溜息ついた


身体はまだ随分と怠かったが、昨日の名前を見ては休む訳にもいくまい。

元来俺という男はそんな他人のために自分を押し殺すような人間ではなかったはずだが、それでも軋む身体を抑え抑えて俺は学校へと向かった。
朝練はない日だったが、名前と行く約束はしていない。顔を見たら一目でまだ全快でないことに気付かれてしまいそうだ。俺はそんなに解り易い男だったろうかと情けなく思うが、それでも名前の前ではペテンは披露できそうになかった。


(まあ、そういうのも悪かない)

身体は辛かろうとも心の中の大事な箱に芽生えたこの気持ちは俺を決して不快にさせはしなかった。


(名前が笑っとればそれでいい)

ただそれだけだった。


「あれ、雅治君」

それだけだったはずなのに、


「…名前」

(早速見付かってしもうた)


名前はいつもどおりの笑顔を浮かべてこちらへ歩み寄る。もう元気になったのと聞かれるが俺はあーだのうーだの中途半端な返答しかできなかった。
目の前に立つ名前の真っ直ぐな視線を浴びて、精一杯元気な顔をしてはみせるがはてさてどこまでごまかせているものか。俺を見ても笑顔を絶やさない名前だが、その目が。


(嗚呼、もう)

確実に、気付かれている。


「雅治君、まだ治ってないでしょ」

「……おん」

どうせごまかしも効いていないので正直に頷いておくことにした。名前は、本当に仕方ない子だなあと呆れ顔で俺の前髪をくしゃりと撫で、顔をしかめた。


「まだ結構熱い。雅治君の馬鹿」

俺はてっきりまた叱られると思って身構えていたのだが名前の声は存外に優しく、馬鹿と詰る割には柔らかい手つきで頭を撫でてくれた。冷たい掌が熱い額に心地好く、俺の熱が吸い取られてゆくのがわかる。心なしか蟠っていた頭痛や吐き気も軽くなり、きっと名前が熱と一緒に吸い取ってしまったのだと思った。


「なんでそんな無理ばっかりするかなあ」

「はよ名前に会いたかったんじゃ」

俺としてはあくまでも本心だったが、名前はそれを冗談の一種と受け取ったらしい。馬鹿だねえと笑って踵を返してしまった。俺が横に並べば名前のほうから手を握ってくれて、いつもの通り冷たい名前の掌といつもよりも随分と熱い俺の掌の体温が混ざりあって、学校につく頃には繋いだ手は温んでしまっていた。
初夏の気温と湿気も手伝って、二人の掌はしっとりしてしまっていたが、不快ではなかった。ただ、安心感があった。










「それじゃあ雅治君、またね」

いつもとは逆に教室まで送ってもらい、またと言って自分の教室へと向かう名前を見送る。名残惜しいその背中が見えなくなるのを待って自分自身も教室に入れば、途端に女子生徒に囲まれた。
仁王君大丈夫、仁王君もう平気なの。その声を全て適当に流しながら席に着けば、女子生徒にまぎれて赤い髪が俺の傍らに立った。


「もう大丈夫なのかよぃ?」

「…おん」

最近のブン太は妙だ。少なくとも、同じクラス同じ部活とはいえこうして朝からわざわざ人の席まで挨拶に来るような奴ではなかったはずだ。昨日も同じ、わざわざ休んだ俺のプリントを誰かに托すようなことはしない。


(なんかおかしい)

今のブン太のこの物言いたげな表情も。


今日は極力動かずに一日涼しい教室で寝て過ごしたかったのだが、俺はハッキリとしないブン太を連れて一限をサボる事に決めた。











「まだ本調子じゃねーくせに大丈夫なのかよ?」

俺の選んだサボりポイントは、あの日名前の告白劇を見た屋上の給水塔の裏。まだ午前中だがあの時よりも気温が高く、夏はもう目の前なのだと思い知らされる。
二人して給水塔にもたれ掛かって座り込めばブン太が労りの言葉を掛けてきて、正直な話身体は怠かったが大丈夫と答えておいた。


無言の間が広がる。

どこかのクラスが体育をしている声がして、水音の混じるそれを聞いてそういえばとっくにプール開きは過ぎているのだと思い出した。日光が苦手な俺は、今年まだ一度もプールに入っていない。


(名前も泳いだりするんじゃろか)

俺も人の事は言えないが、名前の肌も相当に白い。そんな名前が皆と同じように水着を着て泳いだりするものだろうか。想像してみたが、太陽の元で泳ぎ回る名前というものは上手く像を結ばない。逆に淫らな方向に想像力が働いて、俺は肩を落としつつその妄想を振り払う。


(俺と名前はそういう関係にはならん)

ならん、というよりは、なれん。


「なあ、仁王」

「ん」

「昨日さ―――」

ブン太の声によって現実世界に引き戻される。耳を傾ければブン太は何事か言い澱むように唇を引き結んでしまって、昨日ってことは、つまりはやっぱりブン太は何か思うところあって俺の家に名前を呼んだという訳で。中々次の言葉を口にしないブン太を待って俺も黙る。

プール方面からのホイッスルの音が高らかに夏空に響いた。






「…昨日、なんかした?」

「なんかってなんじゃ」

中々話さないブン太がようやく口を開いたかと思えば、それか。なんかっていうのは要するに名前とセックスしたかって事で、そこで俺はブン太が名前に惚れていたらしいということを思い出した。わざととぼけて見せればブン太は解ってるくせにとふて腐れてしまった。


「…昨日は本気で死んどったからのう、何もしとらんぜよ」

「……ふーん」

何なんだ、その反応は。好きな女の処女が無事でホッとしたとかじゃなくて、かといってチャンスを逃した俺をからかっている訳でもなくて。むしろ少し残念がっているような様子は本当に意味がわからない。


「ブンちゃんは名前の事が好きなんか?」

我ながらなんて直球とは思うが、度重なる奇行や支離滅裂な言動に確認せずにはいられなかった。ブン太はその言葉に目を見開き数瞬固まって、やっぱり図星、と思ったのはその瞬間だけで。


「はあ!?有り得ねーだろぃ!」

素っ頓狂な声に、今度は俺が固まる番だった。


「苗字はただの元クラスメイトってだけだってーの!あのサバサバ女が仁王と付き合い出したってのが意外だっただけ!」

「…おーおー煩い、そんな喚かんでもいいじゃろ」

なんだそういう事か。数々の奇行の中に少しは意味を汲み取れるようになった。さぞ仲が良かったのだろう。ブン太は女子生徒からのアプローチに辟易しているような節があったから、名前のあの渇いた対応は心地好かったに違いない。そんな友人に恋人ができたというのだから(それも相手は俺だなんて)、落ち込んだり不機嫌になったりするのも解らないではない。
…でも、


「なんで昨日わざわざ名前にプリントを届けさせた?」

「………………」

そこだけはどうしても解らない。


「…本当に、なんもなかったのかよ」

「傷か?」

俺が傷、と言った途端にブン太の表情が固くなる。今度こそは図星だったらしい。


「…昼休みに苗字が女子に小突かれてんの見付けて、助けたはいいけどアイツなんも言わねーし、ボロボロのくせになんか笑ってっし、俺になんも言わなくても仁王にならなんか話すだろぃ…て、思って」

段々と声の小さくなるブン太の言い分を聞いて、漸く全てに納得がいった。話し終わったブン太は自分の膝に深く頭を埋めていて、小さくなっている様は無駄に可愛い。そういうとこが女子生徒が寄ってくる原因になるんじゃと思うが、黙っておく。


「名前は…俺にもなんも話さん」

「そ、なのか」

本当に、人のことばかり心配して、顔を歪めるのは俺のことばかりだ。つらい苦しいと泣きついてくれればよかった。お前のせいだと詰ってくれればよかった。気にしていないと名前は言ったが、端から見ていてあれほど危なっかしい奴もそういない。と、言うかあれほど危なっかしいくせに本当に気にしていなさそうなのが恐ろしい。
色々と思うところはあるが、あっけらかんと笑われてしまうと何も言えなくなる。


(本当に、名前って奴は…)




女一人救ってやれない情けない男二人分の溜息が、ひっそりとアスファルトにこぼれ落ちては消えていった。


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