妬いた
あの大雨が嘘のように、次の日の空はすこんと晴れ渡っていた。恨めしいくらいの陽光は散々降りしきった雨を反射してきらきらと眩しくて、また物凄い湿気が肌に張り付いて不愉快なこと極まりない。湿度何十パーセントなんて世界は、大気中でも溺れてしまいそうなほど息苦しかった。
「暑いのう…」
「…暑いね」
名前の隣にどっかりと座ると、そう囁き合った。ここは日陰になっているからまだ過ごし易かったが、一度コートに入ってしまうともう灼熱地獄である。あんな中で平然とラリーを続けている真田とジャッカルの気がしれない。病み上がりの幸村はおろか、柳生や赤也、ブン太に柳だって細やかに休息をとらねば練習にならないというのに。この間、練習を見に来て以来テニスに興味を持ったらしい名前は、こうして時たま練習を見に来てくれるが、この暑さの中ではそれも少々酷な気もする。
「暑いのは暑いけど、雅治君が教えてくれたここはまだ涼しいほうだよ」
「さよか」
手渡されたボトルはひやりと冷たくて、この猛烈な湿気の中でびっしょりと汗をかいている。受け取る指先から冷たい雫がひとつ滴り落ちた。喉を反らして勢い良く注ぎ込めば熱く渇いていた喉をドリンクが滑り落ちて、この上なく爽快だった。隣を窺えば名前は何故か眩しそうに目を眇めている。
「どうかしたか」
「ううん、何でもない。…あは、雅治君汗びっしょりだよ」
笑った名前に前髪を掻き分けられる。ひんやりとした指先がちょいちょいと額に触れながら目の前をさ迷うのが何となくこそばゆい。視界いっぱいの指先がボケて、奥にある名前の目を見詰める。気付いた名前も見返してきて、俺の額に触れたままの奇妙な状態で暫し見詰め合う。
1秒、2秒、5秒、10秒…
「お前らムカツク」
「!」
訪れた静寂を破ったのは、俺の頭に落っこちてきたテニスボールだった。飛んできた方を向くと、丁度ボールを打ったポーズのままじっとりと俺達をねめつけるブン太が居た。
「なにするんじゃ」
「妙技・仁王当て、ってな」
したり顔のブン太は悪びれもせずこちらに来ると、置いてあったタオルを掴んで観客席――俺達の後ろの席に勢い良く寝転がった。どうやら柳とラリーを終えた所と見えて、参謀も肩を上下させながらベンチに向かっていた。名前は身体ごと後ろを向くと彼女にしては珍しい、意地の悪い笑みを浮かべてブン太の脇腹をつつく。
「あっはっは、伸びてる伸びてる。すごい汗だし、いいダイエットになったんじゃない?」
「うるせー、干物」
「過食症の丸いブタ君には言われたくないなー」
からからと笑う名前と丸井の、遠慮のない(いささか遠慮がなさすぎると思わないでもない)会話。胸の内に浮かんだものは呆れるくらいに幼稚な感情で、誰かに対してこんなにも強くこの気持ちを抱いた事のない俺は、それに戸惑いながらも…
「名前、ブンちゃんとイチャイチャしちゃ嫌ぜよ」
名前の華奢な身体を抱きしめた。
名前は腕の中で多いに戸惑っているし、ブン太はブン太で呆れたような顔で俺を見ている。…これは牽制。ブン太が名前になんの感情も抱いていないと知りながら、それでも牽制。じっと見詰める俺の視線の意味を嗅ぎ取ったらしいブン太は盛大に阿呆面を晒したのちに立ち上がって、溜息をついた。
「バーカ、誰もンな干物なんかに手ぇ出さねっての」
言うだけ言うと、ブン太は俺を小突いて立ち去った。腕の中で身を小さくしていた名前が離して離してと言うので、惜しくはあったが解放する。見れば名前は怒ったような顔をして俺を見上げていて、いきなり変な事をするなと額を小突かれた。
「じゃって、名前がブン太と仲良ししよるから」
「そりゃあ1年の頃から知ってるもの」
「…羨ましいぜよ」
ぽろりとこぼれ落ちたのは、本音。心の底から本当にブン太が羨ましくて仕方ない俺だが、名前にはそれが意外で仕方ないらしい。目を大きくして、ポカンとしている。
(まあ、好きとか言っとらんし)
この関係は、あくまでも偽物だし。
今にも何が羨ましいのと質問を飛ばしてきそうな名前の、言葉を封じ込めるように何でもないと言った。釈然としない名前から視線を外して、ゆらゆらと陽炎の立って見えるコートに視線をやる。そこには次のラリーの相手、赤也が手持ち無沙汰に突っ立ってはこちらをちらちらと窺っていた、如何にもカップルの邪魔をしちゃ悪いといった表情で。このままおたおたさせておくのも面白かったが、これ以上休憩していると真田の鉄拳か、もしくは幸村の圧力にやられてしまいそうなので重い腰を上げる。結局、何にも気付いていないふうの名前は心なしか嬉しそうな顔をして練習に戻るの?…って、そんなに俺に練習に戻って欲しかったんか。
「…もっと傍におってー、とか、引き留めてくれんのか」
「どうして?私、テニスしてる雅治君大好きだもの」
「……。行ってくるぜよ」
単純なものだとつくづく思う。と、言うか卑怯だと思う。そんなことを言われたら頑張る他なくて、張り切るし、もっと練習しようとか思うし、耳にこびりついた雅治君大好きは延々とリピート再生されるし。
「ホント、仁王先輩と名前先輩って仲良いっスねー」
「…赤也、悪いがギタギタに倒させてもらうぜよ」
「え、なんで!?俺なんか失言した!?」
憎たらしいほどの夏空に、赤也の悲鳴がこだました。憎たらしければ憎たらしいほど、爽快だった。
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