All about you

「さあ、溜まりすぎてたのかもな」
 あっけらかんと告げられた。何となく予想はしていたが、まさかそんな理由とは。
 二人で寄り添うベッドの中で、今日のことを振り返っていた。夫が中で果てたあと、次に気がついた時には自分たちの家のベッドで眠っていた。今度こそ本当に夢かと思ったが、膣内で燻る雄の残滓が現実を物語っていた。どうして毎回こうなるのか。

 結局、二人が再び現れた原因はよくわからなかった。あの【セックスしないと出られない部屋】の正体も。まあ、夫は物事をとことん追求するタチだから、私には言えないというだけなのもしれない。それ以上、何も聞けなかった。
 頭の下に腕を敷かれ、頭の丸みに沿って手のひらが這っている。時刻は午前三時。変な時間に目が覚めてしまった。夫はあと一時間ほどで家を出る。それまで二人で起きていようと決めた。あの妙な空間に居ながらも、時間の経過はあった。身体の痛みだけはないのが不思議だった。触れる手の温もりが、魔法のように身体を癒してくれているのだと錯覚してしまうほど。私がそう言えば、夫は苦笑した。

「……すっかり絆されたな。もっとお仕置きしてやるつもりだったのに」
「もう十分すぎるよ。零くんまで激しくしたら、わたし死んじゃってた」
「ばかだなあ。死ぬわけないだろう」
「……ねえ、ちょっとは反省してる?」

 ぐりぐり、と頭を胸板に押し付けた。
 絆されたのは、私の方だ。最近はすぐに意識を飛ばしてしまうばかりで、行為後のこんな時間も久しぶりだった。まるで恋人同士の頃のように、淡い感情が跳ねている。向き合った体制で恥ずかしそうに瞼を伏せれば、夫がふ、と笑みをこぼした。

「もう……ぐちゃぐちゃにしたくなるくらい可愛い」
「怖い!」

 思わず大きな声で叫んでしまい、ハッと口を手で押さえた。今はまだ深夜だということを忘れてはいけない。くっくっと声を殺して夫が笑っている。完全に、私を揶揄って遊んでいた。こんな下らない会話をするのも、本当に久しぶりだ。激しいセックスをした日は、気づけば朝を迎えている。隣にあったはずの温もりは消え失せて、綺麗に整えられたベッド周りと、一切の乱れなく着付けられたナイトウェアが、一層寂しく感じる朝を過ごすばかりだった。
 寝乱れたシーツ、身体を抱き寄せる温もり。二人裸で寄り添って過ごす時間は、あまりにも尊かった。少しも離れたくなくて、センチメンタルな気分になる。あと少しで居なくなってしまうのだと思うと、胸が張り裂けそうだ。褐色の肌と逞しい身体が心底恋しくて、再び胸板に顔を埋めた。

「なに、甘えたいモード?」
「ん……」
「どうしたの」

 ぽん、ぽんと子どもをあやすように撫でられて、顔を上げた。すぐそこに、夫の顔がある。ああ、もう、ほんと、かっこいい。穏やかな笑みに胸を潰された。もう何年も見ているはずなのに、いつまでたっても慣れない。美人は三日で飽きるなんて、一体誰が吐き出した妄言だろうか。
 毎回思う。この人が私と結婚して、いまでも変わらない愛を注いでくれることが、どれほど幸福なことか。些細な事で言い合える関係になれて、より家族としての絆が深まって。キスもセックスも情熱的で、私をいつまでも「女」として見てくれている。こんなにいい男に「抱かせて」と懇願されることが、妻にとってどれほど自信になるか。

「わたしの旦那さん、かっこいいなって」
「……お前な。流石にもう出来ないんだから、煽るのはやめてくれ」

 かっこいい、なんて言われ慣れているはずなのに。私がそれを口にすれば、夫はいつも照れたような表情を浮かべた。そんな顔が見られるのなら、何度だって言いたい。表情を隠すように、ぱふ、と胸に顔を埋められた。柔らかな髪が擽ったくて、ごそごそと身を捩る。剥き出しの肌にかかる吐息が生々しくて、性感が滲んだ。そっちこそ煽るのはやめてほしい。取り繕うように頭を撫でて、無理やり顔を上げさせた。

「もう……中々会えないんだから、ちょっとは体調管理しないと、だめだよ?」

 どさくさに紛れて、気になっていたことを告げた。何重にも包んだ言葉だが、夫はきっと解ってくれる。理解ある妻、と言うつもりもないが、夫の職業柄やむを得ないこともある。自己処理で済めばそれで良い。だが、それではままならない時もあるだろう。単身赴任等で中々会えない夫の財布から、そういうお店のカードが出てきたという話は周りでも良く聞く。男は女よりも、色々と大変なのだ。他の女と「そういうこと」をする夫は死んでも想像したくなかったが、職務に支障をきたす程なら吝かでもない。私がごにょごにょとその先を言い淀んでいると、夫は徐々に眉を釣り上げていった。ああ、やっぱり怒ったか。

「僕がお前以外に勃つと思うのか」

 私とは対照的に、夫はきっぱりと言い放った。言葉が出なかった。まさかここまでとは、そんな心象である。別に誇らしげに言うことでもないが、嬉しくないわけじゃない。

「一人で抜くのも最低限なのに」
「……な、なんで」
「そりゃあお前、妻がいるのにオナニーなんて、虚しいだろう」

 はぁ、と頷くしかなかった。男の性事情はよくわからない。妻がいようとAVで用を済ませる男もいるし、風俗で事を成す男もいる。私の夫はそのどちらでもないようで、ホっとした半面、複雑でもあった。

「でも、付き合いでとか……よく聞くけど」
「お前の周りはそんな夫婦ばかりなのか? さっきも言ったが、僕はお前以外では勃たないし、頭の中で犯すのも、お前だけだよ」

 そこまで言われると流石に恥ずかしい。夫の頭の中で、私は一体どうなっているのか。今までの行動にも合点がいく。有り余る性欲を発散させる存在が私一人であるならば、我慢をさせることは酷だ。どれだけ疲れていて喧嘩したとしても、セックスだけは断らないと、今心に決めた。しかし困ったことに、どこまでも一途な夫に、応えられている自信が全くない。どうすれば、助けることが出来るだろうか。「旦那の性欲を満たすのも、妻としての役目」それは、ポジティブな意味に切り替わった。

「あの……なんか、できることあれば……その、電話、とか」

 恐る恐る呟く。聞こえたかわからないくらいの小さな音になったが、きっと夫は聞き逃さない。きょとん、と目を丸めたかと思えば、次の瞬間にはにやにやと口角を持ち上げていた。すごくいやらしい顔なのに、そんな顔ですらかっこいいから、嫌になる。

「へぇ……可愛い声、聞かせてくれるの」
「や、やり方とか、知らないけど」
「んー……できればビデオ通話がいいな。……ああ、でもお前、一人でちゃんと出来ないって、泣くからなあ」
「な、っ、泣かないよ!」
「泣くだろう。ほら、あの時も」

 ぺらぺらぺらと、それは上機嫌に語り出す。彼の脳は全てを記憶しているのだろうか。恥ずかしすぎて忘れたいことも全てそのままインプットされている。正直言って、耳を塞ぎたい内容だ。ぎゃんぎゃんと吠えることで、夫の良く回る口を制した。

「っ…それ以上いうと、また怒るよ!」
「うーん……お前に怒られると、グっとくるだけなんだけど」
「な、なにそれ、煽ってるの!」
「ははっ。奥さんに叱られたい男なんて、山ほどいると思うけど」

 がばり、薄い布団をよけて身を起こす。けらけらと笑っている夫を見下ろせば、すぐにまた腕を引かれ、胸の中に閉じ込められた。今度は逃がさないというように強く、そして甘い抱擁だ。「ほんと素直で可愛い。こどもみたい」夫が呟く。
 全く、どっちが子どもだと思った。叱られたい、だなんて。今の今までよくわからない性癖に付き合わされていたのだと思うと、ほとほと呆れてしまう。男は四十過ぎるまで子どもだと以前女友達が言っていたが、本当にその通りだと思う。我儘で、甘えたで、時に手に負えなくなる。こんなに完璧な人が、だ。

「……おっきな子ども」
「え、なに。赤ちゃんのはなし?」

 今度は夫が身を起こした。私の身体を柔らかなマットレスの上に沈め、顔の横に手のひらをつき、覆いかぶさってくる。ひどく、興奮した様子だった。

「ほしい?」
「……そりゃあ、ほしいよ」
「僕もほしい」

 へにゃり。眉を垂れ下げた表情には、安室さんの面影が見えた。

「僕とお前の子なら、世界一可愛いだろうな」
 
 そうだろうとも。夫の血を沢山引いてくれることを願うばかりだ。まあ、こんな話はまだ、現実味を帯びてはいない。「子育ては夫婦でやるもの」世間はそういうが、社会情勢上、そうはいかない夫婦も山ほどいる。私は夫に、多くを求めるつもりはない。結婚する前からその考えは変わらなかった。彼の職務は、命の危険がともなうものだ。恨みも買うし、怪我も絶えない。優先すべきことを迷う人ではないからこそ、下手に足枷を付けたくない。それが私の本音だった。じわ、じわりと嫌な感情が込み上げる。胸が圧迫されるような苦しさを、吐き出すように告げた。

「わたし、こどもは」
「僕は欲しいよ。諦めるつもりはない」

 力強い眼差しに、喉の奥が熱くなった。何の惑いも、曇りもない。両手に頬を掬われて、視線がより近くで絡み合う。真っすぐな眼差に射貫かれて、目を逸らせない。

「僕の前で、嘘は通用しない」

 ──嘘なんかじゃない。私の望みは、夫との幸せな日々だけだ。子どもを授からずとも、この日常が崩れることはない。自信をもってそう言えたから、私は多くを求めない。そうやって、自分の心を保ってきたのに。夫がそうやって私の心を乱すから、涙が勝手に溢れてくるのだ。彼が諦めずに望んでくれるのなら、私が勝手に想いを散らすことは許されない。二人の願いは、共通していた。
 次だって、いつ帰ってくるか解らない。だが、夫を信じて待つことは、決して苦ではない。会えば会うほど想いは募り、愛は潤いを帯びて育っていく。いつまでも変わらぬ愛情を注ぎ合う夫婦が、この世に何人いるだろうか。夫が、ふいに腹部を撫であげた。 
 中に残る子種は、今日も無残に死んでいく。辛くはない。それが、私たちの愛の形だから。「早く、欲しいな」夫が甘く囁いた。その言葉に嘘はない。私達の関係に、嘘などひとつもない。言いたいことは全て包み隠さず告げる。

「……次はいつ、会えるのかな」

 口にして、やはりすぐに後悔した。約束事などできる立場の人じゃない。必要以上を求めて、困らせてはいけない。なにも言われなくても、ただ一途に夫の帰りを待つ。彼の妻になる時、強く心に誓ったはずなのに。甘やかされて本音が出てしまった。
 夫は、渋い顔をするだろうか。「ごめんね」と優しく告げてくるだろうか。眉根を寄せて、その表情を仰ぎ見る。不安気な面持ちの私とは対照的に、夫は至極柔らかく、微笑んでいた。

「次は、七日後だよ」

 七日後。彼ははっきりと言い切った。今回はまた、随分と早い。それに、もう決まっているかのような台詞。休みなんて、そう簡単には取れないって。本人からも言われていたのに。七日後のその日を指折り数えて、はっと目を見開いた。気づいた瞬間、目に大粒の涙が浮かぶ。そんな私の様子を見て、笑って、彼が得意気に言った。

「ちゃんと花丸つけといて。久しぶりのデートなんだ」

 そんなのは、もうとっくにつけてある。七日後の今日。六月二十三日。私が彼の、妻になった日だ。

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