届くことのない葉書

腹に穴を感触がまだ、拳に残っている。
 部屋の真ん中で胡坐を掻いたサイタマは、壁を見ながら一人、ポツリとそう呟いた。
「先生。アイツの部屋、掃除し終えました」
 黒い服を身に纏ったサイタマの弟子が、廊下から顔を出してサイタマに言う。
「おう」とサイタマは空虚を見つめたまま、弟子に返事をする。
 弟子は、生返事をするサイタマを姿が見えなくなるまでとてもとても心配そうに見たあと、外に出た。
 昨日、サイタマの隣人が消えたのだ。
 『消息不明』などではなく、『この世』からである。
 今頃、サイタマの隣人は一体、『この世』ではないどこかで、なにをしているのであろうか。
 サイタマは床に置いた遺影を持ち上げ、一人、問いかける。
「家族もいないって、どういうことなの。お前」
 小さく呟いたサイタマの声は、ガラリと広い部屋の中に溶けて消える。
 サイタマの問いに答えるものは、誰もいなかった。
 一人、それを陽気にかつ皮肉げに答える隣人の姿は、ない。
「お前がそうだって言うのは、知ってたけどさ」
 涙を滲ませたようなサイタマのしわがれた声が、ポツリ部屋に溶ける。
 サイタマは目じりから溢れ出る涙を堪えながら、死者の生前の姿を映し出した遺影を、ジッと見続ける。
「いざとなると、やはり辛いものがあるよな。名前」
 死者『名前』に対して、サイタマはそうポツリと悲哀を零した。


 生前の隣人について述べると、隣人はサイタマの隣人であった。
 一撃で敵を倒し、多数から誤解のレッテルを貼られ、少数から理解と尊敬を得られるヒーローであるサイタマと違い、多数から誤解のレッテルと言う名の利益を得られ、少数から理解を得られなかった隣人である。
 サイタマは隣人が隣人になる前である隣人に、どこか自分に似たようなところがあるかもしれない、と思っていた。
 隣人はサイタマの隣人となる前に、どこかサイタマに「もしかしたらこの人は自分を止めてくれるのではないのだろうか」と言う期待を寄せていた。
『え? コイツ? ただの隣人だけど。それも、とびっきりと迷惑な』
『なによ。それはこっちの台詞よ。それに、この前作った肉じゃがなんて。なによ、あの反応。酷いったらありゃしないわ!』
『んなこたぁ言ったってなぁ。だって、お前、もう少し塩と言うものを……』
『なによ! さ、アンタ、馬鹿じゃないの?! 塩のよさが分からないなんて!』
『いや、ありゃとてもじゃないがくど、』
『う、うっさい!』
 互いをひどくひどく迷惑極まりないものに扱う言い合いをしていたものであったが、サイタマと隣人にとっては、その距離感がとても心地いいものであった。
 サイタマには、ひどくひどく傷つくような「覚悟」を持っていた。それは、隣人を死すかもしれないと言う「覚悟」だった。
 隣人はとてもとてもサイタマを傷つけるような「期待」を持っていた。それは、サイタマの心にとてもひどい打撃を与えるものだった。だが、彼の「ヒーロー」と言う功績に傷がつかないものであるならば、自分の「期待」など、痛くも痒くもないであろう、と言う誤解を、隣人は持っていた。
『先生、コイツの言っていることはおかしい。俺が、キチンと後で直しておきます』
『なによなによ、それって! 酷いったらありゃしないわよ! ねぇ、サイタマ! こう言うときって、「二兎を追えば一兎を得ず」と言うのではないのではなくて?!』
『いや、それは「二つのものを同時に追ったが結局そのどちらも得れず仕舞いだった」と言うときに使われるものであって。お前が使っているものとは全っっ然異なる四字熟語だぞ、それ』
『う、うっさい!』
 正論を言い放つ弟子によって、隣人はふわふわと定まらない位置を元の立ち位置に定められ。
『おい、サイタマ! 今度こそ、お前に勝つ!』
『いや、あれをやってあれをやれないって言うところで勝つって言うのはどうなのかな……ってか、まだサイタマ打破のための第一段階と言うか第二段階の時点でこ、』
『う、うっさい! だ、黙れ!』
 いつのまにか仲良くなった忍者との掛け合いで、サイタマが忌避する未来からどうにか隣人が遠ざかれたりして、それでも近づいたりして、サイタマには気が気ではなかった。
「お前、一体、どうなるのかな」
 と零したサイタマの言葉が、隣人と一緒に見た夜空の中に消えたりもした。
 サイタマにとって、隣人が自分が忌避する未来へ、道へ行こうとすることが、とてもとても嫌でしかなかった。
 隣人は、サイタマのその嫌がることも知っていた。だが、それでも隣人は、歩みを止めなかった。
「だって、仕方ないじゃない。だって、そのように生まれたんだもの」
「いや、生まれたって。意味わかんねぇんだけど。それ」
「だって。サイタマ、ねぇ。知ってる?」
「怪人が生まれた意味」と、言葉を続ける隣人に、サイタマは黙って頷く。
 ニュースでもやっていたこともあり、昔弟子から豆知識として聞いたこともあるものだった。
 サイタマや隣人、弟子がよく街中で見かけたり遭遇したり倒したりする怪人は、環境の汚染や変化、ストレスなどによって肉体などに変化が起こり、怪人へ変化した人間だった。
 だが、「怪人」であることには違いない。
「怪人」の振りをした人間がいたことがあっても、心が「怪人」そのものに染まったのであるのならば、サイタマは「怪人」を倒した。
 隣人が、「怪人」に成り果てようとも。
 サイタマはもう一度、拳を握り締めた。


「先生。アイツは本当に、『怪人』だったのでしょうか。それとも、『怪物』だったのでしょうか」
 黒に身を包んだ弟子が隣にいるサイタマに向かって、ポツリと呟く。
 黒い服に着替えたサイタマは、煙る煙突から弟子の持つ骨壺へ目を落とした。
 冷たい光を放つ機械の手が、紫の風呂敷に包まれた骨壺を、しっかりと握りしめていた。
「俺には、分かりません。アイツが、『人間』であったことしか分かりません。例えアイツが、あんな姿に変わっても、変わっても……俺には、アイツが『人間』であること以外、見れなかった」
 生理食塩水が尽き果てた機械の目頭から、機械の涙が零れ落ちる。
 サイタマはポツポツと黒い沁みが出来始める風呂敷に包まれた骨壺を見て、「あぁ」と生返事を返した。
 最後の最後まで、サイタマは弟子が言っていることが分からなかった。
 弟子の前では隣人は『人間』であったし、サイタマの前では隣人は『怪人』であり続けたのだ。この差があって、なにをどう理解しろと言うのであろうか。この、弟子との隣人への理解に対する差を、どのように埋めればいいと言うのであろうか。
 サイタマは一人、隣人の遺影を見ながら呟く。
「なぁ、お前。やっぱ、卑怯じゃね?」
「何がだ」
 後ろから聞こえた声に、サイタマは振り向く。
 葬式に参加しなかった忍者が、喪服を身に纏って窓際に寄りかかっていた。
 忍者は無防備にサイタマに近づきながら、サイタマの手の中にある遺影を掴みあげる。
「お前らしくもない。いつもの覇気はどうした」
 サイタマは無言を貫く。
 空虚を呟くしかないサイタマの顔を見たあと、忍者は鼻を鳴らして言った。
「ハンッ。さぞかし、コイツが死んで悲しいだろうな。……フン。どうして、コイツはこんな馬鹿な真似をしたんだろうな……あの、馬鹿。なぁ、サイタマ。知ってるか?」
 サイタマは忍者が不意に漏らした悲哀の小さな嗚咽を、聞き洩らさなかった。
「コイツ、サンマが苦手だったんだぜ? ハハッ、嘘だがな……。嘘さ、嘘さ……」
 忍者は俯き、小さく頭を振り始める。
「嘘さ、嘘さ……嘘だ。コイツが、死んだだなんて。……おい、サイタマ。コイツの居場所を、知ってるんだろう? 吐け、今すぐ吐け」
 ずっと否認を繰り返す忍者に、サイタマは黙って頭を横に振り続ける。
 濡れた目尻をつり上げた忍者が勢いよく頭を起こし腰を落とすと同時に、喪服に隠し続けた武器を手に取った。
「吐け!」
 襟首を掴み、壁に叩き付けた忍者が握り締めた苦無の刃を首に突き付けられても、サイタマは無言を貫いた。
 サイタマは何も言わない。だが、その目は空虚を見つめていたときのものとは異なっていた。
 しかと、貫き通す意志を持つ目に、忍者はたじろぐ。
 サイタマは現実を否認する忍者から目を逸らさない。忍者の口がチャックの壊れた財布のように閉じたり開けたりを繰り返すのを見たあと、サイタマは無言で首に突き付けられた苦無を折った。
「もういないよ、アイツは」
 空虚を見つめたときの声と違って、その声はしっかりとした声をしていた。
「お前も、いい加減現実を認めろ」
 足下に落ちる苦無の破片と赤い滴を見ながら、サイタマは自分にも刺さる言葉を言う。
 サイタマは「名前がいない」と言う現実を、視認はしていた。だが、頭で出来てはいても、心が追いつけなかった。
 その心を象徴するかのような衝動に身を任せる忍者を目の当たりにして、サイタマの冷静な頭の部分が、そうサイタマに言わせているだけだった。
 サイタマの襟首を掴む忍者の手が、緩む。
「もういないんだよ、アイツは。もう……名前と言う人間は、いない」
 足下に崩れ落ちた忍者を見て、サイタマは自分の心に起きている変化を見た。
 握り潰された鉄の破片と落ちた赤い滴の前に崩れ落ちた忍者を見て、サイタマは隣人の腹をこの手で空けたことを思い出した。
(あぁ、アイツ。最後、笑顔だったよなぁ。口から血を垂らして)
 隣人の目を見れず、口だけを見ることしかできなかったサイタマは、他人事のように思った。
 隣人の腹に風穴を空けた手を、もう一度握り潰す。
 足から崩れ落ちた忍者は、乱暴に目尻を腕で拭い取ったあと、真っ赤になった目元をつり上げてサイタマに言った。
「おい、サイタマ! この悲しみが消えたら……お前をもう一度倒す! もう一度倒しに行く! 絶対にだ!」
「あぁ。土産、忘れんなよ。まぁ、コイツが好きなもの、お前なら知ってると思うがな」
「っ……ぐ!」
 もう一度涙腺を崩壊した忍者は、敵意と決意に満ちた顔が崩れ落ちる前に、その場から去った。サイタマは床に落ちた遺影をもう一度、拾い上げる。
「ヒビ、入っちまってるな。……ハハッ、いるもんなら早く会いてぇよ、俺だって」
(でも、もう無理だもんな)
 ヒビの入ったガラスを指でなぞりながら、サイタマは軽く笑い、ヒビの入った心を押さえる。
 空笑いをしたサイタマはのろのろと棚に向かって、上から二段目の引き出しを開ける。
 そこには黄色に変色した履歴書の他に、真新しい葉書があった。
 隣人であった名前が、旅先でサイタマに送ったものだった。当時のサイタマは「二枚もいらないんじゃないのか」と思ったものだった。
 だが、隣人が手書きで書いたメッセージの残された葉書と真っ白で何も書かれてない葉書を見て、サイタマは一人、小さく呟く。
「……書くか」
 心に入ったヒビを乱暴に大きな判創膏で貼り付けたサイタマは、一人ボールペンを握って、テーブルに向かった。
 死者が一人出た廃墟に似つかわしくない春風の匂いが、サイタマの鼻を擽る。
 サイタマは隣人が春生まれの者であったことを思い出しながら、普段着に着替えた姿で、赤いポストの前にやってきた。
「よう」
 掛けられた声に、サイタマは振り向く。振り向くと、サイタマが数度しか見かけたことのなかった気味が悪いほどに青白い顔の男が、立っていた。
「アイツ、どうだった?」
「いや、もういないけど。……ってか、酷い怪我だな。また全裸で出歩くんじゃねぇぞ?」
「ハハッ……アイツがいないって言うのに、俺はどう生きてきゃいいってんだ。……名前、名前……」
「は、はぁ……」
 ズルズルと壁に寄りかかりながら不気味に呟くゾンビ男の姿を見て、サイタマは冷や汗を垂らす。
(コイツ、もしかしてヤバいんじゃねぇのか……?)
 重症気味の男を見て、サイタマは一人、そう呟く。
 頭を抱えながら座り込んだゾンビ男はこう見えても、とってもえらいヒーローの一人である。
 サイタマはこのヒーローを目の前にして「子どもの夢が壊れたらヤバい」とでも感じたのか、珍しく頭を働かせた。
(えっと、コイツを元気づけるためにはどうすればいいんだっけ……?)
 冷や汗を垂らしながら、生活費と生活のこと以外では滅多に使われない頭を動かして、サイタマは必死に頭を働かせる。
 ふと、自分の手元にある葉書を見て思いつく。
 そうだ、どうせ届かない駄目元で送るのならば、この男にも提案してみてはどうであろうか。
 サイタマは自分の傷心回復をした手段を、男に伝えた。
「あ、ならさ。アイツに手紙でも送ったらどうなんじゃねぇのかな? ほら、どっかに死者に届くポストがあるっぽいし」
「なに?! 死んでいるものならとっくに死んでアイツの元に逝っている!!!」
「いや、そう言う意味じゃなくて……。どっかにあるらしいって話だぞ。死者に手紙を届けるポストっぽいの。あれ。駅だったけな?」
(いや、実際には『預ける』だけなんだろうけどさ……)
 冷や汗を垂らしながらポリポリと頬を掻いたサイタマは、不安げに自身の記憶を辿る。
 傷心中に弟子に言われた話が、今では覚束ない。
 サイタマはあやふやな記憶の中、ゾンビ男に話した。はたして、これで話が通じるのであろうか?とコミュニケーションに不安を持ったサイタマであったが、サイタマの口にした話は、どうやらゾンビ男には効果てき面だったのらしい。
 さっきまで精神不安定だったゾンビ男の目が驚愕に裂かれたかのように見開き、口をわなわなと動かしながらサイタマを凝視していた。
 その様子に、サイタマはちょっぴり引いた。
「本当か?!」
「うわ?!」
「本当か?! 本当に……名前に会えるのか?!」
「いや、会えるかどうかは分からないけどさ、返事もらえるかどうかはわかんねぇし。でも、出せるくらいならできるんじゃねぇのかなぁって」
(ってか、もう会えねぇし)
 とひっそりと涙を垂らしたサイタマに構わず、サイタマから背を向けたゾンビ男は一人、大きくガッツポーズをする。その様子に、サイタマは苦笑いをするしかなかった。
「ヒーロー協会にはこう伝えてくれ。“俺はしばらく、旅に出る”、と」
「は、はは……覚えてたらね」
 苦笑いをしながら答えるサイタマに別れを告げるように腕を告げたあと、ゾンビ男は赤いポストから離れた。
 サイタマは一人、死者の手紙を預けるポストか駅を探しに行くゾンビ男の背中を見送り続けた。
 ゾンビ男の背中が小さくなる。
 サイタマは目が痛いほど透き通った青空と白い雲に背中を見せて、暗く沈んだ赤いポストに、一通の葉書を送った。
 死者に送る手紙は、沈黙を続けることを始めたばかりだった。



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