気付いた


もう少しの間、傍におって。

俺のそんな身勝手な願いを聞いて、名前は黙って傍らに座っていてくれる。テレビもない、漫画もない、何も時間を潰すものがないこの寂しい部屋で、ただの一つも文句を言わず隣に居てくれる。

ベッドに横になる俺に大人しく髪を弄られる名前はジッと数学の参考書に目を落としていて、時折ページをめくる音と俺の腕が動く時のきぬ擦れの音だけが囁かな沈黙の間を揺らしていた。


そんな、時に。


「…ん?」

「どうしたの、雅治君?」

「これ、なんじゃ」

さらさらの髪を掻き分けたその内側、日に焼けていない白いうなじに。


「…青痣」

「…………………」

俺がそれに気付いた途端機敏な動作でこちらを振り返る名前は、なぜだかその口元に笑みを貼付けていた。嘘くさい笑みを。


「今日……ぶつけたの」

「……何処で」

「廊下で」

「いつ」

「休み時間に」

「どうやって」

「歩いてたら」

「…………………」

嘘だ、と思った。
名前の言葉はいつもと同じく一切の躊躇いもなく吐き出されるが、その内容は曖昧だ。説得力のカケラもない。そんな言葉を喋る名前というものを、見たことがない。

名前の目は詮索するなと言っていたが、この反応はどう考えてもおかしい。
よく見れば名前の制服は所どころ汚れて少しよれているし、今思えば髪だっていつもより乱れていた。
名前は必死に取り繕ったつもりのようだが、どう見ても何かあったに違いない。


「……何が、あったんじゃ」

低く搾り出すように。慎重に問い掛ける。
嘘は許さん。言外にそう圧力をかければ返ってくるのは沈黙ばかりで、催促するように名前と名前を呼べば、漸く観念したように重い口を開いた。


「……理不尽な、言い掛かりよ」

「…………………」

「雅治君が今日来てないのは、私のせいだって。なんか知らない女の子達に絡まれちゃった。そんなことあるわけないじゃないって言ったら逆上されて、この様」

ほんと、あほらしいねえ。
そう言って肩を竦める名前には暴力を振るわれたことに対する怯えも、悲しみも、何一つ見えはしなかったが、それが余計に痛ましくて、また原因が俺かとおもうとその事実に無性に腹が立って、気付いたら、


「雅治君……痛いよ」

力いっぱい名前を抱きしめていた。

華奢な身体は今日受けた傷にキシキシと歪んでいるような気がして、このままあと少しでも力を加えたら名前が壊れてしまうような錯覚に囚われる。けれど、抱きしめる腕の力は俺の意思ではどうにも緩められず、ただただ黙って俺は名前を抱きしめつづけた。





「…あのねえ、雅治君」

「…………………」

「これ、贖罪のつもりかな?」

「…………………」

暫くそうしていれば名前は呆れたような声で問い掛ける。赤子をあやすように肩を叩かれて、それが離してくれのサインだとは気付いていたが、けれど俺はそれを無視した。


「もう、聞き分けのない…」

「…すまん」

「私、この件のこと雅治君が悪いって思ってないからね」


ぽん、ぽん、ぽん。

熱に浮された身体に、肩を叩く優しいリズムが心地好い。…名前はどうしてこんなにも優しいのだろうか。歪む身体は痛かったろうに、痛む身体を抱きしめられるのは辛いだろうに、どうして俺を責めないのだろうか。
ブン太にプリントを頼まれたのが傷を受ける前か後かは知らないが、そんなものは放っておけばよかったのだ。俺が傍に居てと頼んだ時、何かと理由をつけて帰ればよかったのに。


どうして、どうして。


俺は名前にもらってばかりで何ひとつ返せやしない。



「……雅治君、泣いてるの?」

「…………………」

名前が困ったような声を出した。
気付けば俺の目からは熱い雫が溢れだしていて、名前のシャツの肩のところに染みをつくっていた。
これ以上濡らしては悪いと顔を上げれば泣きそうな顔をした名前と目が合って、


(なんで、今、名前が泣きそうになっとるんじゃ)


「雅治君、つらいの?熱、上がっちゃった?飲み物は?冷えピタほしい?」

「なん…で、今、俺ん心配するんじゃ」

少しズレた言葉に呆気に取られる。
今は名前が怪我したことの方が重大だろう。そう思うが上手く言葉に出来ず、ただ成すがまま、ベッドに寝かされた。何処から持ってきたのか、冷却シートを額に貼られてそのまま頭を撫でられる。名前の顔は相変わらず曇っていて、だからなんで、自分の事は平気なのにこんなに心配そうな顔をするんだ、名前。




「……名前のほうがつらかろ。よく見れば身体中、傷だらけじゃ。なんで俺んこと心配しちょる?なんで責めん?」

気付けば名前の腕を掴み、ベッドに引きずり込んでいた。白いシーツに綺麗な黒髪が広がって、いつもの凛とした顔は今は驚愕に満ち満ちている。大きく見開かれた目には熱に浮された俺の顔と天井だけが映り込んでいた。


「……だって、雅治君のせいじゃないってさっきも言ったでしょ?」

「…………………」

名前の声は、男に押し倒されているというのに落ち着き払っている。


「どう考えてもその女の子達の言い分がおかしいんだし、それを指摘されたからって逆上するのはもっとおかしい。そりゃ雅治君が今日学校に来てたらこんな目には合わなかったけれど、雅治君が休んだのは風邪が原因で、それは仕方のないことよ。だから雅治君は何ひとつ悪いことはしてない」

ホラ、私の何処に雅治君を責める要素があるの?

少し笑って、俺を安心させるような笑顔を浮かべて、名前は穏やかに告げた。


(優しすぎる)

俺は、名前の胸の辺りに顔を押し付けて込み上げる嗚咽を必死で飲み込む。名前は無い胸がどうのとぼやいていたが、顔を上げる気にはなれなかった。大きく息を吸い込んで、名前の匂いとか温かさとか、そんなもので胸をいっぱいにして、そうしてやっと顔を上げる。


「名前、」

「…雅治君?」






「………セックスしたい」

「…は?いや、却下却下。無理だし」

断られる事前提での頼みだったが、名前は一瞬ポカンと間抜け面を晒したかと思えば光の速さで俺の頼みをこき下ろした。それはもう、鮮やかなまでの素っ気なさで。
さっきまでの甘い雰囲気とか優しい空気なんかは、完全に霧散してしまったがここで引き下がる俺ではない。と、言うか欲望が言うことを聞かない。眉を下げ、畳みかけるように名前に顔を寄せた。


「…どうしても?」

「当たり前でしょ。ルールその2、忘れたの?」

「…中学生らしい健全な付き合い、だったか。彼氏が彼女に欲情するのは健全な証拠じゃ」

「でも駄目。雅治君風邪でフラフラだし」

「じゃあ、元気になったらええんか?」

「……駄目。もしOKしたら雅治君、変な力でも使って即行で回復しちゃいそうだもん」

「…………………」

再び胸元に顔を寄せて、じっとりと見詰める。名前も俺を見下ろしているから、変な体制で見つめ合う形になった。


「そんな顔してもOKしないからね。私達、あと3週間もしたらお別れなんだから」

…そんな顔ってどんな顔じゃ。
ぶっすりとむくれながら言うと、名前は捨て猫みたいな顔と言って笑う。
観念して名前の上から退けば、名前は乱れた服と髪を手早く直してベッドから降り、鞄を持って立ち上がった。


「…もう帰ってしまうんか」

「うん。それだけ元気があったらもう大丈夫でしょ、いつまでも私が居たって出来ることもないし。…このまま長居したら食べられちゃいそうだし」

悪戯っぽく笑う名前はいつものような姿勢の良さで踵を返す。
玄関まで見送りに出ると、外はもう既に暗く、本当に長い時間傍にいてくれたのだと今更ながら実感した。


「それじゃ雅治君、はやく元気になってね。お大事に」

「おん、今日はわざわざすまんかったな」

「ううん、気にしないで。じゃあね」

こちらに背を向けて歩いてゆく名前の姿が名残惜しくて、俺は名前が見えなくなるまでずっと馬鹿みたいに玄関に突っ立っていた。
角を曲がった名前の背中が漸く俺の視界から消えれば、その場にくずおれる。


(3週間…)

あと、3週間。



(永遠に終わらなければいい)


俺は、俺の中にあるモノに気付いてしまった。


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