さて、男の人と飲み屋以外でデートをするのは一体いつぶりだろうか。三年前に付き合っていた彼氏とも、デートらしいデートなんかは数えるほどしかしたことがない。何か特別気をつけなければいけない事は……というかこれはデートなのか?前髪にカーラーを付けて、コテでくるくると横の髪の毛を巻きながら、今日の鉄朗くんとのバレー観戦はデートなのか否かという、超どうでも良いことに頭を使っていた。
 試合は午後二時スタートということで、時間にはまだかなり余裕がある。鉄朗くんは午前中に少し仕事をしてから向かうとの事だったので、現地集合することになっていた。つまり、鉄朗くんはスーツでくるわけだ。私は何を着ようかと悩む。あまりラフすぎると鉄朗くんの隣で浮きそうだし、試合観戦中は着席だから、丈の短いスカートなんかは論外だ。ならば綺麗めのワンピースとかにしておくか、と考えて、それだとあまりにデート感が出過ぎて恥ずかしいか?などと葛藤する。そんなに悩むなら昨日の内に決めておけと思われるのかもしれないが、女とは非常に厄介な生き物で、当日になって「あ、やっぱりこれはないな」と服装に納得いかないことがしばしばある。だから前日に決めようが当日に決めようが、どちらもそう変わりないのだ。

 悩みに悩んだ末、結局無難に白のキレイめオーバーシャツと薄色のデニムを合わせ、髪はゆるふわ無造作おくれ毛マシマシポニーテールに決めた。会場は人の出入りも多そうだから、ヒールは低めのパンプスにする。小さめのバッグにハンカチやリップ、鏡など女子の必需品をポイポイと入れて、スマホとキーケースを持って家を出る支度をする。時間にはまだまだ余裕があるが、遅刻はあり得ないので早めに出るに越したことはない。リビングの電気を消して玄関に向かおうとしたその時、手の中のスマホが鳴った。画面を見て、迷うことなく応答をスライドする。

「……っはい、もしもし?」
『あ、なまえさん、悪い、今話せる?』
「全然。今家出るとこだった」
『あー…………そっか、あのさ』

 鉄朗くんだ。スピーカーを通してでもわかる、かなり罰の悪そうな声。……それだけで私はなんとなーく事情を察し、つとめて平常心のまま通話を続けた。

『本当悪い。仕事抜けられなくなって、今日俺行けそうにねぇわ』
「あー……やっぱね、なんかそんなことだろうと思った」

 ま、これは社会人あるあるだ。早上がり前提で予定を入れてたのに、トラブルに巻き込まれて帰れないパターンのやつ。私もよーく経験してきたから事情はわかる。残念だけど、どうしようもないことだ。

『俺が誘ったのにな。本当ごめん、もっと早く連絡したかったんだけど、取引先の人がそういうの厳しくて』
「あーいるいる。会議中に絶対スマホみるなって人ね。てか今は電話してて平気なの?もう切ろうか?」
『いや、とりあえずあと五分くらいは平気。だからこの五分間かけて全力で謝らせて』
「……っふ!いいのに、そんな」
『せっかく予定空けてくれたのに、本当にごめん』

 鉄朗くんの謝罪にはかなり誠意を感じられた。仕事だからしょうがないだろ、という前提で謝ってくる人もいる中で、鉄朗くんはちゃんと私の気持ちを考慮した上で、申し訳ないと思ってくれている。それだけで全然、まったく、怒る気になんてなれない。それに、仕事は鉄朗くんの人生に等しいのだ。

「謝んなくていいってば。てかわたしひとりでもいくからね?」
『…………え?マジ?』
「マジよ。ちゃんとこの日のためにルールとか勉強してきたし、あんな良い席二つも空けちゃうの、選手にもファンにも失礼でしょ?」

 鉄朗くんはさすがというべきか、コートサイド二列目というファンの間では神席と言われる場所を用意してくれていた。ちなみに一列目はたまにボールが飛んできたりする可能性があるので、二列目ということらしい。初心者の私へのご配慮である。
 私もバレーについては少し勉強をした。といっても、私の友達がお勧めしていたバレー漫画とそのアニメを見ただけなのだが。これがなかなかハマってしまい、しかもちょうど映画化しているらしいので、今度それを観に行く約束までしたくらいだ。

『……なんかなまえさんって、ホントちゃんとしてるな』
「なにその曖昧な褒めかた」
『いや……でも、ありがとな。ほんと』

 鉄朗くんの声が急にしおらしくなる。別にお礼を言われるようなことはしていない。このチケットだって鉄朗くんが買ってくれたんだから、私の方がむしろお礼を言うべきだ。

「……じゃー埋め合わせにさ、今日仕事終わったら飲み付き合って。ちょっとでいいから。前のワインバーでさ、わたし先に行って飲んでるし」

 鉄朗くんだって、お弟子クンのバレーを観たかっただろう。だから、私に対して罪悪感を抱く必要はない。私は鉄朗くんの分まで、そのメガネノッポの金髪くんの応援を全力でやるまでだ。そういえばその子の名前を聞いてないけど、そんな特徴的な選手ならまあ見ればわかるだろう。

『ああ、勿論。絶対行く』
「じゃあ待ってる。お仕事がんばって。……んじゃ、わたしもう出るから」

 鉄朗くんは最後にまた念押しをするように謝ってきたが、私はハイハイと聞き流して電話を切った。
 まあ、デートはなくなってしまったけど、バレーを観に行く楽しみがなくなってしまったわけじゃない。せっかくのおめかしも、この後で鉄朗くんに会えるのなら全くもって無駄ではない。私より、むしろ鉄朗くんの方が落ち込んでいそうだ。だからこそ、今日の試合をしっかりと目に焼き付けて、鉄朗くんにたくさん感想を伝えてあげなくちゃと、私はむしろ気合いが入っていた。



***




「そんであの月島クンがわざわざ二列目にいるなまえさんの前まできてくれた上にTシャツにサイン書いてくれてその上会場の外でツーショットのお写真までとってくれたってワケ??一体なんでそんなことに??」
「いやなんかわかんないけど『黒尾さんによろしく』ってにこやかに言われたよ」
「確信犯かよこんちくしょう」

 現在午後六時である。鉄朗くんは思ったより早く店にやってきた。まあ、もともと昼までの予定だった仕事なのだから、当然といえばそうなのかもしれない。その時すでに出来上がっていた私はすぐに鉄朗くんに駆け寄って、バッ!!と羽織っていたシャツの前を広げたうえ、ドヤ顔でアピールをした。ちなみに露出狂ではない。本日の試合前に購入した応援Tシャツに、でかでかと書いてもらったサインを見せつけたのだ。メガネノッポの金髪くんこと、月島蛍選手のサインである。

「ていうか月島選手、わたしたちが来ること知ってたんだね」
「まあ……そりゃ、言ったけどさ」
「月島選手にね『こんな美人さんにたくさん応援してもらえて、僕嬉しいです』って言われちゃった」
「……エ、それホントに月島選手だった?」
「いやほんとだし!」
「…………んじゃ挑発か」

 月島選手と鉄朗くんはどうやら本当に仲良しさんらしい。じゃなきゃわざわざ面識のない女に、そんな挨拶してこないだろう。すごく愛想が良くて優しそうな子だったよ、と鉄朗くんに伝えれば「なまえさん、やっぱ見る目ないな」と真顔で言われた。一体どういう意味だろうか。

「ていうかほんとに迫力すごかった!テレビと違って歓声もおっきいし、スパイク決まった時のあの地響きみたいな音!わたし興奮しすぎて汗かいちゃったもん」
「……そっか。面白かった?」
「うん!超面白かった!絶対また行きたいし、今度こそドタキャンやめてよね?」
「はい。必ず有休取らせて頂きます」

 結果的に一人でものすごく楽しんできてしまった私は、そのあとも鉄朗くんに今日の試合の面白かったところを熱心に語った。鉄朗くんはワインもろくに飲まず、ずっと頷きながら私の話を聞いてくれていた。一人でも楽しかったけど、鉄朗くんと行ったらもっと楽しかったんだろうなと思う。でも、それはまたの機会にお預けだ。



 興奮したせいか、すっかりお酒の回ってしまった私は、いつもより早めに店を出ることにした。鉄朗くんは酔っぱらってフラフラとどこかに飛んで行こうとする私の腕を笑いながら掴んで、転けないように気をつけてくれている。

「おーい、どこいくの」
「おうちー。帰りまーす」
「なまえさんのおうちはそっちじゃなくてこっちね」
「はぁい」

 最高に気分がいい。頭がふわふわして、思考があっちこっちに飛んでいく。鉄朗くんのアテンドがなきゃ、真っ直ぐ家には帰っていなかっただろう。もつれる足。とろんと落ちてくる目蓋。自分が何を喋っているか、あまりよくわからない。

「ねーねーてつろーくん」
「ん?」
「わたし、ちょーひさしぶりのデートだった」
「……あー……うん」
「すっごいおしゃれしてさぁ、はりきっちゃって、かわいいでしょ」

 にへら、と頬が緩む。鉄朗くんの腕からすり抜けて前に立ち、くるりと回って見せた。キレイめのシャツの下に応援Tシャツは誰が見ても素っ頓狂な格好なのに、自分が今、この世でいちばん可愛いのだと思い込んでいる。酔っ払いは無敵だ。


「なまえさんは、いつでも可愛いよ」


 春の夜に優しく溶け込む、甘い声だ。ずっと、その声を聞いていたい。もっと欲しい。もっと、もっと、彼に、触れてみたい。
 ふら、と彼のそばに近寄って。ぎゅう、とシャツの胸元を掴む。とろん、と視界が歪む。薄く開いた唇が、なまえ、と私の名を呼んでいる。

「ねー、キスしちゃう?」

 そう、たずねておきながら。私は彼の答えを聞く間も無く、その唇に噛みついていた。最初はその柔らかさを確かめるように、唇だけで優しくはむ。ちゅ、ちゅ、と可愛い音を鳴らしてから、舌をちろりと出して誘い込む。
 そこで、私の番は終わりだった。腰をぐっと引き寄せられて、頬に大きな手が触れて、熱く濡れた舌が口腔に潜り込んでくる。

「っ、ん、ふぁ」

 外だというのに、あられもない声が漏れた。人気がないのをいいことに、好き放題に弄り合う。舌を吸って、絡めて、唾液が口端から滑り落ちていく。ちゅ、ぢゅる、と下品な音が響くのに、味わう快楽は一級品だ。好き。大好き。こんなキス、一体誰の?揺蕩う熱に浮かされて、目が開けられない。必死に縋りついて、その体温を確かめる。匂い、知らない。私の知らない、抱かれたことのない匂いに包まれている。でも、こんな気持ちになるキスは、たったひとつだけ知っている。

「………ん、ぅ、……ゆう、……く、?」

 気がつけば、その名前を呼んでいた。そしてその後すぐ、熱が離れていった。ああ名残惜しい。そう思って目を開けて、やっとそのひとを視界に入れる。


「あ、…………え、あ、わ、わたし、うわ、ごめ」


 完全に、終わったと思った。
 

「…………あ、いや、俺も」
「うわ、あ、ぇ、あ、ごご、ごめ、」


 鉄朗くんの表情に、サッと血の気が引く。


 おかげで完全に正気に戻った私は、次の瞬間には家とは逆方向にかけだして、結局気づけばあのワインバーに戻っていた。
 鉄朗くんは、追いかけてはこなかった。


 ワインバーの店主と客たちが、どうしたどうしたと寄ってくる。私は、びーびーと子どもみたいに泣きじゃくった。あまりに酷いことをした。なんで、どうして、あんなことに。取り返しのつかないことをした。
 今回のことは、なにもお酒だけのせいじゃない。鉄朗くんのあの甘い声が、私の醜い欲望を刺激した。欲しい、欲しい、鉄朗くんが、私はあの時、何よりも欲しくなってしまった。蓋をした気持ちが、あの瞬間に溢れ出たのだ。だから、間違えた。私が過去に死ぬほど愛して、死ぬほど苦しかった、あの人の名前を、鉄朗くんの前で呼んでしまったのだ。

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