深夜二時。
 都内某所、街角のワインバーにて。

「つーことで、鉄朗くんの新たな門出にカンパーイ!」
「「「カンパーイ!!!」」」
「これほんと何回やらされんの俺」

 コの字型のカウンターの中で、店主が音頭を取る。深みのあるボルドーが波打つグラスを掲げ、皆が声を合わせた。

 黒尾さん改め、鉄朗くんを連れてきたのは、このあいだ天むすをお土産に授かった例のワインバーだ。店に着いた時にはシャッターが半分降りていたものの、コンコンコンと戸を三回叩けば、ゴキゲンな店主がすぐに顔を出してくれた。店主は店を閉めたあと一人で飲んでいることが多いので、常連がこうやってノックすれば営業時間外でも余裕で営業してくれるのだ。

 私と鉄朗くんが二人でしっぽり飲んでいたら、その雰囲気を嗅ぎつけて、他の店で飲んできたらしい常連が一人、また一人と集まってきた。私の連れで見慣れないイケメンがいるとなると、鉄朗くんは一気に皆の注目の的となった。そして私が鉄朗くんの修羅場を二度も目撃した話をすれば、死ぬほど盛り上がってしまった。深夜の飲み屋に秩序やモラルという概念はない。人が一人増えるたびその話をして、彼女と別れる覚悟を決めた鉄朗くんを讃えるための乾杯をする。その繰り返しだ。
 鉄朗くんは呆れたように言ったけど、その横顔は楽しそうに見えたので安心した。実際、私と鉄朗くんもかなり打ち解けてきて、軽く酔いが回った頃にはお互いに敬語もすっかり抜けていた。乾杯さえ終わればあとは各自団欒、私と鉄朗くんは二人の時間を取り戻していた。

「やかましいとこでしょ。ここくると悩みとかどうでもよくなるって評判なの」
「はは、確かに。でもなまえさんってほんと顔広いんだな」
「わたしがっていうより、ここの店主かな。この店に居たらほんとに色んな人がくるから」
「そーいうのいいよなぁ。趣味年齢職種問わず、色んな人と出会える」
「まさに鉄朗くんみたいなね。まさか公益財団法人にお勤めでいらっしゃるとは」
「その言い方」

 聞けば納得の話だった。黒尾鉄朗は幼き頃から好きだったバレーボールに血と汗と熱を全力で注ぎ、長年をかけて追い求め、そして今は日本バレーボール協会の一員としてバレーの楽しさを広く伝えるために日々奔走していると。まさにその一生をかけてバレーボールを愛し続けている男なのだと。鉄朗くんの自分語りはとても深みがあり、聞いてて温かい気持ちになれる。素晴らしい人生を歩んできたのだなあと素直に感心した。

「仕事ってより、それはもはや人生だね」
「ずいぶんカッケー言い方してくれんのね」

 それこそが、彼の魅力の根源なのだと悟った。仕事に限らず、何か一つのことを追い求め、情熱を注ぐ人間はひときわ輝いて見えるものだ。しかもその相手というのが、バレーボールという清廉潔白なスポーツである。
 彼自身の人柄に、経験から磨かれた廉潔さが滲み出ている。

「そんな熱い話聞いたらさ、わたしもちょっとバレー観たくなってきた」
「おっ、いいねえ。ちょうど夏頃でかいイベントがあんだけどさ、」
「えーさすがに夏までは待てない。このノリですぐ行きたい」
「んー……じゃあVのファイナルでも」
「それって黒尾プロの解説付きなんだよね?」
「もちろん。手取り足取り」

 バレーの話をしている時の鉄朗くんは、子供みたいに無邪気だ。本当に好きなんだなあと見ていて和む。バレーは学校の授業で習った程度の知識しかないが、もともとスポーツ観戦は好きな方だ。もし鉄朗くんが本気で誘ってくれているのなら、私も少しくらいは知識をつけておこうと思った。

「なんかワクワクしてきた」
「そんなに?」
「だってプロのバレー生で見るのなんて初めてだもん。新しい知見を得るのは楽しいことだから」
「そっか。……なまえさんはなんか、素直に生きてるよね」
「え、そう?」

 興味が掻き立てられるものはいくらあっても良い。鉄朗くんとこんな話をしなければ、私の人生においてバレー観戦という経験はきっと存在しなかっただろう。人との出会いは、人の人生を豊かにする。そういう意味でも、鉄朗くんとは出会えて良かった。

「なまえさんが興味もってくれたってだけで、俺は救われた気持ちになるよ」

 かた、とグラスの底がカウンターに触れる。鉄朗くんの表情は変わらない。でも、声がうんと優しくてどこか儚げで。その時だけは、頭の中で何か違うことを考えながら話しているようなちぐはぐさを感じた。
 ちくりと胸が痛む。さっきまでの無邪気さが消えてしまって、どこか物悲しい。

「……あ、でもさ。バレーボール協会ってそもそも新卒採用とかやってるんだね。普通の人は入れないんでしょ?」

 意図的に話題を逸らした。それでも、鉄朗くんの好きなバレーからは離れないよう意識した。

「まあ……確かに俺は経験者だし、高校で全国も行ってるし、それなりにコネもあったから入れた感じかな」
「そもそも好きを仕事にするってこと自体まず難しいもん。しかもやり甲斐もあるってほんとかっこいいし、ものすごく尊敬する」
「……ま、そのせいで俺は別れたんだけど」

 あ、なるほど。
 さっき感じた哀愁はコレかと一瞬で理解した。察するに、彼女とは鉄朗くんの仕事関係のことでどうにかこうにかなってしまったらしい。
 そりゃしんどい筈だ。鉄朗くんはまさに仕事が恋人というか、恋人以上というか、人生そのものなので、きっと実際の彼女からすれば思うところがあったのだろう。まあこの年代の男女にはよくありそうな話だが、先に鉄朗くんの話を聞いてしまったので、彼女の方には肩入れし辛い。鉄朗くんの人生でもある仕事への熱意を応援したい気持ちが勝る。

「つまり、仕事と私どっちが大事なのよ!的なアレ?」
「的なアレ。ま、……他にもいろいろあったけど」
「しんどい話。どっちもね」
「だよなぁ」

 鉄朗くんはでっかいため息を吐いた。彼はいま社会人六年目というキャリアパスの大事な時期であり、加えて先ほどチラつかせていた夏頃に企画しているイベントに向けても大忙しらしい。
 本当はもっと会いたいし、色んなところに遊びに行きたい。そうやって彼女にプレッシャーをかけられるたび、鉄朗くんは密かにストレスを抱えていたそうだ。

「彼女の気持ちに応えてやれない自分が悪いことは理解してんだけど、仕事は一切妥協できない」
「……そう言ったの?」
「言った。そしたら"わたしのことを一番にしてくれない鉄朗くんはいらない"って言われて」
「うーしんどい」
「そう。しんどいしかないの」

 しんどいのはわかった。
 ただ、それがなぜあの「浮気相手」発言に繋がるのかはよくわからなかったが、まあ、それも何かしらの勘違いがあってのことだろう。
 私は半分ほど残った赤のグラスを揺らしながら、鉄朗くんの話にふんふんと相槌を打っているものの、適切なアドバイスなどは出来ずにいる。

「まあなまえちゃんは恋愛オンチだからね。そういうの相談しても無駄さ」
「……あのさ、わかってるけど、人にそれ言われるとむかつくの」
「あの、恋愛オンチってどういう」
「周りにロクな男がいないってことだね」
「こらー失言!」

 カウンターの中でグラスを拭いていた店主が、ふいに言葉を投げてきた。他の人たちと話をしていると思ったら、どうやら私たちの会話もこっそり耳に入れていたらしい。その辺りはさすがだ。ただ、どうやらだいぶ酔いが回っているらしく、話していいこととダメなことの判別がつき辛くなっているみたいだ。
 店主が言いかけたのはその、私の男まわりのアレやコレやソレの話だが、鉄朗くんの前ではもちろんNGトークに指定させて頂く。理由は簡単。鉄朗くんに引かれたり嫌われたりする可能性が大いにあり得るからだ。せっかくここまで打ち解けたのに、そんなのが理由で離れられるのは絶対に嫌だ。

「……そういや、なまえさんは彼氏とかいねえの?」
「ああ〜確かここ三年はいないかな〜。鉄朗くんどう?なまえちゃんこの通り美人だしスタイルも良いし稼いでるし。ふたりお似合いだよ」
「だからなんで勝手に答えるの!あと鉄朗くんに変なこというのやめて」

 こういった冷やかしには慣れている。この店主には酔った勢いでなんでもかんでも話しすぎて、むしろ弱みを握られているに等しいくらいだ。おかげで色んなことが鉄朗くんにバレつつある。
 まあ私も鉄朗くんの修羅場を二度も目撃した挙句、破局の瞬間まで見届けているので、そこはお互い様なのかもしれないけれど。

「ま、実際なまえさんは綺麗だし」
「……ん?」
「背高くて美人系。俺のタイプ」

 口につけていたグラスをあやうく落とすところだった。カウンターで手を組んで背を曲げた鉄朗くんが、隣にいる私を横目に口説いてくる。死ぬほど色っぽい声が私の急所に攻撃をしかけてくるが、寸前のところで正気に戻った。
 そして私は彼と全く同じ体制で、顔を限界まで近づけて甘えるように囁いた。

「わたしも鉄朗くん、死ぬほどタイプ」

 数秒間、互いの目を見つめ合った。私はほんの冗談のつもりだった。

 鉄朗くんの眼差しは、相手の隙を見つけて射止めてたらし込む。たった数秒の戯れの中で、そんないやらしさを感じさせた。年下の男とは思えないほど、洗練された雄としての色気がとめどなく溢れている。──うん。これは死ぬほどモテるだろうな。と意識を外に屈折させた。そうじゃなきゃ、この男の放つ異様なまでの魅力に囚われて、抜け出せなくなってしまいそうな危うさを感じたから。

「おーい。二人ともおじさんを無視しないで」
「……っあは、ごめんごめん」

 ふふ、と表情を崩せば、鉄朗くんも声を上げて笑った。可能な限り近づいた距離も離れてゆき、早すぎた鼓動が徐々に正常値へと戻ってゆく。
 今回ばかりは店主に助けられた。人のことを常に良く見ているから、二人の男女が本当にいい感じだったらほっとくんだろうけど、私がちょっと良くない雰囲気にあてられていることを察して、助け舟を出してくれたのだ。

 それにしても、黒尾鉄朗という人間がよくわからない。

 さっきの話を聞いている限りでは、彼女のことを本当に大切にしていたのが伝わってきた。すれ違いが起きたのも仕事のせいとあらば仕方のないことだと思う。いっとき感じた寂しそうな声は、おそらく彼女への未練の表れだ。
 だからまさか、突然あんな風に口説いてくるなんて思わなかった。私にはわかる。さっきのあれはノリとか冗談ではなく、本気で誘ってくる男の目をしていた。


***



 ぐるぐるぐる、と意識がまわる。
 結局あれからニ時間すぎて、現在の時刻は朝の四時。流石に帰ろうかという話になって、鉄朗くんと二人で店を出た。私とほぼ同量飲んだのに、彼の顔色は一切変わっていない。ここにきて初めてホンモノのザルを見た。ちなみにお会計がいくらになったかは聞いてない。鉄朗くんが宣言通り全てお支払いしてくれたのだが、結構な金額になったと思う。今度は私がご馳走せねば。
 
「んー……絶対に化粧だけはおとす、おとす、おとーす」
「なまえさんさっきからソレばっか」
「いいなあー男の人はすぐ寝れてさー。ずるすぎる」
「なんならお手伝いしましょうか、オネーサン?」

 鉄朗くんに優しく腕を引かれ、体重を預ける形で家までふらふらと歩いていた。その提案はたいへん魅力的ではあるが、お酒で浮腫んだ顔プラスすっぴんコンボはさすがに人に見せられない。鉄朗くんなら尚更。

「てか、ほんとに連絡しなくていいの?」
「ん?」
「……彼女。もういいの?」
「ああ。もういいの。付き合ってくれてアリガトね」

 それは本当に、本音だろうか。
 自分がなぜこんな質問をしたのかはわからなかったが、ずいぶんとあっさりした答えに何故か少しモヤモヤとした。

「……まぁ、鉄朗くんならそのうちすぐ可愛い彼女できるよ」
「そうかねえ」
「死ぬほどモテるでしょ。今日そう思った」
「……ふーん。どのへんが?」
「喋り方とか、声とか、目線とか、仕草とか、生き方とか、ぜんぶかな」

 思いついたことをポンポン口に出すと、鉄朗くんが突然ぴた、と立ち止まった。まだ家には着いていない。
 日曜日の朝四時に人通りはなく、私たち二人だけが薄明るい空の下、道路のど真ん中で立ちすくんでいた。

 鉄朗くんが、私のすぐ目の前にいる。見上げると、当然のように見下ろされた。重たくて開きづらい瞼の奥で目が霞み、その表情はよくわからない。

「なまえさん」

 ふ、と影がおちてくる。腰を支える大きな手で、ぐっと中に連れ込まれる。……あ、これ、たぶん、キスされる。

 鉄朗くんの匂いが周りに広がって、意識が吸い込まれそうになる瞬間、私はギリギリのところで顔の前に手を差し込んだ。

「だめ」
「…………なんで?」
「鉄朗くん、そーゆー男じゃないよね」

 至近距離で瞬く目。鉄朗くんは面食らったような顔をしていた。おかげで、私の方はずいぶん意識がはっきりしてきた。

「誠実な男のはずだもん。黒尾鉄朗は」
「…………知った風にいうね」
「長年のカンです」
「俺とふたつしか変わらないのに?」
「女のカンの方が冴えてる」

 強く言い返すが、別に怒っているわけじゃない。キスの一つや二つされたって、私はどうってことない。うぶな女じゃあるまいし。
 でも、鉄朗くんはたぶん違う。彼は女の子の気持ちに寄り添って、きちんと段階を踏んで、恋愛においても相手を尊重できる人だ。キス一つにもちゃんと意味がある。私とは、全然違う。

「でもさ、なまえさんの周りにいる男って、そーゆー男ってことだろ」

 顔は笑っているのに、不満が混ざって聞こえるのは気のせいじゃないだろう。まさかキスを拒んだことに苛立っているのだろうか。なら私は、黒尾鉄朗という男の解釈を、見誤ったことになる。

「だったらなに」
「ずるいな、と思ってさ」
「……ずるい?」

 ほんの少し、鉄朗くんに対して警戒心が生まれた。彼は何を思ってそんな話を切り出したのだろう。私と彼の関係はまだ始まったばかりで、極々浅い。それでも、お互いになんとなく、どこかで、相手の生りを見定めている。

「身体から始まる関係も、俺は悪くないと思うよ」

 薄い唇が弧を描く。
 すべて見透かされていることに、私はやっと気がついた。

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