降った


名前との擬似恋愛がスタートしてからかれこれ12日。窓の外に見える不穏な色をした空を眺めながら指折り数える。気が付けばとうの昔に7月に足を突っ込んでいて、あと半月もすればもう夏休みだった。8月になれば中学生活最後の全国大会も始まる。


(名前に試合を見に来てほしかった、なんて)

きっと高望みだ。
あのサバサバ女の事だ、きっとこの関係が終わればすぐに俺など知らんぷりをしてしまうかもしれない。いや、きっとそうだろう。この10日ちょっとで俺が名前に与えたものといえば、他人の無駄な注目と女子からの生臭いひがみばかり。残り半月と少しを名前が長いと感じるか短いと感じるかは解らないが、少なくとも俺のようにいつまでもこのままで居たいと思うことはないのではなかろうか。そう思うと少し嫌になったが、きっとそれは外れていないとも思った。仕方なかった。


そういえばこの間は散財な目に合ったな、とひとりごちる。俺がブン太を連れ出してサボりを決行したあの日、2限目も半分を過ぎたかという所で何故か赤也を引き連れた名前が現れた。なんじゃ、浮気か。人気ない屋上に後輩連れて忍び込むなんてええ度胸じゃ。冗談でなくふて腐れた俺だったが、名前は俺を見付けた途端に表情を輝かせるものだから、面食らってしまった。おいおい、いつもの落ち着いた笑顔は何処へやった。驚くと共に名前を可愛いと思ったのはほんの一瞬のことで。

すぐに俺達のいる所へ登ってきた名前の、俺やブン太が挨拶する隙も与えずに始まった説教に、俺はともかく赤也まで真っ青になって小さくなってしまっていた。ただ一人、名前と付き合いの長いらしいブン太だけは慣れたような表情をしていて、その年月の長さを俺は羨ましいと、


(いや、こればかりは羨ましくない)

思い出すだけで、頭がくらくらした。

ぼうっとしてる内に視界では雨がパラつき始めて、そういえば今朝名前が水色の傘をちらつかせながら台風が近いと言っていたような気がする。そう考えている間にも雨足は強くなってきて、木々もざわざわと風に揺れていた。この分じゃあ今日は練習は室内か、若しくは無くなってしまうだろう。真田あたりは部活が無くとも自主練をしろと怒りそうだが、俺にとってはラッキーだとしておく。

程よく効いた空調と、教師の単調な声と、雨と風と、耳の奥で繰り返し再生しては俺の中の箱を充たす名前の声とが雑じり合って、俺を眠りの世界へ誘おうとする。俺は抗うこともなくその波に乗って、そっと顔を伏せた。この体勢で寝るのは決して楽ではない。どうせならば何処かで寝転がって惰眠を貪りたいものだが、台風ならば屋上も木陰も無理なので仕方がない。仕方がないから、軋む腰を宥め宥めつつ俺は眠りについた。

雨音は強くなる。






ざあざあと降りしきる雨の中で、名前が泣いていた。俺の見たこともないような顔をして、聞いたこともないような声をあげて、わあわあと泣いていた。涙を拭ってやりたくなったが、抱きしめてやりたくなったが、雨の強さが俺を阻む。俺の手の届かないところで名前は泣いていた。
どうしようもなくてただ突っ立ってそれを眺めていれば、いつの間にか降りしきる雨は全て名前の涙になっていて、俺を頭の先から爪先までぐっしょりと濡らす涙の重さにに、ただただ絶望した。


(止めてやれん)

(名前のなみだ、俺には止めてやれん)


――痛い、いたいよう


雨音に雑じり、名前の声が聞こえる。
うなじの痣が、ひっ叩かれた頬が、青く赤く青く赤く青く赤く青く赤く青く、泣き叫ぶ名前を染めてしまった。


「いたいのいたいのとんでいけ」


(痛みを消してしまう魔法の言葉が、)


雨は止んで、橙色のひかりが。






「ん、」

「起きた?」

雨は上がったはずだった。橙色に染まったはずの世界は、ねずみ色だった。温かいはずの世界、雨はまだ降っていた。髪を撫でる掌の冷たさが、悲しかった。
あの涙のように冷たかった。いたいと泣いていた。


「いたい…」

「いたいのいたいのとんでいけ」

また魔法の言葉。
この声は、この掌の温度は。


「!!」

「あは、ひどい顔」

泣いていたはずの名前は優しい顔をして俺の前の席に座っていた。笑ったまま俺の髪を撫でてくれて、いつ誰が冷房を切ったのか知らないがじっとりと蒸し暑い教室に、冷たい掌が心地好かった。酷くうなされてたよ、という言葉に、ようやく自分が寝ていたことを思い出す。思い出すと、急に腰が痛くなった。


(…夢)

あれは全部夢だったのか。泣いていた名前も、痣も、頬も。目の前の名前は泣いた気配もなくただ穏やかに微笑んでいる。暫く見詰め合って、漸く現実感を取り戻したかと思えば名前が耐え切れないといった顔て吹き出した。


「な、なん」

「雅治君、顔中べしょべしょ」

ホラ、と言って頬を指で拭われる。そこで始めて俺が泣いていたことを知り、何でじゃ、泣いていたのは名前の方で、俺を濡らしているのは名前の涙のはず。だから、俺は泣いとらん、ただ絶望を、


「…もしかしなくても、まだ寝ぼけてるでしょ」

「寝ぼけとらんぜよ…」

「うそつき」

今何時だと思う、という問い掛けに慌てて教室に掛けられた時計を見上げる。長針は6を、短針は5と6の間を指していた。5時半、と呟くと、正解と答えが返ってきた。いつの間に放課後になっていたのだ。確か俺が眠ったのは2限目のはずで、ということは7時間は寝ていた事になる。最近はあまり寝不足ということもなかったはずだが、と首を捻っていれば名前の視線を感じ顔を上げる。名前は何か話したそうな顔をしていた。


「…何の夢、見てたの」

「…ん、」

名前が泣いていた夢、とはとても言えず、ただ雨が降っていたとだけ答えた。名前はそれ夢でもなんでもないよと笑った。


「名前は何しとったん」

「今日は雅治君の部活が休みだって聞いたから、迎えに来たの」

鞄を持って立ち上がる名前をぼうっと目で追っていれば帰らないのと言われて慌てて立ち上がる。椅子を派手に蹴倒してしまい、また笑われた。教科書の類は一切入っていない、すっからかんのスポーツバックを肩にかけて、教室の入口で待っている名前に追い付く。その際にもひどく足を縺れさせてしまって、どうもいけない、まだ身体は完全に覚醒していないらしい。

この台風のせいで今日は何処の部活も休みらしく、校舎内はひっそりとしていた。二人分の足音だけがよく磨かれた廊下に響く。名前を盗み見れば、いつも通りのしゃっきりとした姿勢で歩いていて、泣いていたのは夢の中だけと解っているのだが、どうしてもその横顔に濡れそぼった泣き顔が重なってしまう。どうにも俺は、さっきの夢を引きずってしまっているようだった。


「あのね、雅治君」

「なんじゃ」

珍しく歯切れ悪く、物を言いにくそうにしている名前は何処かバツの悪そうな顔をしていて、それがあの泣き顔とダブって、だから夢じゃ、ただの夢じゃ。自分に言い聞かせながら名前の言葉を待つ。


「傘…忘れたの。入れて欲しいんだ」

名前は困ったような、粗相がばれてしまった子供のような顔をして俺を見上げた。なんだ、傘がないから俺を待っていたのか。確かにこの大雨の中を帰らせる訳には…って、


「お前さん、今朝は傘持っとったじゃろ」

「そう?」

水色の傘。そうだ、持っていたはずだ。指摘しても名前は動揺の色を見せず、ただ手元にはないんだから忘れたんだよとだけ言った。朝は持ってたのに手元にはないって、それは、まさかまた、


「雅治君と帰れるからいいんだよ」

「名前、」

「相合傘も素敵でしょ?」

言葉には出さないが、その目に何も言うなと言われてしまった。電気もついていない、薄暗い廊下に居て尚その目には光が宿っていて、夢の中では泣かないで欲しかったのに今は、


「堪えなさんな」

「…堪えてなんかない」

涙が晴れて橙色に染まるまで、泣いてほしいと思った。


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