僕と君とのないしょ話


「レギュラス」

 呼びかけたのは小さい声だったが、彼は私の声に気づき手元の本を閉じた。レギュラスの目の前の席に座ると、彼は穏やかに目尻を下げた。
 暖かな日の差し込む窓際の机は私たちのお気に入りだ。たくさんの本に囲まれ、古書特有の甘い匂いに包まれたここは少しばかり埃っぽい。しかし、それらは必ずしも否定的な意味を孕んでいるわけではない。旧家の出であるレギュラスや私からすると古めかしい物はとても落ち着くのだ。レギュラスはその家系から、日ごろ苦労することが多々あるが、ここにいる間は穏やかな表情を浮かべている。
 しばらく私たちの息遣いだけが聞こえていたが、レギュラスは少しばかり目を伏せ「名前」と、ともすれば聞き漏らしてしまいそうなくらい小さく揺れる声音で囁いた。「はい」と成る丈優しく応えた。たっぷりと時間をかけ、小さな口で大きく息を吸い込み、吐き出した言葉は謝罪だった。

「どうしたの? 私、レギュラスから謝られることなんて身に覚えがないわ」
「その……婚約を解消していただきたいのです」
「え?」

 頭を殴られたような衝撃が走った。ふらりと世界が歪んだように思え、真っ直ぐレギュラスを見ることができなかった。
 「婚約を解消」。レギュラスは確かにそう言った。いったい私は何をしてしまったのだろうか。私たちの仲は良好であったはずだ。幼少期に、お家のためにと勝手に交わされていた婚約だったが、私たちは婚約などしていなくとも、おのずと互いに惹かれ合ったのではないかと思うほど。

「そんな……婚約を破棄したくなるほど、私のこと嫌いになった?」
「ち、違います。僕は名前のことを愛しています。本当ですよ、神に誓います」
「じゃあ、……どうして」

 レギュラスは口を閉ざしてしまった。
 口ごもるレギュラスは、彼自身の左腕にちらりと視線を移し、その後数秒間、目を閉じた。ゆっくりと開かれた瞳には決意の色が浮かんでいた。
 私の瞳の奥の方をじっと見つめたレギュラスは、さらりと左腕の袖を捲り、白い肌をさらした。

「それ……」
「ええ。先日、我が君に謁見し、闇の印を頂きました」

 それはつまりレギュラスが死喰い人となったことを表していた。
 すぐに隠されたが、私はしっかりとレギュラスの腕に這う蛇の姿を見た。見てはいけないものだった。
 死喰い人、それはレギュラスがもう明るい世界で生きていくことができないことを指し示していた。

「僕は幼いころから我が君に仕えることを夢見てきました。これは僕の夢を叶える輝かしい一歩目です。……しかし、名前、あなただけが心残りです。このまま僕の妻になると何かあったとき、あなたまでもが危険にさらされるかもしれない。……だから僕との婚約を解消してください」

 悲痛な叫びを感じた。訴えかけるように私を一心に見つめるレギュラスに、涙が一筋流れ落ちた。
 婚約の解消は、レギュラスの最大の愛である。しかし私はそんな愛は求めていなかった。私はただ、一緒に微笑みながら歳を重ねていくような、一生を添い遂げるような愛がほしかった。

「僕はあなたに幸せになってもらいたい。……愛しています、名前」

 私の幸せはレギュラスと共にあるのだと言いたかった。どんな困難が訪れようとも共に支えあうことに幸せを感じるのだと。
 そんな私の思いは空気となって口から抜けていった。
 私はレギュラスといることが幸せだが、彼は? レギュラスにとって私と共にいることは重荷になるのではないだろうか。苦しげな表情のレギュラスを見ていると私まで苦しくなった。
 早く楽にしてあげたい。
 私の気持ちはそれだけだった。

「私も、レギュラスを愛しているわ」

 私は頷いてしまった。
 ああ、終わってしまった。大きな喪失感に襲われた。この世の終わりではないだろうかと思うほどの絶望に、私は背を丸め嗚咽をもらした。レギュラスはそんな私にローブを掛け、そっと後ろから抱き締めた。
 「どうか僕のことは忘れてください」と言ったレギュラスの声は鼻声だった。



僕と君のないしょ話
(友としてでもいいから、卒業まででいいから、もう少しだけ隣にいさせてください)



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