気ている気がした。雨が降るとグラウンドが使えない上、気分的にも盛り上がらないから、梅雨は、憂鬱な時期だ。
「俺、まだあの質問に答えてもらってないんだけど」
「うっ……いきなり?」
なんて、ぼんやり天気の事を考えていたら、早速本題を吹っ掛けられた。私もその話がしたくて色々悩んでいたとは言え、突然始められると、些か動揺してしまう。
もう少し自然な流れで始められなかったのかと、唇を尖らせて隣を見ると、悪戯っぽく歯を見せて笑っている。
「悪いな。俺にそんなトーク力はねえ」
「そんなキッパリ言わなくても」
「有っても、同じ切り込み方したと思うぜ。早く教えて欲しいし」
「…………質問の答えは、ノー、だよ」
「どっちの質問?」
「両方!」
さすが敏腕捕手。こういう所は、抜け目ない。
「皆ではなく小湊先輩ではないのか」「小湊先輩の事が好きなのか」
どちらかの答えでもう片方を誤魔化せないように、きっちり逃げ道を塞いだのだ。何れにせよ、私の答えは変わらなかったけれど。
「……マジで?」
「大マジ!どうしてそんな思考に至ったのか、ちゃんと教えてよ」
「いやいや、だってお前、アレわざとだろ?」
「アレ、って?」
「おにぎり配る時も、ドリンク配る時も、タイム計測の時も、絶対小湊先輩のトコには行ってない。でもあの人の事はよく見てる」
「なっ、それは……」
それは、事実だ。紛れもなく。
私のようなマネージャーの動向を気にする筈がない事は重々承知で、間違っても本人が、避けられているんじゃないか、なんて思わないように上手く立ち回っていたつもりだった。
でもまさか、本人以外の人に気付かれるなんて。それも、曲解されてあらぬ誤解が生まれている。
「とりあえず勘違いしてるみたいだけど、私が小湊先輩を恋愛的な意味で好きとか、そういうのは全然無いから!事実無根だから!」
「ふーん?」
これは全然納得していない感じだ。
まともに話したのは今日が初めてだし、どんな表情するのかとか全然知らないけど、それでも分かるくらいには、不服そうだった。
本人に知られたくないし、野球部員には特に話すつもりはなかったのだが、流石にこれでは納得して貰えそうにない。口ぶりからしてまだ推測の域を出ていないだろうし、そんな噂レベルの話をペラペラと誰にでも喋るようには見えない。
何より、このまま押し切って、変に確信を持たれるのは避けたかった。
「……私、小湊先輩を純粋に尊敬してるの。あの人に、憧れてるんだ」
「尊敬?」
怪訝そうに繰り返す御幸一也に、私は力強く頷いた。
きっと彼の頭の中は、数学の授業中、爆弾を落とされた私のように、クエスチョンマークでいっぱいだろう。普通に考えて、全く関わりのなさそうなただのマネージャーが、一軍選手に一目惚れする事はあっても、尊敬する、というのはちょっと特殊だ。
それでも事実は事実。
私は小湊先輩を人として心から尊敬しているし、あの人が居たから青道を受験したようなものだ。だからある意味、特別ではあるのだと思う。
でもそれは恋愛感情なんかじゃない。
「避けてるようになっちゃってるのは、畏れ多くて近付けない、っていう感じかな」
「はぁ……」
勿論、一度くらいはきちんと言葉を交わしてみたいと思わなくもないけれど、あの人がプレイしている姿や日常生活での姿勢なんかを見ると、自然と背筋が伸びる。それが嬉しかった。
ドラマや漫画であるような、相手の事しか考えられないとか、仲良くなりたい、付き合いたいとかそういう感情では無いと思う。私はまともに恋をした事が無いけど、そう言い切れる。
とにかもかくにも、誤解を解きたい、そんな噂であの人を煩わせたくない、というその一心で、長々と説明していると。
ぷっ、と隣で吹き出すのが聞こえた。
「くっ……駄目だ、耐えらんねえっ……く、はははっ……」
「…………」
こっちは真剣だというのに、何がそんなに面白いのか。どうやらツボに入ってしまったらしく、歩くことすらままならない様子で腹を抱えて震えている。
そんなに笑う事ないのに、と零せば、ようやく顔を上げて言った。
「いや、わり!なんつーか、そんな力説されるとは思ってなくてさ。大人しい奴かと思ってたけど、結構変なのな、お前も」
「へ、変って……」
「言っとくけど、小湊先輩を尊敬するのが変って言ってる訳じゃないからな」
「当たり前でしょ!」
自分ではよく分からないけど、唯や幸子、それに先輩マネージャー達にまで、「花澄ってしっかりしてそうなのに、ちょっと暴走する所あるよね〜」と言われる始末だ。
どうやら、先程の“説明”はその暴走した内に入るらしい。
ぎこちなかった授業中とは打って変わって、今は硬さも取れてそれなりに会話が弾んでいる。気付けば、家はすぐそこだった。自然と歩く速度を緩めた私に気付いて、御幸一也も足を止める。
「ああ、もしかして家着いた?」
「あ、うん、送ってくれてありがとう。御幸一也……くん」
「なんでフルネーム?しかも取ってつけたようにくんって」
「いや、呼び掛けたこと無かったし、迷っちゃって」
本人に会う前からその存在や名前を知っていたからか、私の中では『凄腕捕手、御幸一也』というフレーズが定着していた。
おかげで、いざ本人を呼ぼうとしたら、するりと流れでフルネームが出てしまったのだ。
「大丈夫、次からはちゃんと御幸くんって呼ぶから」
「別に呼び捨てで良いけど」
「え?」
「ほら、倉持とかはそうだろ?俺もそれで良いって」
倉持は、毎日のように送ってもらう内、流れでそう呼ぶようになっただけで、他の一年は普通にくん付けなんだけれど。川上くん然り、白州くん然り、前園くん然り。
でも、本人が良いって言っている以上、呼ばない理由はない。
分かった、と頷くと、御幸一也ーー御幸は、満足そうに笑った。
向かい合って話すのは殆ど初めてのようなものなのに、彼の笑顔をたくさん見ている気がする。
よく笑う人なんだな、なんて呑気な事を考えてるうち、御幸はそれじゃまた明日、とさっさと歩き出した。
「御幸、ちょっと待って!」
「ん?」
「今日の事、誰にも言わないでね!」
御幸の反応を見るに、小湊先輩の事はちゃんと納得して貰えた筈だ。
でも、彼のように恋愛感情と憧れの大きな違いを分かってくれる人がどれだけいるだろうか。万一の場合を考えて、あの人を尊敬している、という事すら、あまり人には知られたくなかった。
きっと私が男だったら、真正面から話をさせて貰いに行くだろうし、この気持ちを隠す事も無かっただろう。東先輩を慕う伊佐敷先輩や、前園くんみたいに。
でも現実は、私は女で、マネージャーという立場だ。隠しておくに越したことは無い。
「言わねえよ。俺とお前、二人だけのヒミツだもんな……なんつって」
「ぷっ……何言ってんの」
冗談めかして言ってはいるけれど、こういう嘘は付かないと思う。何より、チーム内でそんなイザコザがあって困るのは彼らの方だ。
恋愛に浮き足立つ年頃ではあるし、その話題で揶揄うのも楽しいのかもしれないけど、野球に集中したい気持ちも、誰よりも強い人ばかりだろうから。
釘刺す必要なんて無かったかもしれない。
そう思いながら、もう一度、色々な意味を込めて、ありがとう、と声をかける。
今度は御幸は足を止めず、軽く片手を挙げただけだった。
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