聞かれた


名前を教室まで送り届けて俺が自分の教室へ着く頃には、まだ学生の姿は疎らだった。いつもは朝ギリギリの時間まで部活していて既に多くの学生が登校してきた後の教室ばかりを見ていたので、こんな光景は珍しい。


(いや…もっと珍しいモンがあるな)

窓際で、直射日光を浴びるのも構わず難しい顔をしている赤い髪。俺がすぐ隣に立っても気付きやしない。深刻そうな顔が面白いので俺は前の席へと腰掛けて、それでも気付かないブン太を観察した。


(いつもなら、すぐに気付くじゃろ)

完全に心此処に在らずといった状態のブン太だが、しかし身体に染み付いているのであろう、ガムを噛む動作だけはやめない。
ぷくうといつものように、器用に風船を膨らます。



パチン。


「んぶっ!?」

「なーに珍しい顔しとるんじゃ」

ガムを膨らます事幾度目か。全く気付く気配のないブン太を観察しているのも良かったが、いい加減に飽きて来た気もするので俺は丁度膨らみきったガムをつついて割ってやった。割れたガムはブン太の頬やら鼻やらに付着し、そこでようやっと彼は俺の存在に気が付いた。


「ん…な、何すんだよ仁王っ!」

「何って、気付いてくれんブンちゃんが悪い」

「はぁ?」

「俺のことほったらかして考え事とはいい度胸やの。ほれ、眉間シワシワ。カワイイ顔が台なしじゃ」

深く皺の刻まれている眉間を指で押してやると、何故だろうか…ブン太は少し動揺を見せた。見開かれた大きな目がゆらりと揺らぐ。何を言うべきか迷うように小さく唇を開閉する。
俺が押し黙ってブン太の言葉を待っていると、


「…お前、今朝一緒に歩いてた奴…新しいカノジョ?」

「ん?」

なんとも意外な質問が飛んできた。


「だから、今日、お前女子と登校してきたろ。あれカノジョ?」

「ああ…、そうじゃ」

重ねて問われ、俺は頷く。ただし偽物の、と心の中で付け足しながら。
いつもならば、俺がどの女を連れていてもブン太は何も言わないし、もし今のように質問されて答えても「ふーん」の一言で会話は終了する。…する、はずだ。
なのに、今日は一体何なのだろうか。


「…………ふうん」

ブン太は、何故か憤ったような顔をしてそう応えた。

気になる事は山とあったが、もう話す事は何もないというポーズを取られてしまえば問い詰める事もできない。窓の外を不機嫌に眺めるブン太の赤い髪をひとつ撫でて、俺は自分の席へと戻った。


暫くして、朝のチャイムが鳴り響く。



(もしかしなくてもこれは、)



完全に俺と名前の間のゲームだったはずが、ブン太には悪い事をしてしまったようだ。
一ヶ月の間だけ我慢しておくれと心の中で謝っておく。









放課後になって、今日も共に帰るべく名前の教室へ向かった。廊下では生徒達の視線をモロに浴びて痛いことこの上ない。まぁ俺は慣れているから構わないが。ふと、いかにも悪目立ちするのを嫌いそうな名前が大丈夫だったかが気になった。


「名前」

教室を覗き込んで、そこに名前の姿を見付けたので呼び掛けた。名前はすぐに気付き、顔を上げる。ついでに言うと、名前以外にも多くの視線が飛び交った。
俺が手招きするまでもなく名前は立ち上がり、ぞんざいに鞄を肩に掛けてこちらへ来た。いかにも早く此処を去りたいという体だ。


「帰ろ、雅治君」

「おん」

手を握ろうとすれば、それよりも早く名前の冷たい手が俺の手を握りしめた。珍しい事に少し驚くが、成る程、そのくらい教室で居心地の悪い思いをしたのであろう。
こんなゲームを持ち掛けたのは名前の方だが、相手が俺でなければこんな目には合わなかったろうに。えもいわれぬ罪悪感に、心の中で小さく謝罪しておく。




暫くの間、無言で通学路を歩く。
相変わらず下校中の生徒の視線が痛いが、校舎内に居る時よりは幾分ましだ。
何者かから逃げるように歩いてた名前も歩調を緩める。


「…はぁ」

「何じゃ、疲れとるの」

大きな溜息を吐く名前に、しれっと問い掛ける。


「…多少は面倒な事になると思ってたけど、まさかこんなに鬱陶しいとは思わなかった。凄いね雅治君って」

名前の言う「凄いね」に揶揄を感じたか、肩を竦めるだけで受け流す。


「女の子からの質問責めはある程度覚悟してたけど、もう酷すぎ!今日だけで仁王君の自称彼女と10回は会ったよ」

どれだけの子に手を出したの、と問われて閉口。半分以上は妄想の賜物だと言ってやりたいが、心当たりが無きにしもあらずなので何も言えない。
ご苦労さんの意を篭めて頭を撫でてやるが、名前の不満は止まらないらしい。意外な程饒舌に、今日一日の愚痴を零し続ける。


「ていうかね雅治君、おかしいんだよ?女の子が文句言ってくるのはわかるけど、男子にも雅治君と付き合ってるのかって詰め寄られたの。なんでお前らがそんな事を気にするんだっての。まさかとは思うけど君…男子にも手、出したりしてないよね?」

「……あるわけなかろ」

「だよねー」

男子からも問い詰められる原因は名前自身にあるとは言えず否定の言葉だけを口にすれば、名前は安心したような顔をした。


(…何の心配をしとるんじゃ、こいつは)

アホらしくなってしまう。


「…そんなに面倒ならば、ゲームを辞めるか?今なら引き分けってことにしちゃるきに」

「………………」

あまりに疲れた顔をしているのでそう持ち掛ければ、名前は立ち止まって俺を見上げた。
さっきまでの疲れた顔や安心した顔のような柔らかい雰囲気が一瞬で遠退いて、一本の糸が張り詰めたような、硬質な雰囲気が名前を取り巻く。俺を見詰めて離さない視線は静々としていて、硝子のようだ。
それが、名前の怒ったサインだと気付いたのは名前が口を開いた時だった。


「辞めない」

「………………」

底冷えのするような声で言われて、反射的に頷いた。名前はそっと目を閉じて、再び開いた時には…


「まだ、私恋愛の楽しさ教えてもらってないからね。こんな中途半端なところでやめたらモヤモヤするでしょ」

楽しそうな顔で笑っていた。




「……名前程、図太い女も初めてじゃ」

「素敵な褒め言葉ありがとう」

「…ええんか?」

「いいよ。だって、こんなスキャンダラスな経験はそうそうできないもん」

「………………」

相変わらず、面白いと思った事にはなりふり構わないらしい。
敬服に価するまでに一貫した主張には呆れ果てたが、自分の興味の対象以外には頓着しない所は少し危なっかしい。



心の中に浮かんだ決意の、意思表示をするように、名前の華奢な身体を引き寄せた。

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