時刻は午後十一時をまわった。
 今日は仕事休みでとくに用事もないフリーな一日である。昨晩も遅くまで飲み歩いていたので今日はさすがに自炊でもするかと、昼過ぎに食材を買いに行き、適当にご飯をつくり、部屋の掃除をした。
 そして洗濯機から引き上げた洗濯物たちをベランダで干している最中、事件は起きた。

「なんで────ってくれないの!!!!」

 女の子の怒鳴り声だ。流石に何と言ったのかまではわからなかったが、ベランダにいても聞こえるくらいの声量だったから相当だ。なにごとかと洗濯かごを引き上げて部屋の中に戻ると、ドンッッ!という大きな音が横の壁から響いた。ついでに女の子の泣き声らしきものも聞こえてくる。ここのマンション、そんなに壁は薄くないはずなのに。私の耳にもしっかり届いてしまうほど、お隣さんは相当ヒートアップしているようだ。

 お隣さんといえば、つまり黒尾さんである。私は601号室の角部屋で、黒尾さんは602号室。つまり間違いなく、お隣の黒尾さんカップルが揉めているということだ。あの修羅場を目撃してからひと月ほど経ったが、あの二人はまだ続いていたんだなと感心した。よそのカップルの痴話喧嘩にまったく興味はないが、こう何度も壁をドンドンと鳴らされたり甲高い悲鳴が聞こえてきたりすると、当たり前だが気分の良いものではない。ただ、黒尾さんの声らしきものは全く聞こえてこないので、彼女がひとりヒステリックになってしまっているのだろう。

 正直、どちらもかわいそうだなと思った。だって、お互い好きだから喧嘩しているのだ。好きだからこそ、素直にぶつかり合ってしまう。相手に理解されないのはさぞや辛いことだろう。
 
 私もそれなりに恋愛経験はあるけれど、まあいろいろあって、最後に彼氏という存在がいたのはもう三年以上も前の話だ。人はそもそも恋愛なんかしなくても生きていけるし、好きな相手じゃなくても気持ち良いセックスは出来る。会いたい時に会って遊んで飲んでセックスして。誰に罪悪感を抱くわけもなく、その時したい相手と好きなことができる。それに慣れてしまえば、男女のお付き合いなんて面倒くさいことこの上ない事に気がついてしまった。
 恋愛は、すること自体がもう面倒くさい。良い年して拗れていると言われようが、この身の振り方がいちばんラクで楽しい。今を生きているから過去は振り返らないし、未来のことは考えない。あまり共感を得られない生き方をしていることは百も承知だ。ただ、私にはこの方が向いているというだけの話である。

 それはそうとして、ここはかなり居心地が悪い。自分の家なのにとんだ災難だ。隣人の正体が黒尾さんだと知らなければ、「やかましいな」くらいで済んだはずだ。ぎゃんぎゃんと泣き喚く彼女の声が耳に残る。なにがそんなに悲しいのだろう。黒尾さんは、何と言って宥めているのだろう。
 それから数分経った。彼女は全然泣き止みそうにないけど、大丈夫だろうか。まさか、痴情のもつれで黒尾さんが彼女に刺されたりしないかな?なんて不穏な考えがよぎる。ああ、やっぱりここにいては落ち着かない。
 ──ならばしょうがない。ちょっとだけ飲みにいくか。と正当な理由を見つけたので、私は思い立った。
 部屋着のスウェットから細めのデニムに履き替えて、だぼだぼのフーディをかぶる。今日は暖かいのでコートはいらないだろう。髪はラフに纏めて、財布とスマホだけ手に取った。電気を消して玄関に向かい、白のスニーカーを引っ掛けて外にでる。とんとん、と踵を押し込みながら、扉の鍵を閉めた。ガチャ、ガチャといつものように二度戸締りを確認して、サッサとエレベーターの方に歩いて向かう。
 いつものようにインスタを起動してフォロワーのストーリーを見た。土曜日だからどこかしらで知り合いが飲んでるだろうと思い、みんなの居場所を確認していた。

 ちょうど、その時だ。

「……もう知らないっ!わたし二度とこないから!」

 さっきまで聞こえていた声が、はっきりとクリアになった。激しい音を立てて開かれた扉から、見覚えのありすぎる女の子が出てきてしまう。
 これぞまさにデジャヴだ。前と違うのは、部屋の奥から出て来る黒尾さんの姿まで、はっきりとこの目で見えていること。

「……っおい!待てっ…………っあ、え、なまえさん?」
「…………あー……」

 はい、完全に間違えた。こんなことある?ってタイミングで、泣いている女の子とその子を追いかけようとする黒尾さんと鉢合わせてしまった。しかも黒尾さんはあろうことか私の名前を彼女の前で呼んだ。咄嗟のこととはいえ、今のこの状況で、それは絶対にやってはならない。これは黒尾さんの落ち度だ。
 思ったとおり、黒尾さんの声に女の子が反応して、バッと私の方を見た。目をまんまるに見開いてから、あっというまに強い口調で詰め寄られる。

「……もしかして、鉄朗くんの浮気相手ってあなた?!」
「…………はい?」

 浮気相手、とは。
 ……黒尾さん、もしかしてあなた。と疑いの目を彼女の後方にいる黒尾さんに向ければ、彼はブンブンと必死に首を振っていた。しかしもう遅い。女の子は完全に私をロックオンしたようだ。

「なに?!ていうか何で今ここにいるの?!まさか一緒に住んでるの?!」
「おい待て、そのひとはお隣の」
「やっぱり美人系のお姉さんが好きなんじゃん!わたしが言った通りじゃん!わたしがこんなちんちくりんのガキだからっ……こんなっ、うっ、ふええ」
「……っだからこの人は関係ねえんだって。ほんといい加減にしろよ」

 完全なとばっちりだった。彼女が錯乱しているのは見て明らかだが、黒尾さんの様子もちょっぴり不穏だ。イライラしているのか、眉間に皺を寄せ怖い顔をしている。声も冷たく、刺々しい。私がイチコロされた、あの穏やかに微笑む黒尾さんは見る影もない。自分に向けられているわけではないのに、緊張でドクドクと心臓が跳ねた。

「……っ鉄朗くんのこと、最低な浮気男だって言いふらしてやるから!!」
「…………ったく。もういい。勝手にしろ」

 彼女が捨て台詞のようなものを吐いた。黒尾さんはそれに心底呆れたようで、抑揚もつけないまま言葉を吐き捨てていた。
 彼女は黒尾さんの冷たい態度に、大きな目をまたまんまるにして、大粒の涙を流していた。彼女に何も言うことなく、黒尾さんは扉に手をかけたまま、彼女の様子を見守っている。

 私も私で動けなかった。前回よりも壮絶な修羅場を目撃し、さらには巻き込まれるような形で立ち尽くしている。相手はもちろん私ではないが、黒尾さんが浮気をしているのならばそれはそれで問題だ。私もフォローしようがない。彼女が何か勘違いしているのならともかく、そもそも私にそれを知る術はない。ならば私にどうしろというのか。スマホをもったまま固まる私。えんえんと泣いている女の子。黙ったままの黒尾さん。とりあえず、誰かなんか行動して欲しい。私、なんで巻き込まれたんだろう。

 気まずい沈黙はとてつもなく長く感じた。限りなく悩んで、悩んだ末に、エレベーターの方へ向かおうと決意した。私は邪魔者でしかない。浮気相手でもない。完全に部外者なのだから、ここにいる筋合いはない。自分にそう言い聞かせながら固まった足を動かそうと踏ん張りをきかせた直後、はぁ、と重たいため息が夜の冷たい風に紛れて落ちた。


「別れよう。俺のこと信じられないなら、もう無理だろ」


 黒尾さんの一言により、ようやく時が動いた。はっきりと別れを告げられて、女の子は何も言えずにその場から逃げるように立ち去った。私もようやく修羅場から解放されたものの、たった今、一組のカップルの終焉を目の当たりにして、何となく気分が落ちる。……黒尾さんに、気の利いた言葉、かけるべきだろうか。いや、そもそも私にそんな権限も義理もない。私はただのお隣さんだ。ならば聞かなかったことにして、さっさとこの場を去るべきか。
 頭の中で葛藤し、ちらりと黒尾さんの方を伺えば、そのタイミングでしっかり目があってしまった。あ、と思わず声を漏らせば、黒尾さんが扉から手を離して部屋から完全に出てきて、私に向かって頭を下げた。

「……あーもう、ほんとにすみません、なまえさん」
「いや……こちらこそなんかごめんね」

 本当に、この間の悪さは何なのだろう。裏を返せば縁がある、とでもいうのだろうか。

「どっか出かけるとこでしたよね。マジで巻き込んでほんと、」
「あ、ちょっとふらっと飲みにいこうかな〜って感じだったので、全然」

 黒尾さんの謝罪を遮って、大丈夫ですと手を振った。まあ驚きはしたものの、別に実害はない。むしろこちらが変なタイミングで現れてすみませんである。あのまま家から出てこなければ、こんなことにはならなかった。

「……あー」

 ふいに漏れたのは、言葉にならない苛立ちだろうか。黒尾さんは頭をかいて天井を見上げていた。前に見たスーツと違ってラフな格好をしている。スタイルがいいとそんな姿も様になるなあ、なんて場違いなことを考えてしまった。
 
 ──場違いついでに、私はとあることを思いついた。

「……あのー、よかったら黒尾さんも飲みに行きます?」
「……え、」
「あ、いや……その、もやもやするなら美味しいものとアルコールで発散、的な感じでどうかなと。わたし、おいしいとこ連れて行きますし」

 どうですかね……? と遠慮がちにたずねてみる。まあ、彼女とあんな別れ方をしてすぐ、そんな気持ちにはなれないかもしれない。ただ、一人で悶々と悩むよりはマシかなと思ったのだ。たぶん、愚痴を聞くことくらいは出来る。
 別に私じゃなくても誰かに話せばいい。私の知っているお店には、黒尾さんと年の近い男女も、お母さんくらいの年の女性も、上司みたいな中年男性も、陽気なおじいさんだっている。黒尾さんならきっと、誰を相手にしても馴染めるだろう。

「マジですか。行きます」

 ……あれ。なんか、思ったよりも即答だった。
 自分で誘っておきながら驚いて惚けた私に黒尾さんは「ちょっと待っててください!」と言い残して、部屋の中に戻っていった。そしてものの数秒後、スマホとキーケースと財布らしきものを持って再び私の前に現れた。

「……誘っといてアレなんですけど、本当に大丈夫なんですか? あした仕事とかは」
「明日は休みなんで。なまえさんさえよければとことん。奢ります」
「わぁお」

 思いがけず、最高のお返事を頂いた。
 それならば私は、最高の選択肢を与えるだけだ。今からでも開けてくれそうな店をいくつかピックアップして、黒尾さんにインスタ投稿画面を見せる。これは私のアカウントだが、ユーザー名は見えないように注意した。

「ワイン、焼酎、日本酒、クラフトビール……色々ありますけど、どのへんが良いですか?」
「んー……じゃあワインで」

 完璧すぎるチョイスに私もついテンションが上がる。どうせ行くならもう少し可愛いカッコをすれば良かったとも思ったが、黒尾さんもラフな格好なのでこれはこれで良い。いい感じにリンクしている。

「おっけいです!黒尾さん、もしかしてワインお好きなんですか?」
「大好き」

 きゅん。と心を奪われた。
 彼女と別れてすぐの男と飲みにいくなんて倫理道徳に反すると責められるかもしれないが、黒尾さんがその気なら、私には関係のない事だ。
 私にとってはただのお隣さん。それがたまたまタイプの男で、たまたま修羅場を見てしまっただけのこと。法に罰せられるわけでもない。誰も見ていないし、誰も私たちの関係を知らない。ただ楽しく飲みたいだけだ。別に悪くはないだろう。

   TOP   

- ナノ -