黒尾鉄朗という人間をよく知っている。
 年数も知識も思い出も、おそらく彼が筆頭だ。そんな人間がいま、私の目の前に座っている。

「まあ、呼んだ理由は察してくれてると思うけど」

 人生における唯一の推し。そして最愛の男の幼馴染でもある。
 コヅケン、もとい研磨くんは私の顔をジッと見つめながら、ミルクをたっぷりのカフェオレに刺さったストローを、くるくると弄ぶように回していた。
 髪をラフに一つに結んでつば付きの帽子を深く被り、縁無しの眼鏡を掛けている。パッと見た目では彼がコヅケンとはわからないが、一見芋臭くて地味と思えるその姿でさえ、恐ろしいほどに洗練されていた。彼の姿を目にした瞬間、オーバーキルをくらったことは言うまでもない。
 まず、私は推しの新ビジュアルに慣れる事に必死だった。顔を合わせてから三十分以上は経つけれど、いまだに慣れていない。残念ながら三秒以上は直視できずにいる。ずっと挙動不審な私に「相変わらずだね」と研磨くんは目元を柔らかくして笑った。ひとこと言わせていただくと、たった二度目のご対面で相変わらずだねもクソもない。

 それはさておき。
 私たちが今いる場所は、私の住む家の近くのカフェだ。緑豊かな植物や柔らかなファブリックをアクセントとした北欧風の内装で、余計な装飾のないミニマリズムを表現した居心地のよい空間に仕上がっている。席数が少ない分、席同士の間隔が広いので、人目はそこまで気にならない。若者からとくに人気が高くSNSでもよくバズっているお店だ。
 私もこの店をインスタに投稿したことがあるが、それを見てくれたらしい研磨くんが自らここを指定してきたのだ。この店が名物として出しているりんごを丸ごと一つ使ったアップルパイがずっと気になっていたという。私は前々からそれが彼の好物だと知っている。他の人のテーブルに運ばれていくそれを目にした彼は、あからさまに目をキラキラと輝かせていた。とても和んだ。推しは本日も素敵で可愛らしい。
 あまりに良い思いをしすぎたので今日はぜひご馳走様したいと申し出たが、「それはありえない」と普通に断られてしまった。むしろ私はご馳走様される側らしい。それこそあり得ないと思った。

 そもそもこうなった経緯についてだが、彼の方から突然インスタのDMを通して「こんど話せない?」と連絡があったのだ。まさかこの私がそのお誘いを断れるはずもなく、そこからはラインを使って連絡を取り合っていた。
 最初はてっきりお仕事関係の話かと思ったので、私とは比べ物にならないくらい多忙な研磨くんに「通話で良ければすぐにでも」ともっともらしい提案をしたのだが、直接会って話がしたいと言われた。しかも「仕事の話じゃない」とそこではっきりと断られた。
 ──だとすれば。研磨くんと私が話せる共通の話題とは、たったひとつだ。それについてはちょうど、私も彼に聞きたいことがある。
 そして誘われるがまま此処にやってきて、今に至るというわけである。

「……研磨くん、鉄朗からなんか聞いた?」

 鉄朗は絶賛お仕事中だが、おそらく今日ここで私たちが会っていることは知らないだろう。研磨くんは言ってないはずだし、私も言っていない。平日の真昼間だ。ちなみに今日は午後から出勤である。出勤前に推しと会っている。このあとの仕事は身に入りそうもない。
 研磨くんは恐らくあえて鉄朗を通さず、直接連絡を取ってきた。私からの好意に対して鉄朗を気遣う素振りを見せていたくらいだし、彼は人の気持ちをちゃんと察せる人だ。今回の件については、相応の理由があるはずだと思っている。だから鉄朗にも言わなかった。理由ついてはきっと、これからわかるのだろう。

「……クロから聞いたのはふたりがちゃんと付き合ったってことだけ。とりあえず、おめでとう」

 まさか推しから祝福の言葉を頂ける日が来ようとは。やっぱりちょっと信じられない。普通に会話をしているつもりだけど、いつまでもそわそわと心が落ち着かない。さきほど頼んだばかりのアイスコーヒーがどんどん減っていく。もう残り半分しかない。とにかく何かに気を逸らしていないとあっという間に緊張に呑み込まれてしまうので、会話の隙間は必要以上に喉を潤していた。

「ありがとう、ございます」
「うん。なまえさんがクロを好きになってくれてよかったと思うよ」
「い、いえそんな、むしろわたしの方が、有難いといいますか」
「クロは優しいけど、好きな子に対しては結構めんどくさいとこもあるからね」
「いや、それこそむしろわたしの方が百倍くらい面倒くさいといいいますか……」
「だったら尚更お似合いじゃん。二人並んでるとなんか映えるよね。背高いし、スタイル良いし」
「めっそうもございません……!」

 祝福からのベタ褒めをされた。さすがに正気じゃいられず、否定ばかりが口を衝く。

「なんで謙遜するの? ていうか敬語に戻ってきてる。やめてよ」
「いや、鉄朗いないし、緊張して……」
「……ふーん。それなんか悔しいから俺もなまえって呼び捨てでよんでいい?」
「え?! だ、だだだだめですよ!無理です。死にます。これ以上殺さないで」
「フッ。冗談。死なれたくないしね」

 もう駄目だ。生きて帰れる気がしない。
 研磨くんは研磨くんだけど、私にとってはコヅケンであり推しである。いや、もう何が何だかわからない。鉄朗もそうだけど、研磨くんも私をからかって面白がる節がある。さすがは幼馴染。似たもの同士かもしれない。
 この人と二人きりはまだ早すぎた。あの日は鉄朗がいたからまだ何とかなったのだ。それを再確認して、余計に緊張が昂っていく。鉄朗はここに来てくれないだろうか。仕事中だとわかっているのに、「たすけて推しに殺される」と連絡をしたくてたまらない。そんな私のきょどり具合を、研磨くんは目を細くたわめて見つめてくる。眼鏡越しなのに殺傷力が高い。いやむしろ眼鏡が似合いすぎている。目的はきっと変装なのに、いやはや恐ろしい眼鏡力だ。

「それでさ、本題なんだけど」

 直視はまだ無理なので、薄目でぼんやりと研磨くんのご尊顔を眺めていたら、顔の目の前で手をおーいと振られた。ハッとして、またアイスコーヒーを啜る。カラン、と氷の音がする。やばい、全部飲んじゃった。  
 研磨くんは話の合間にサッとおかわりを頼んでくれた。スマートすぎて本当に惚れる。まるで鉄朗と居る時みたいだ。二人揃って気遣いが鬼すぎる。こんな幼馴染ふたり、死ぬほどモテただろうな……と惚けていたら、「なまえ」とちょっと強めに名前を呼ばれてしまった。真面目に聞けよ、ということだと思うのだが、呼び捨てのせいでまた一つ命が死んだ。ボンヤリしていた私も悪かったが、これは研磨くんも悪い。

「無理です。ごめんなさい」
「いいけど。さすがにそろそろ慣れてほしいかな」
「たぶん今日中には無理です。あと呼び捨てはほんとに死にます。先に進めません」
「じゃあそれはクロに了承とってからにする」

 いや、そういう問題ではないのだが。ただ本当に話が進まないのであえて触れずにスルーした。残念ながら時間は有限だ。出社まであと一時間ちょっとしかない。彼の言う通り、いつまでも緊張している場合ではない。
 私は気を取り直し、背を正した。仕事の話ではないと知っているが、頭をお仕事モードにあえて切り替える。──商談、これは商談。コヅケンとの商談。浮かれてはいけない、と頭で繰り返し言い聞かせた。

「それで、その……すみません、本題とは」
「うん。クロに彼女……元カノのこと、ちゃんと聞いてる?」

 元カノと言い直してくれたところに研磨くんの細やかな気遣いを感じた。しかし、なんとも引っかかる物言いだ。お陰で商談モードはぷっつり途絶えてしまったが、内容が気になりすぎて思わず前のめりになった。

「……それは、なんで別れたかってこと?」
「そう。なまえさんはどういう認識?」
「あー……鉄朗の仕事のことで揉めたってのは聞いてるよ。あと……別れる瞬間もこの目で見た」
「……それは知ってる。災難だったよね」
「まあ……」

 煮え切らない返事に、研磨くんは「なに?」という顔をした。いや、まあ、たしかに災難といえば災難だが、むしろそれがなければ、私と鉄朗がこうなることはなかったはずだ。そもそも研磨くんは私たちの馴れ初めをどこまで知っているのだろう。鉄朗はそういうの、ひとに話したりするんだろうか。

「……じゃあ、ほかに気になることとかはなかった?」

 研磨くんは訝しげな表情のまま続けて問うてきた。
 そういう研磨くんこそ、何か気になっていそうな雰囲気だ。あの子と鉄朗のこと。正直あの日のことはあまり思い出したくないのだが……そういえば、まだ話していないことがあった。

「……なんか、浮気相手がどうこう? わたしが鉄朗の浮気相手? みたいなこといわれたかも」
「………はー………うん。なるほどね。それで大体わかった」
「え?」
「まあ、他人が口出す問題じゃないとは思うんだけど……なまえさんはもうクロの彼女だし、他人じゃないからね」

 つまり、どういうことだろう。
 研磨くんは私の知らない何かを知っていることは確かだ。
 そもそも私は、鉄朗についてまだほとんどのことを知らない。好きな食べ物ですらほんの最近知ったばかりである。
 まだ出会って三ヶ月ほどだし、その間毎日会っていたわけでもなければ、連絡も基本用事がある時にしかしていない。ただ、互いを想いあっていることだけは確かだ。むしろそれさえわかれば後はどうにでもなると思っている。
 しかし、どうやら研磨くんにはどうしても私の耳に入れておきたい話があるらしい。

「俺、実はあの子から相談受けてたんだよね」

 ──クロの元カノ、俺の部活の後輩だし。
 研磨くんはそう続けた。

 ああ。言われてみれば、確かにそうだ。私はその事実を知るための情報をすでに持っていたはずだ。
 研磨くんと鉄朗は幼馴染で、中学も高校も同じ部活だったと聞いている。そして鉄朗はあの子の部活のOB、つまり研磨くんの言うように、研磨くんとあの子は同じ部活に所属している先輩後輩の関係にあったということになる。以前、鉄朗と三人で話したときはあの子の話題など一切出てこなかったから、まるで考えもしていないことだった。

「そ、それは、つまり……あの、鉄朗が?」
「それはない。わかるでしょ? クロは浮気なんかしない」
「……いや、まあそうだよね」
「むしろ浮気したのは彼女の方」

 ──は? と渇いた声が漏れた。
 同時に、研磨くんの目色が変わった。期待というよりは、なにかを懇願するかのような眼差しだ。心臓を鷲掴みにされるような圧迫感がある。さて、私の脳内は現在混迷を極めている。
 何。あの子が浮気してたって? それじゃあ、まるであの二人への認識が変わってくるじゃないか。

「待って。それじゃなんで彼女の方が鉄朗の浮気を責めるようなこといったの」
「流石にそれはわからない。でもクロは彼女とスマホのパスコード共有してたから、そのへんでなんか誤解があったのかもね」
「……は? え、な、なにそれ」
「だよね。普通引くよね。俺もそれ知ったときはゲッて思った。……まあ一応フォローしとくと、クロが望んでそうしたわけじゃないからね。納得はしてたみたいだけど」

 それを聞いてとりあえずホッとした。いや、研磨くんのフォローがなかったら危なかった。私は独占欲こそ死ぬほど強いけれど、互いのプライバシーを侵すような行為だけは絶対にあり得ないと思っているし、絶対にそんな事はしない。私がもし恋人からそんな話を持ちかけられたら全力で拒否するし、ごねられたら普通にキレる。キレて駄目なら別れる。
 しかしどうやら鉄朗はそうじゃなかったらしい。

「……それは鉄朗が優しいだけ? それともその彼女にだけトクベツ甘かったの?」
「特別だったのかな。わかんないけど。まあなまえさんが同じことしたいって言ってもクロは喜んでしそうだけど」
「いや無理ありえない。それだけは本当にない」
「俺もそう思う。まあそれこそ二人の勝手だから口は出せなかったけどね」
「……ああ、研磨くんも鉄朗も優しいね。わたしもし自分の幼馴染がそんな事強要されてたらソッコー別れを促しちゃうと思う」

 研磨くんの目が僅かに見開かれた。私の言葉に少し驚いたみたいだ。
 それにしても私、何だかとんでもない男に惚れた気がする。

「……鉄朗ってさ、ほんと不満とか悪口とか一切言わないひとだよね」
「うん。……まあ、ああみえて結構人見知りだしね。言いたいこと我慢する癖はあるかも。たぶん本人は我慢とすら思ってないけど」
「ていうか優しすぎて付き合う女の子みんなメンヘラになりそう。そういうわたしもいつかなりそう。てかもうなってるのかな」
「もともと面倒見もいいからね。でも俺的にはなまえさんもクロと同じようなタイプに見えるけど」
「いや全然そんなことない。いつも言いたいことギャンギャン吠えてるよ。あの人すぐからかってくるし」
「……なんか「そういうとこもギャップがあって可愛い」とか思ってそう」
「…………思ってそう」

 鉄朗の声が脳内で響いた。いつか言われた事があったかもしれないと思うくらいリアルだった。
 話が逸れつつあるが、とにかくあの子が浮気をしていたという事実には驚愕した。でもそれについて研磨くんが相談を受けていたとはどういうことなのだろう。私は二杯目のアイスコーヒーのストローをくるくると回しながら思考に耽る。今度はなかなか減らず、氷が溶けてかさが増している。研磨くんとの会話に夢中になっているからだ。

「あの子、なんで浮気なんかしたんだろう」

 ふいに口からこぼれ落ちた。その言葉を拾ったのか、研磨くんは「うん」とだけ頷く。ただの相槌にしては深刻そうな面持ちで、研磨くんは目線を下方に向けていた。
 そんなタイミングで、焼きたてのアップルパイが運ばれてきた。とっても香ばしく良い香りがするが、研磨くんはそれに手をつける様子がない。あんなに楽しみにしていたのに。
 それよりも大事なことがあるのだと言わんばかりに、研磨くんは思考を始めていた。数十秒ほどの沈黙は、今日あった中で一番長く感じた。私は研磨くんとアップルパイを交互に見やり、おもむろにストローを咥える。氷が溶けて、コーヒーの苦味がやや薄まっていた。

 そして、ようやく研磨くんは動いた。
 意を決したようにとか、決してそんなこともなく。

「俺はもう二度と、あんな風にクロに傷ついてほしくないんだよね」

 ただ淡々と、感情乏しく、研磨くんは話し始めた。

「これはなまえさんだから話すんだけどさ」

 角のない声は鼓膜を優しく震わせる。それ自体は心地よさを感じるほどに凪いでいるのに、内側から染み入るような不安感が拭えない。
 一体、私になにを話そうというのか。

「……彼女が浮気したって知って、クロ、すごい辛そうだった。見たことないくらい落ち込んで、彼女が浮気したのも俺のせいだって。そんなわけないのに。ずっと自分のこと責めてた。……おかしいよね? クロは本当に仕事頑張ってただけなんだよ。それが小さい時からの夢だったんだ」

 研磨くんは胸に詰まった何かを吐き出すように、つらつらと語り始めた。
 これは単なる研磨くんの気持ちで、私に意見を求めているわけじゃない。ここで口を挟むべきではない。いまは彼の言葉を一つも取りこぼさないように、その声だけに意識を集中させる。

「俺がいくら言ってもダメなんだ。クロは元からそういう奴だから。大事な彼女を傷つけてまで、自分の主張を通したりしない。でも、今の仕事はクロの人生みたいなものだから、それだけは絶対に諦めて欲しくなくて。障害になるものは全部無くした方がいいと、俺はずっと思ってた」

 私は研磨くんの話を聞きながら、鉄朗と初めて一緒に飲んだ日の会話をふと思い出していた。彼の仕事への熱意を聞いて、はっきりと心が震えた。当時の記憶が明瞭になっていく。無邪気に弾む口調、時折り哀愁の浮かぶ瞳。鉄朗は、あの時もきっとずっと悩んでいた。私はそんな彼に、気の利く言葉ひとつかけてあげられなかったと思う。
 本当に、最低だ。知らないことは罪だ。「彼は何も言わないから」と理解していたのなら、もっと聞き出す努力をしなければならなかった。鉄朗があの子に傷つけられていたなんて、考えもしなかった。それなのに、私は。

「だから、俺が別れるように唆した部分もある」

 カラン、とグラスの氷が溶け落ちた。
 その音を境に、周りの空気が一気に冷えていく。そんなものは私の錯覚に違いないが、呼吸を忘れ、研磨くんに見入っていた。
 彼は目の前にあるアップルパイにさく、とフォークを突き刺して、視線を下げている。

「あの子の不安をわざと煽って、一度クロから離れてみるように助言した。それでまさか浮気するなんて流石に思わなかったけど、結果的に二人の関係には綻びが生じた」

 語り口は先ほどと変わらないのに、とても恐ろしいことを告げられている気分になった。けど、その根底にあるのは、紛れもない鉄朗への思いやりだ。愛情にも近しい。
 ならば、この人も私と同類だ。

「あとは、クロにとっても決定的な何かがあればよかったんだ」

 ぱち、とふいに目が合った。
 互いに逸らさなかった。

「クロがさ、自分から初めて好きになった人なんだって。俺にそんなこと言ってきたのも初めてだったよ。なまえさんなら絶対に大丈夫だって。普段はそんな根拠のないこと言う奴じゃないのに」

 研磨くんの言葉に、私はどう返せばいいかわからなかった。ただ黙って、ひとつひとつ理解していくしかない。他人の言葉を介しても、鉄朗の愛は私の心を侵食していく。もう、たまらない気持ちだ。推しの前で、こんな所で泣いてしまう。

「なまえさんは、絶対にクロを裏切らないよね」

 これは脅迫だと思った。
 まさか示し合わせたのかと思って、この空気には全くそぐわない笑みが溢れた。やっぱり二人は似ている。そしておそらく、私と研磨くんもだ。
 研磨くんが私に今の話をしたのは、この言葉で縛りつけるためだろう。でも、私にとってはただ心地よいだけの信頼だ。鉄朗のことをこんなにも思う幼馴染からの後押しに、励まされる以外はなにもない。

「わたしは鉄朗のこと傷つけたりしない」
「うん」
「鉄朗のわがまま全部聞いて、言いたいこと言わせて、もし喧嘩になったらわたしが折れる。鉄朗がわたしを裏切らない限り、わたしが鉄朗を裏切ることは絶対にない」
「……そう。じゃあ」

 研磨くんは、頬をゆるりと綻ばせた。
 
「このことは、俺との秘密ね」

 そう言って、彼はようやくアップルパイを口にした。どうやらお気に召したらしい。ざく、ざく、と生地がフォークで刻まれていく。美しい網目がぼろぼろと崩壊して、研磨くんの口元にどんどん運ばれてゆく。

「今日会ってたことも秘密?」
「クロのこと嫉妬させたいなら言えば」
「そんな、無責任」
「なまえは俺に責任とってほしいの?」

 なんていやらしい言い方だ。呼び捨ても絶対にわざと。このタイミングで正気を取り戻してしまい、私は推しの攻撃に耐えられず、情けない赤面を晒すハメになり、研磨くんは悪どい笑みを浮かべていた。

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