「待って。俺それだけはマジ譲れない」
「いや、わたしもなんだけど」

 付き合って一ヶ月目にして早々、初めての喧嘩が勃発していた。

「なんで寝室別?!同棲の醍醐味とは?」
「……だって、毎回寝起き見られんのやだし。それに同棲の醍醐味は他にもあるでしょ」
「ふーん。そんなしょーもない理由なら却下」
「しょーもないってなに?!わたしにとっては死活問題だけど!」
「いやいや。百歩ゆずっても寝室は同じがいい」
「いやなにも譲ってないじゃん」

 ソファの上で胡座をかく鉄朗は、腕を組んで私に説教するみたく見下ろしてきた。対して私はソファの上で三角座りをし、膝に顎を乗せて項垂れている。
 私たちはあの日の夜を境にめでたく同棲を始めるというという話に至り、今日は鉄朗の家で缶ビールを片手にその内容を固めていた。住む場所や家賃の相場などについてはおおかた私の認識と離れる事なく、話は順調に進んでいった。──かと思いきや、私が考えていた「プライベートな空間は絶対に欲しい」の話をすれば、鉄朗は私に噛みついてきたのだ。

「お願いなまえ。んなのすぐ慣れるって」
「慣れるとかじゃなくて、やなの」
「なんで。俺はなまえがたとえ半目で寝てても涎垂らしてもむしろ愛せるのに。そんな無防備ななまえを愛することしか出来ないのに」
「……いやそれはさ、女のプライドってもんがあってね」
「なまえはどこの誰でもない俺の女だろ? 俺の前でそんなプライドいらねーよ。捨てちまえよ。俺には全てを曝け出せよ」
「急にそんなオラオラしないでよ。ちょっとときめくから」
「ときめくのかよ。つーか寝室別でも寝込み襲いに行くしそのまま一緒に寝るからあんま変わんないよ?ならせっまいセミダブルで寝るより二人でキングのデカいベッド買った方がよくない?」
「……くっ、それは一理ある」
「あ、寝込み襲うのはいいんだ」

 そして、私はさっそく言い負かされそうになっていた。やっぱり口では適いそうもない。私もなかなか口達者な方だが、鉄朗のほうがよっぽど上手だ。悔しいけれど、私の我を押し通せるような説得力のある言葉が思いつかない。

「俺は朝も夜もなまえとラブラブしたいだけなんです」
「……それは、うん」
「なまえは違うの」
「ちがく……ないです」
「じゃあここは俺の言い分通していい?」
「………う」
「ごめんな。でもなまえは俺のワガママもちゃんと聞いてくれるだろ」

 正直、完敗だ。そんなことを言われて、私が折れないわけにはいかない。鉄朗の我儘なんぞレア中のレアだ。彼はいつも当たり前みたく私の我儘を聞いてくれている。ここぞというタイミングでお返しをされて、この人は本当に私の扱いを心得ているなと、もはや感心の域に達していた。

「……わかった。でも私より先に起きるの禁止ね」
「それは生理現象だからなんとも」
「気合いでなんとかして。鉄朗ならできるでしょ」
「ウン。なかなか無茶いうね」

 そんな言葉とはそぐわず、鉄朗は安心し切ったように顔を綻ばせていた。最近こんな表情をよくする。惚気るようなことばかり言うし、こっちが恥ずかしくなるくらい浮ついている。ちょっと前の私もこんな感じだったのだろうか。

「まー俺の希望はそんくらいだし、あとはなまえの希望通りに決めよう」
「……いや、いい。このことは全部二人で話し合って決めたい。大事なことだもん」
「んー……そっかそっか」

 うんうんと頷いた鉄朗が急に腰をあげて、私の身体を掻き抱くみたいに引き寄せた。抵抗せずにそのまま腕の中におさまれば、鉄朗は私の肩口に顔を埋めて、んーだかあーだか意味のないことを呻いていた。また匂いを嗅がれている。
 時に際限のない包容力を見せつけてくるかと思えば、こうやって素直に甘えてきたりもする。振り幅がとにかくすごい。こういうところも彼の魅力のひとつであり、依存性を強くする要因にもなっている。
 こうして冷静に黒尾鉄朗を分析することにより、最近の私は平常心を保てるように感情をコントロールしていた。これをしないとひたすら鉄朗のペースになる。そうなったら尊厳がなくなる。キャラ変も余儀なくされる。振り回されてばかりはだめだ。本人は振り回しているつもりなどないのだろうが、私は初めて出会ったときから変わらず、この男の一挙手一投足に心を奪われがちなのである。

「なんか今ちょー幸せ感じたわ」
「ふーん。わたしは常に感じてるけど」
「うわ出た。なまえの淡々とデレるやつ」
「鉄朗はデレが出過ぎなんだよ」
「それ、誰のせいだと思ってんの」

 過剰すぎる甘さに、はやくも自分を保てなくなりそうだった。身体があつくて溶けそうだ。ピンク色したドロドロの物体になってしまう。
 もう、誰かにこのこと惚気たい。吐き出さないとやってられない。でも本人には言っちゃだめだ。それこそもっと奥まで侵食される。

「なまえ、すげー心臓はやい」
「……ちょっと。聞かないでよ」
「大体むっつりしてんのに、俺のこと好きだってことは否定しないもんな」
「……だったらなに?」
「たまらないってこと」

 鉄朗は、落とすところまで落とす気だ。心臓をぎゅ、と握られる。致命傷まではあと少し。腕の力が緩まって顔を見下ろされ、鼻先をぐっと近づけられた。

「ちょっと前まで、遠目で見てただけだったのにな」

 ──でも、いまはこんなに近くにいる。見つめ合って、触れ合える。お互いのすべてを知ったわけじゃないけれど、これからは朝も昼も夜も、暑い時も寒い時も、辛い時も寂しい時も、楽しい時も、幸せな時も、同じ時間を一緒に過ごすのだ。隣人よりも、ずっと近い距離で。

「……でもまんまと捕まった。しかもバームクーヘンで釣られた」
「それもだけど。なまえは俺と初めて会った時から、ちょっとくらいは惹かれてたでしょ?」
「これまた自信満々だこと」
「じゃなきゃなまえは彼女と別れて傷心の俺を誘ったりしない。なまえはそーゆー女じゃない」
「わたしの台詞パクらないでよ」
「ま、俺は本当に見る目あったんだなってことで」

 まるで一つずつ答え合わせをしているみたいだった。
 出会ってから今に至るまでを、二人の記憶と言葉でなぞっていく。

「……でも、付き合う前にキスとかセックスしたら終わりって皆いうじゃん? わたしは別にそうは思わないけど」
「んー……まあ恋愛においては順序とかを大事にする人もいるわけで、それが例えば相手への思いやりとか、気持ちの本気度合いに繋がるって思ってる人間が大半なわけでしょ。実際、なまえも俺のことそう思ったわけだし」
「……そうだけど。ちがうの?」
「俺はその人の感性に合わせる」
「それ、……なんかものすごく都合良くない?」
「だから俺はそーいうヤツなんだって。でも、そうじゃなきゃなまえとこうはなれなかっただろ」

 鉄朗は自分を"そういうヤツ"と卑下するように言ったけど、私はその柔軟な考え方こそ有難いと思う側の人間だ。「ワンナイトの相手を好きになっちゃった」みたいな子を腐るほど見てきた。実際そこから始まる恋だって、順序が異なるだけでその本質は変わらない。

「お互い本気だったらどこから始まろうと行き着く先は同じってこと。人を愛することに本来順序なんてもんは存在しないわけだし」

 鉄朗の言葉を鵜呑みにするのなら、当初の私の認識は、やはり誤っていたことになる。
 恋愛において順序を気にしないということは、つまり、そういうことだ。

「……じゃあ、あの言葉は嘘じゃなかったんだ」
「身体から始まる関係も、ってやつね。軽薄な奴だと思われるかもだけど、ああでも言っとかないとなまえは俺のこと突き放し続けるんだろうなと思ったし」
「そうだよ。そのあとも頑張って突っぱねてたのに」
「頑なにね。でも、俺に興味がないわけじゃないんだなとは確信してた。説教するのかと思えば、必死に俺のこと立てようとするし」
「……ちょっと。なんか恥ずかしいからやめて」
「恋愛オンチってこのことかーと思った。俺のこと好きにならないように虚勢張ってんのかなと思うと可愛くて、そこからはもうズブズブですよ」
「やめてください」

 本当に全部見透かされていたんだと思うと、恥ずかしくてたまらなかった。

「つーかさ、過去はもういいんだよ。これから先、なまえの人生ぜんぶに俺がいるって考えてさ、こっからは俺の独壇場だから」

 ここから先の人生、未来全てを埋め尽くす。私の望むものは、やっぱり彼が全て叶えてくれるらしい。

「……それってプロポーズ?」
「の、お返し。なまえが先にしてくれた」

 お返しって。私は別にそんなつもりで言ってないのに、勝手にプロポーズが成立してしまっている。鉄朗は自信たっぷりに目を細めて、私の次の反応を楽しんでいる。いつかの互いの言葉を拾い合って、それを投げてかかる遊びだ。それだって、意味のない言葉は一つもない。二人の会話はひとつ残らず覚えている。それはすべて私たちなりの愛に塗れた、気持ちのぶつけ合いだった。

「鉄朗のバカ」

 ──ほら、やっぱ否定しない。
 先に鉄朗の言葉を想像し、今度ばかりはそれを言わせぬよう、弧を描く唇目掛けて噛みついた。


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