雨が窓枠に降りつける音がする。
 今週末から梅雨入りだと、今朝のテレビが言っていた。例年より早いだとか遅いだとか、結局どちらだったかはちゃんと聞いていない。別に嬉しくもないニュースだ。せっかくの休みだというのに気圧のせいで頭は痛いし、気分は憂鬱に染まっている。
 シックな色味のソファに全身を沈めて、とくに何をすることもなくぼんやりと目を開けるだけの事をしていた。何もやる気が起きない。動けない。昼食もスキップして、気がつけば夕方だ。

 私は待つことしか出来ない、ただの肉の塊と成り果てていた。
 ここは自分の家ではない。私は今、鉄朗の家にいる。
 その鉄朗は今、あの子に会いに行っている。

 昨日の晩は鉄朗が私の家に泊まりに来ていた。昨日は仕事が早く終わったので、私から鉄朗に声を掛けたらだいぶノリノリで来てくれた。
 私が作ったご飯を一緒に食べた。風呂に入って、酒を飲んで、セックスをして、さあ寝るかと一緒のベッドに入り込んだ。日常にあるささやかな幸せをすべて享受した。そんな一日が終わるタイミングで鉄朗は「あした会ってくるわ」と主語なく言ったのだ。

 私はその意味をすぐに理解することができた。無意識にその言葉を待っていたのだろうか。「あの子に会って欲しい」と言ったその日からは、約二週間ほど経っていた。
 間違いなく、自ら望んだことなのに、胸にピリピリと痛い亀裂が入った。鉄朗の目にまたあの子が映る。鉄朗の心にまたあの子が入り込む。この二週間、鉄朗はきっとあの子のことばかりを考えていた。それだけの事を想像し、私の脳内はアスファルトに染み入った水溜まりのようにどんよりと汚くよどんでいった。
 酷く矛盾する心をキチンと制御できていたかはわからない。ひょっとしたら、感情の歪みが声や顔に出ていたかもしれない。私は鉄朗に「わかった」とだけ告げて、そのまま寝入ったフリをした。明らかに動揺していた私に、鉄朗はなにも言わなかった。
 せまいベッドの中で寄り添う体温は心地よかったけれど、心はほんの少し噛み合わない。とはいえ、これは乗り越えなければならない壁だと、お互いが理解していたと思う。言葉を交わさずともわかる。決着がつくまでは、中途半端な慰め合いはしない。
 すべて綺麗に片付いたら、貪るように愛し合いたい。その願望だけが、心の支柱だった。



 次の日の朝。つまり今日の朝、私の家から鉄朗が出ていく際に、玄関でこの家の合鍵を渡された。ただ「もってて」とだけ言われて、とくに理由は述べられなかった。私は一瞬もらうのを躊躇ったが、明瞭な信頼の証は嬉しかった。ただ、結局それを受け取りはしたものの「じゃあ私も渡すね」とは言えなかった。
 もちろん鉄朗を信用していないとかではないし、とくに大層な理由もない。ただ、私の居ぬ間に私の腑抜けた生活実態を見られる事については、今の段階では許容できるものではなく、もう少しだけ時間が欲しいというだけだ。
 鉄朗はそういうの、全然平気なんだろうか。研磨くんから聞いた、彼女とスマホのパスコードを共有していたという話も私からすればまあ、かなり、アレだった。よほど潔白だと自信がある人じゃなきゃ安易にそんなことはできないと鉄朗を擁護してみたが、やっぱり私、それだけはどうしても受け付けない。いくら好きな人だからって、そんな事まで受け入れなくていいのにと、鉄朗の優しさを初めて責めた。

 共有といえば、同棲の話もそうだ。あの時はいったん私も鉄朗の意見に同調したが、改めて考えると、私はやっぱり隣人くらいの距離がまだちょうど良いと思ってしまう。毎朝寝起きに顔を合わせるなんていちいち顔面の修羅場は確実だし、そもそも私は好きな男の前ではいつだって完璧でありたいのだ。私のような見栄っ張りでプライドの高い女は、おそらく同棲には向かないと思う。付き合い始めなんて特にそうだ。
 でも今さらそれを言ったら、鉄朗は悲しむかもしれない。そんなのは駄目だし、それだけは絶対に嫌だ。あの鉄朗に傷ついた顔なんかされたら、私は泣き喚いて謝るしかなくなる。
 しかしこれを幸いと言って良いものか、同棲の話題は初めて話したあの日以来、私たちの会話の中には一切出てきていなかった。同棲のどの字も、鉄朗は言ってこない。

 ……でも。あれ、もしかして。
 私はそこでふと気づいた。──合鍵を渡されたのって、そういう意味も含まれていたりするのか? 無言の圧、というか。「はやく慣れろよ」みたいな事。鉄朗は私の反応を見るために、鍵を渡したのかもしれない。それなら今朝のことも理解できる。
 もしこの憶測が当たっているのだとすれば、やはり私からも合鍵を渡すべきか。鉄朗の気持ちを決して蔑ろにしたくはないし、彼の願望ならできるだけ叶えたいとは思っている。

 同棲、──同棲ねえ。
 と、今度は頭を悩ませた。
 仮にするとしても、プライベートな空間は絶対に欲しい。ならば2LDKは最低条件だ。
 立地はこの辺りでもいいし、お互いの職場にもう少し近づいても良い。それだと家賃は少し割高になるだろうが、まあ私たち二人の収入を合わせれば、余裕とまではいかないが、厳しいことはないだろう。私も鉄朗も現役バリバリで真面目に働いている社会人同士だ。それに私には副業収入もある。
 あとは家事だ。分担はするとして、基本はどちらがメインでやることになるだろう。私は帰る時間がまちまちだし、鉄朗は休みが不定期だ。急な出張もよくあるという。まあ、二人とも料理をするというのはかなりのアドバンテージだろう。外食も好きだし、お酒も一緒に飲めるし。帰りの時間があえば会社の近くで飲みに行って、そのまま一緒に同じ家に帰って──とか、出来たりするのか。だめだ。考えれば考えるほど、楽しくなってきてしまっている。
 自分は同棲に向かないと言っておきながら、やっぱり一緒にはいたいらしい。鉄朗への恋心は恐ろしく我が強い。長年育ち続けているプライドさえ、ポッキリとあえなくへし折ってくる。

 おもむろにローテーブルに置いたスマホを取り、検索バーに「同棲 彼氏」と打ち込んだ。世の中の女性達が彼氏との同棲に対してどんな印象をもっているのかが気になったのだ。参考になりそうな記事はあるかしら、と思いきや、検索候補欄には「同棲 彼氏 別れる」「同棲 彼氏 家事しない」「同棲 彼氏 イライラ」などのネガティブワードがズラリと並んでるのが見えて、思わず笑ってしまった。
 私の頭の中にそのような心配事はひとつも存在していなかった。これは自分自身の心の問題なのに、他人の意見を参考にしようとしていた事も何だか急に馬鹿らしくなって、スマホを床のラグの上に放り投げた。
 手の甲を額の上にのせて、白い天井をぼんやりと眺めた。もう鉄朗のことで頭がいっぱいだ。この家にひとりで居るのは全然落ち着かない。でも、帰ってきたら真っ先に顔を合わせたかった。すぐにでも鉄朗の脳内からあの子を追い出して、私のことでいっぱいにしたい。今の私の頭みたいに。

 ああ、もう、早く会いたい。
 鉄朗はどんな顔をして帰ってくるだろう。そもそも彼は私がここにいることを知らない。まさか、そのまま彼女を連れて帰ってきたりして。
 ──いや、もうそんな、笑えない修羅場はこりごりだ。それに、鉄朗は私を裏切らない。信じてなきゃ、そもそも会いに行かせたりなんかしない。
 そろそろ連絡をしてみてもいいだろうか。「あなたの家で待ってる」といえば、鉄朗は飛んで帰ってきてくれたりするのだろうか。でも、あの子との最後の時間を邪魔するのは野暮だ。
 だってもう、これっきりだ。二度と二人を会わせる気はない。鉄朗を裏切った女の子のことなど、私はもう知らない。ボロボロに傷ついたって同情なんかしない。
 自分を大切にしてくれない人を、大切に想い扱う必要はない。そんなひとにまで鉄朗の優しさが向けられるなど、私には耐えられない。身勝手なのは重々承知の上だけれども、つまりは「わたし以外の人間に優しくしないで」という話だ。もちろん本人にそんな事は言わない。

 いい加減、頭の中が疲れてきた。
 恋愛って上手くいってても、いってなくても、悩むことが多すぎる。"恋愛"せずに愛する人と一緒にいられる方法って……などと、不毛な考えを抱きながら、重くなりつつある瞼を閉じた。
そのときだった。


 ガチャリと鍵穴が回る音がしたと思ったら次いで扉の開く音がして、私はソファから飛び起きた。さっと服装の乱れを直し、乱れた前髪を手で整える。
 頬が自然と緩むのがわかった。目に入れた瞬間から、あなたのことを愛していると、笑いかける準備を始めていた。
 鉄朗は私がこの家に来た時にそうしてくれた。今度は私が鉄朗を迎え入れる番だ。

 リビングから玄関に繋がるドアを開けて、その存在を目に映す。まるで生まれた時からこの瞬間を待っていたみたいに、心が喜びに震えていた。

「おかえり、鉄朗」  

 自分でもびっくりするほど甘い声が出た。私が居ることに驚いたらしい鉄朗は、ほとんど愛の告白にひとしい言葉を受けて、更に目を見開いて硬直した。けれどその目はすぐに柔らかに細められて口元はきゅうと優しく孤を描く。
 それを口にして思った。「行ってらっしゃい」と「おかえりなさい」は特別な言葉だ。恋人であってもなかなか言わない。家族以外には初めて言ったかもしれない。
 でも、一緒に住めばこれを毎日言い合える。そう思ったら、同棲への気持ちがさらに前向きになった。

「なまえ」

 鉄朗が、私の名前をぽつりと呼んだ。しかしあまりにも反応が薄いので、おかえりハグでもしてやろうかと近づいた。決して広くはない玄関だ。ちょっと踏み出せば触れ合える。
 私がその距離を縮めれば、その瞬間に腕を引かれて、鉄朗からの熱烈な抱擁を受けた。
 骨が軋むほどに強く抱かれて、んぐ、と喉からひしゃげた声が出る。

「……ちょ、鉄朗、いたい」

 いまさらもう、見栄も体裁もない。
 いま自分がどんなにはしたなくみっともない顔をしているのか分かるから、額を鉄朗の胸元へと擦り付けた。ぎゅう、と私の手が強く握り締めるせいで鉄朗のTシャツに無数の皺が寄る。なまえと変に息を飲んだ鉄朗が、耳のそばで小さくつぶやいた。

「俺、早く一緒に住みたい」

 ──ドクン。と胸を突き抜けるような衝撃だった。鼓膜に響いた言葉だけならば、そのまま喜びと化しただろう。
 ただ、私はその声の震えに、ちゃんと気づいてしまった。みるみるうちに自分の表情が失せていくのがわかる。

 まるで理解できない。わからない。どうしてそんなにも、苦しそうな声を出すのか。
 私はこんなにも幸せなのに、鉄朗の心が、深いところに沈んでいる。シャツを握る指の力が緩んだ。身体を押し返すように手を張ると、鉄朗は嫌がるみたいに腕の力をさらに強めた。声のみならず、身体もわずかに震えている。
 
「………鉄朗、いったん離して」
「ごめん、無理」
「……ねえ。どうしたの」
「……なまえ、ごめん」
「ごめんじゃわからない。ちゃんとわたしの顔、見て、お願いだから」

 最悪だ。
 もう、そうとしか考えられない。
 嘘だそんなの。絶対に、許せない。 

「鉄朗、ごめんね。わたし辛いことさせたよね」

 荒く波打つ心を無理やりに諌めた。
 鉄朗があの子のために悲しむなんて、そんなことは許さない。断ち切るって約束だったはずだ。約束を違えたのかどうかよりも、はやく鉄朗の心を取り戻したくて、とにかく必死だった。
 鉄朗の優しさを利用して、私も悲しいふりをする。懇願するように声を震わせると、鉄朗は私の身体をようやく離してくれた。

 その顔を見て、一瞬で底に突き落とされた気持ちになった。

「なまえは悪くない」
「……でもわたしが悪いよ。鉄朗は優しいから」
「俺は優しくない。アイツのこと最後まで泣かせてばっかりだった」

 ああもう無理。嫌だ。耐えられない。鉄朗が私の言葉さえ否定する。鉄朗の頭の中がよくないものに侵されている。断ち切れたという糸の残穢が、どうやらまだ鉄朗の心に引っかかっているらしい。やはり、五年の糸は中々にしぶとい。
 ならばその残りは、私がきちんと処理をする。跡形もなく。

「でも、それは全部わたしのためだったんだよ」

 言い聞かせるように口にした。
 早く、早く、思い出して欲しい。私のことを幸せにすると言ったあの日の心を。私が欲しいのは、あの子を思いやる言葉じゃない。

「だからわたしのこと見て、考えて。いますぐ、わたしのことで頭いっぱいにして」

 鉄朗は私にそう言ってくれたはずだ。
 言われた通り、どれほど貴方のことを想い、愛したか。そんな私を裏切るなんてこと、絶対にさせてやらない。

「……鉄朗、いいよ。一緒に住もう。わたしがぜったい幸せにするから。そんな顔もう二度とさせない」

 今度は私から鉄朗の身体を抱きしめた。鉄朗は大馬鹿だ。ぼろぼろになった糸くずに心を痛めるより、私の愛の深さに泣けばいいのに。鉄朗の唯一ダメなところは、やっぱり優しすぎるところだ。でも、私はその優しさが大好きだから、何があろうと受け入れる。責めたりなんかするものか。
 
 やがて、からだの震えはおさまった。全身の力が抜けたのか、私に体重を預けるように身体を倒してくる。当たり前だが、この巨体を支えられるはずもない。ふらふらと体勢をくずし、そのまま雪崩れ込むように床に尻餅をついた。鉄朗は私の膝をまたぐように四つ這いになり、私の身体を閉じ込めた。

「…………ちょっと。何やってんの」
「ごめん。なんか元気出て」
「……そう? なら、まあいいけど」
「つーかなまえ、さっきの本気?」

 鉄朗は小首を傾げて問うてくる。にまにまと、からかうようなニヤけ顔だ。あと、目が赤い。

「嘘ついてどうすんの」
「よし。じゃあもうほぼプロポーズってことでいい?」
「……へぇ。鉄朗にはそう聞こえたんだね」
「むしろそうとしか聞こえなかった」

 すっかりいつもの鉄朗だった。どうやら残穢は完全に立ち消えたらしい。
 今ここにいるのは、私のことを心底好きな鉄朗だ。嬉しくて、安心して、どんなふざけた言葉も否定する気は起きなかった。

「あ、あと言い忘れてた」
「ん?」
「ただいま、なまえ」

 おかえり、は。さっきもう言った。
 じゃあその代わりに。──ちゅ、と唇を吸った。

「……やば。これ、毎日して欲しい」

 そんな事があなたの願いなら、お安い御用だ。私は無言で頷くと、鉄朗は声にならない声をあげて悶えていた。

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