隔てなく触れる肌の温度が混ざり合うのが心地よい。とても離れがたくて、時間が流れていくのが惜しかった。水面が揺れる音と互いの発する声だけが、薄明るい浴室にこだまする。自由に身動ぎできないくらいの狭苦しい空間なのに、このままずっとここにいたい。
 濡らさないように纏めた髪が、湯気で湿りを帯びてきていた。頭は少しぼんやりとしている。軽くのぼせているのか、なんだか酔っている時みたいだ。喉が渇きを訴えて、額にはちいさな汗粒が浮かぶ。心臓がいつもより早く震えていた。

「そろそろ出ようか」

 そんなタイミングで、鉄朗は私を外に連れ立とうとした。さすが目敏い。明らかに、私の様子に気づいている。

 今日は一日中ふたりで一緒にいられる。そういう約束だ。お風呂を出たらゆっくりと朝ごはんでも食べようか。出張帰りの鉄朗の家の冷蔵庫はほとんど空っぽみたいだから、私の家に連れて行って一緒に何かを作ってみるのも楽しそう。キッチンに並び料理をしながらイタリア出張の土産話を聞いたり、昼になったらワインを空けて贅沢の限りを尽くすのもいい。そういえば、以前店主からもらったヴァーゼン/ハウスをまだ空けていなかった。きっと今日こそ、あれを飲むに相応しい。

 このあとの過ごし方はいくらでも想像できた。どう転んでも、きっと素敵な一日になる。
 そう思うけれど、身体はここから動こうとしない。

「んーもうちょっとだけ」

 鉄朗の胸に背と頭を預けたまま、私はわがままを言った。すぐそばにある体温を、そう簡単には手放せない。

「でも顔、赤くなってる」

 鉄朗が上から顔を寄せてきた。鼻先がこつりと触れ、至近距離で見つめ合う。
 昨日の夜セックスをしたときも、こんな風に視姦された。色素の薄い目に瞳の奥まで覗かれて、瞬きを忘れるほど夢中にさせられた。
 みるみる蘇る記憶に疼く。全身の熱が中心に集まっていく。湯にあてられて火照る身体は別の意味で興奮してきたけど、そんなことまで悟られるのはさすがに恥ずかしい。
 鉄朗はまるで幼い子どもを見るような愛しい目をしていた。そんな目をされたら、お湯と一緒に溶けてしまいそうだ。ただでさえ素敵なひとなのに、私のことを好いてくれていると思うと、よりいっそう深く陶酔してしまう。

「……出たくない」
「なんで?」
「ここがいい」
「でもさ、ちょっとあつくない?」
「まぁ……うん。あついけど」
「なんで無理すんの」
「んー……」

 わかんない。
 それきり瞼を伏せて、うやむやに濁した。別に無理してるってほどじゃない。私ってばいま超幸せだし、動くのがめんどくさいし、とにかくわがままを貫きたい気分なのだ。
 鉄朗はウーンと唸った。呆れているわけじゃなくて、たぶん私をどうやって甘やかそうか悩んでいる。自分だけさっさと出ることもないし、遠慮なくもたれかかっている私の身体を無理やりどかそうともしない。それどころか、長い腕をにゅっと伸ばして浴室の扉を少し開けてみたりして、私がこれ以上のぼせないように気遣ってくれたりする。

 知れば知るほど完璧だ。この男って素でこうなんだろうか。ずっとこんなふうに、容赦なく、あらゆる女を虜にしてきたのだろうか。モテてモテて仕方のない人生を送ってきたのなら、これだけ余裕があるのも頷ける。

「……鉄朗ってさ、ほんとやさしいよね」
「ま、それだけが取り柄なもんで」
「そんなことないでしょ」
「そう? んーじゃあ、なまえは俺のどこが好き?」
「んー……好きじゃないとこない」

 うまい誘導にぽろっと惚気させられた。あまり考えずに答えたせいで適当な返事に聞こえたかもしれないけど、本当にそう思うのだから仕方がない。

「あ、俺も。なまえのそーゆとこダイスキ。デレデレしないのにさらっと惚気るとこ」
「……え? デレデレはしてる」
「え、してんの?その感じで?」
「してる。……それこそ鉄朗はあんま変わんないね。初めて会った時からこんな感じ。会うたび口説かれてるみたい」
「あ、やっぱそう思う?」
「……ちがうの?」

 鉄朗にしてはめずらしく曖昧な答え方だった。少し気になって、目をぱちくりと開ける。

「俺的には人によって態度変えてるつもり。ま、確かになまえには最初っからこの感じだったかも」
「最初からって」
「気に入られたかったんだろうな。俺はなまえのこと前から知ってたし……まあ、正直かなりタイプだったし?」
「……じゃあ、普通に下心はあったんだ」
「そりゃあるでしょ。なかったらあんなタイミングで飲み誘われてノコノコついて行かないよ俺」

 言われてみればそうかもしれない。あの時私は良かれと思って声をかけたが、思い返せばあのタイミングで誘ってくる女なんて、むしろこっちから下心を晒しているようなものだ。あれで断られていたらと思うと相当恥ずかしい。勢いって大事だけど、一歩間違えたら怖いことだ。

「だから飲んだ帰りにキス拒まれて俺スゲーびっくりしたんだよね」
「まあ……普通いけるって思うよね」
「ま、あの時もしカラダから始まってたとしても、俺はなまえのこと必死で落とそうとしただろうな。結果的に健全な流れにおさまったけど」
「あれ? 健全ではなくない?」
「初めてキスしたときはもう両思いだったじゃん。健全だろ」
「……まあ。自信満々ですこと」
「ちがうの? 俺はなまえにキスされた時はもう好きだったよ。……まあ残念なことに名前を間違われたりしましたケド? あの時はすげー傷ついたわマジで。俺ってば家でシクシク泣いたもん」

 泣いたは絶対嘘だろう。ていうかもうネタにしてきたなこの男。冗談混じりに言ってはいるけど、絶対ちょっとくらいは傷ついたはずなのに。私も引くほど泣いたのに。
 というよりも、鉄朗がその時点でもう私を好きだったというのは初耳だ。私からすればいったい何をどう好きになったのかと甚だ疑問に思うのだが、かくいう私も鉄朗のことをどのタイミングで好きになったのかは良くわからない。今となっては好きなところばかりだし、そもそも殆ど一目惚れのような気がしている。

 そこでふと、鉄朗の言葉を思い出した。
「身体から始まる関係も、俺は悪くないと思うよ」と彼は確かに言っていた。
 当時の私はその言葉を嘘だと決めつけていたけれど、仮にもし順序が逆になっていたとしても、私と鉄朗は今のように上手くいっていたのだろうか。さっき鉄朗が言ったように、結果的に私たちはギリギリ身体から始まらずに済んではいる。
 まあ、結局、鉄朗次第だったかもしれない。私はどちらにせよ、この男に惚れざるを得なかったと思うから。

「……その節はごめんなさいマジで。もう忘れてください」
「無理。あんときのなまえちょー可愛かったし。「キスする?」ってあのあざといヤツは絶対忘れない。あれでキスしない男はいない。何ならお持ち帰り確定だったね。逃げられたけど」
「もうほんと無理やだ忘れてお願い」
「……あ。でも今ならものすごいエッチなちゅーしてくれたら忘れられるかも。どうする? してみる?」
「……あらそう。じゃあ忘れなくていいから一生傷付いといて」
「うーわ辛辣ぅー」
「今のはぜったい鉄朗が悪い」
「だってちゅーしたいし?」
「……ふーん。すれば?」
「冷たッ。するけど」

 ──ちゅ。と、ほんとにキスをされた。
 さらに唇だけでは飽き足らず、首筋や米神、耳朶や肩など、身体中を齧るみたいに食い尽くされていった。ただ一つだけ、びり、と皮膚が痺れた所があった。シャツを着て見えるか見えないかの、うなじの絶妙な位置だ。そこに、たぶんキスマを付けられた。「すれば?」と強気に出た手前、私はスンと大人しくしている。
 すると鉄朗は愉快そうに喉を鳴らし、私の耳裏に口を寄せた。

「これ、怒らねーのな。もっとしていいってこと?」
 
 ……あ、駄目だ。これ以上ここにいたら何もかもがふやけてしまう。いよいよ身体が火照って耐えられない。
 鉄朗からの愛撫を無理やり断ち切るように、ざばん! と波を立てて思い切り立ち上がった。勢いが良すぎてふらりときたけど、なんとか持ち堪えた。

「……っ、もう出る」
「あ、逃げた」

 素っ気なく声を掛けて、私は鉄朗を置いてさっさと風呂場を出た。脱衣所に用意してくれていたバスタオルを頭からばさりと被る。頭がクラクラした。どうやら本当にのぼせていたらしい。

「なまえは結構ウブだよね」

 鉄朗はすぐに私を追いかけて、浴室から出てきた。鉄朗はバスタオルごと私を後ろから抱きしめた。濡れたまま冷えていく身体を、その体温で包み込んでくれる。

「……誰に向かっていってるの?」
「なまえだけど? もっと甘えて欲しいなって思ったら、すーぐ逃げる」

 常々思う。この男相手に正気でいられる女、おそらくこの世に存在しない説。これは惚気じゃない。ただの事実だ。
 とうとうひれ伏せ、何も言い返せずにいると、ふっと鼻で笑われた。今日も今日とてこの男のペースだ。甲斐甲斐しく身体を拭かれ、髪を拭かれ、Tシャツを上から被せられる。
 その時の匂いでわかった。これ、私の着てた服じゃない。私の身なりをある程度整えた後で鉄朗は自分の服を着ながら、何気なく私に言い放った。

「今日はそれ着て過ごして」

 形は半袖でも、肘の下までたっぷりと隠れている。丈は膝より少し上くらいだ。
 ……まあ、あれだ。鉄朗も案外俗っぽいところがあるらしい。私は正直、ものすごく複雑な心境である。

「これはなんかもうさすがに駄目」
「ダメじゃない。惚れ直した。可愛すぎてもう今すぐ抱きたい」
「……いま、お風呂入ったばっかでしょ」
「じゃあさ、せめて写真撮らせてくんない?」
「は? 嫌だよ。すっぴんだし」
「頼む。最悪顔は隠してもいいから」
「なにそれ。風俗のパネルかなんか?」
「は? おい。あんま興奮させんなよ」
「今のどこに興奮した?」

 鉄朗の攻撃が止まらない。そもそも私、こんなキャラじゃなかったはずだ。
 絶対、彼が甘やかしすぎるせいだ。照れ隠しでどうしてもツンツンが加速してしまう。そして鉄朗はそんな私を面白がる。いつの間にか、そういう仕組みになっていた。

「いいからそのままでいて」
「いや、ふつーに今から家帰って化粧して可愛いかっこしたいんだけど?」
「すでにもう可愛いのに」
「わたしが思う可愛いになりたいの」
「それ以上可愛くなりたい理由は?」
「鉄朗にもっと可愛いと思って欲しいから」
「こんなにも思ってるのにまだ足りない?」
「わたしはものすごく欲張りなの」
「俺も。なまえの色んな姿が見たいと思って」

 互いにペラペラと良く口が回る。マウントを取り合っているみたいだ。
 私はたまに強い言葉を使ってしまうけど、鉄朗はいつも私を喜ばせたり、思い遣ったり、優しく慰める言葉しか使わない。意識的にそうしているのか、これが彼のスタンダードなのか。
 いったい、いつからこうなのだろう。

「……じゃあ、せめて化粧はさせて」
「それなら俺もなまえの部屋行っていい?」
「あ、うん。それは全然いいけど」
「おっし。じゃあその間に俺が朝メシつくるのは? 食材とキッチン借りていいなら」
「え、ほんと? それすっごい嬉しい。わたしも化粧終わったら手伝う」
「ん。ならそれで決まり」

 先ほど考えていた通りの流れになった。鉄朗と私の思考回路が繋がったみたいで、そんな些細な事にすら幸せを感じた。



***




「そういえば、鉄朗の好きな食べ物ってなに?」
「んー。おさかな」
「おさかな……は、ごめん。買ってないかな」
「ないかー」

 テーブルで化粧をしながら、キッチンに立つ男をちらちらと眺めていた。
 結局私は鉄朗のTシャツを着たままだ。鉄朗の家から私の家に移るとき、めちゃくちゃ気を張った。こんなはしたない姿、他の誰にも見せられない。とはいえ一瞬の距離だし鉄朗が完璧にガードしてくれたので、何事もなく事は運んだ。

 まあとりあえず、部屋を片付けていたのは幸いだった。冷蔵庫の中身についてもかなり充実しているはず。それらは鉄朗の帰国に合わせて買い込んでいた食材たちだ。
 ただ、彼がお魚好きとはしらなかった。そういえば、互いの好物の話なんてした事がない。割と深いところまで話をしたのは、鉄朗の仕事の事くらいだろうか。
 何度か一緒に飲みはしたけど、ろくに食事もせずデートもせずで、よくぞまあこんな関係にまでこぎつけたなと我ながら思う。「運命」とかいう寒い言葉を使って語る気はないけれど、この出会いで様変わりする心はあった。また一人の人を愛せるなんて、鉄朗の存在がなきゃ、この先わからなかった事だと思う。

 まあそうは言っても、鉄朗についてまだまだ知りたい事がたくさんあることも事実だ。今日はちょうど良い機会に恵まれた。まずは鉄朗の好きなものを共有しつつ、私のことも知ってもらいたい。
 おさかなおさかな……と頭で呟きながら、右手ではブラシでファンデを伸ばし、左の指ではスマホを操作する。目的の画面に到達して、DMのアイコンをタップした。

「夜はお寿司にしようか」
「へ? なまえが握んの?」
「まさか。それはさすがに無理。食べに行こーよ。前んとこじゃなくて、この近くにも美味しいとこあるから」
「へえ。それってなまえが良く顔出す店?」
「あーうん。割と良く行くかな。気軽な店だから一人でも入れるし、そこも常連が多いイメージ」
「そう。じゃあ行く」
「じゃあ、って」
「あー……いやいや。なまえの知ってるとこなら美味いに違いないしさ」
「……うん。そりゃあね?」

 なんか煮え切らない返事だ。それに、誤魔化された気がするのは気のせいだろうか。
 ただ、鉄朗は「おすしおすし〜」とご機嫌に鼻歌なんか歌い出したので、それ以上この話題は続かなかった。まあ、楽しみにしてくれてるなら別にいい。
 すぐにDMで店の予約を取った。そこでふと思う。今の今まで意識していなかったけど、店に行けばきっと、知り合いたちに鉄朗を紹介することになる。だって、三年かぶりの彼氏だ。この辺りの住人とはもう五年以上の長い付き合いになる人もいたりして、それはそれでなんか小っ恥ずかしいような気もする。

 彼氏、彼氏か。鉄朗ってもう他人から見ても私の彼氏なんだもんな。と当たり前のことを再確認した。店でしょうもないことを聞いてくる人がいなければいいけど、鉄朗はそういった下世話なトークも軽々と乗りこなしてくれそうだ。

「なまえー。朝はご飯とパンどっち派?」
「あー……鉄朗の作りやすい方で」
「ん。りょーかい」

 鉄朗の彼氏力について様々な妄想を膨らませながら眉を描いていると、ご飯のリクエストを聞かれた。彼の料理の腕はまだ知らないが、手広くなんでもこなしそうだ。どっちにしろ楽しみなので、私はほとんど迷う事なくそう答えた。
 魚が好きということは、なんとなく和食が出てくるような気がした。一体何を作ってくれるのだろう。キッチンにいる鉄朗が動くたびに気になって、私も手伝いに行くべきなのに、なかなか化粧を進めることが出来ずにいた。
 鉄朗も鉄朗で、何故かこちらをチラチラとうかがってくる。私が鏡から視線を上げるたび、視線がばっちりとかち合うのだ。
 そんな片手間に料理ができるなんて、よっぽど手慣れているらしい。レシピなんかを逐一確認している様子もない。私より上手だったらちょっとだけ複雑だけれども、料理ができる男ってだけで素晴らしいことこの上ない。本当にどこまでも完璧なひとだ。ついにはニヤけてしまう。

「なまえー。コチラは気にせず可愛くなってて」
「鉄朗こそ、あんまこっち見ないで」
「いや俺、女の子が化粧してるとこ見んのなんか好きなんだよね。それで気になっちゃって」
「……なにそれ。こっちは嫌だよ」

 正直、化粧をしているところなんてまじまじと見られて良い気はしない。遠目だからまあ許すけど。すっぴんを気にしていた頃がもはや懐かしい。
 ただ、今の鉄朗の発言は少し引っ掛かった。彼にしては、珍しく油断した発言だったように思う。厳しくジャッジするならば、今のは失言に値する。

 眉用のブラシを置く。肌と眉は仕上がった。残すところはアイメイクのみだが、──その前に。
 私は容赦なく、鉄朗に本音をぶつけていくことにした。

「わたしもさ、気になるついでに聞いて良い?」
「んー? なんでもドーゾ」
「あの子……元カノとあれから会ったりした?」

 ──ガシャン!!!!
 と、ステンレスの調理器具が鳴り合うような激しい物音がした。たぶん、ボウルかなにか落としたらしい。たったの一言で思いのほか激しく動揺されてしまい、私も驚いて椅子から立ち上がる。

「え、ごめん。ちょっと、大丈夫?」
「……ちょ、何、いきなり、そんな」

 あの子の事が気になっていたのは本当だが、別にいま口にするつもりはなかった。ただ、鉄朗が元カノを匂わせるような発言をしてくれたものだから、ついついポロリと出てしまったのだ。ほんの、軽い意地悪のつもりだった。
 しかしその反応を見るに、これはキチンとお話をする必要がある事らしい。
 珍しく歯切れの悪い返事をする鉄朗に、私はにこりと微笑みかけた。

「なんかあったんだね」

 つとめて明るい調子で言った。鉄朗はあー、とかんー、とか唸っている。やはり思い当たる事があるらしい。
 強く問い詰めたりする気は全くなかったので、変にプレッシャーをかけないように配慮をしたつもりだったのだが、鉄朗はそれを曲解してしまったらしい。頼んでもないのにそそくさとキッチンから出てきて、私の目の前に姿を現した。が、その割にちっとも目が合わない。見たことないくらい動揺している。そのせいで、私も真剣にならざるを得なかった。

「……いや、ほんと俺からは一切連絡とってないし、会ってもないし、未練とかもない。マジで」
「……なるほどね。彼女から連絡あったんだ。なんて?」
「……あ、ハイ。その……会いたいと……何度か連絡がありましてデスネ……その」
「ふーん。会わないの?」

 鉄朗はカタコトになっている。最初は回りくどい言い方をしたが、嘘は言ってなさそうだ。
 まったく何をそんなに怯えているのか。別にやましいことはなかろうに。私は鉄朗を信じているし、いつもと変わらないトーンで話している。ただ、それが逆に鉄朗の不安を煽るらしい。感情を乗せすぎないよう意識しているのがむしろ、冷たく感じて良くないのだろうか。

「……まあ、会う必要はないかなーと」
「でも、彼女は少なからず鉄朗に未練があるってことだよね」
「あー……それは、たぶん?」
「じゃあ、わたしはむしろ会ってきて欲しいかな」

 未練。たぶん、ありまくるだろうな。鉄朗がどう感じているかは知らないが、私にはわかる。こんな男、簡単に手放せるわけがない。その気持ちがよーくわかる。それに向こうはなんせ五年だ。こんなこと思いたくはないが、将来を見据えていた可能性だってある。
 ただ、あの子に申し訳ないだとか、悪いがそんな気持ちは一切ない。私だってもう手放せないし、返す気もさらさらない。悪者になったつもりもない。
 だからこそ、あの子に会って来て欲しいと思った。会って、私のことをすべて話して欲しい。未練など抱くだけ無駄だと突きつけて、ちゃんと私のところに帰ってきて欲しい。

 明るかった思考がどんどん薄暗いものに飲み込まれていく。ドクドクと心臓が騒めいて、嫌な気配が迫ってくる。
 私はそこであえて鉄朗の方から目を逸らし、鏡を片手に再びアイメイクに取り掛かかった。

 細かいパールの散りばめられたベース色を瞼に落として、ぱちぱちと目を瞬く。
 睫毛は天に向かって完璧なCカールを保っている。目尻にかけて長さを少しずつ出してゆき、表情が柔らかくなるように、垂れ目を演出してもらったのだ。
 ……そういえば、あの子の目元もやや垂れ気味だったことを思い出す。全く余計な記憶だ。
 栗色の大きな二重目と、やや厚みのある愛らしい唇。決して派手じゃないのに、はっきりと人目を引くような甘い顔立ちの若く美しい女の子。黒尾鉄朗が、五年をかけて愛したひとだ。

 ブラシを持つ手が、ぴたりと止まる。
 もう、うやむやにして気を逸らすのは無理だ。ここまで考えてしまえば、すでに手遅れだった。

「……未練とか、残したままだとさ」

 独り言みたいにおざなりな声を吐き出してから、ふぅ、と息を整える。
 鏡で自分の顔を確認した。
 大丈夫。なにひとつ歪みはない。ただの無表情が映ってる。
 ここで表情を変えてはいけない。感情任せになるのは絶対に駄目だ。

「わたしみたいになっちゃうかも」

 これは決してあの子を気遣ったわけじゃない。根底にあるのは剥き出しの独占欲だ。

「鉄朗のこと信じてるよ。だからちゃんと会って、お別れしてきて」

 震えずに淡々と言えても、笑みを取り繕うことはできなかった。
 私の願いなんて、口には出せないほどに悍ましいものばかりだ。この激情を彼に伝えるに相応しい語彙はおそらくこの世に存在しない。少しずつ、少しずつ、気づかないくらいの濃度で、漂う空気感に馴染ませていくしかない。

 固まっていた手を再び動かした。
 くるり、くるりと筆で瞼を塗る。発色の良いラメは眩しいほど美しいのに、目色は暗く濁っている。この話を持ちかけたのは自分のくせに、惨めすぎて笑えもしない。
 鉄朗からの返事はまだこない。反応はなくとも、視線はずっと刺さっている。彼の意識はいま、思考の海の中にあるだろう。きっと私のための言葉を考えている。できる限り思いやり、決して私を傷つけない。この場に最適な答えを探している。そういう男だ。
 それだといつまでたっても本音が見えない。だからせめて私だけは、彼に本音を隠してはいけなかった。
 
「あんな終わり方じゃ不安だもん。わたしも、たぶんあの子も」

 完全な終わりを求めて教唆する。あの子の未練を殺めてくれるなら、どんな手段でも構わない。ぴん、と空気が張り詰める。
 鉄朗が口を挟まないから、私は何も制御できなくなっていた。



「わたしのために、ひどい男になって」

 二人だけの静かな部屋に、その言葉はいやに大きく響いてしまったように思った。
 ハッとして、思わず鉄朗の方に向き直る。ぼたりと重たく落下した声はもう元には戻らず、じわじわと空間を侵食し、少し遅れて鉄朗の耳にも届いたようだ。

 暫く時間が経ったのち、彼はふとその目を細めて、笑った。
 心臓が、どくんと音を立てて騒いだ。

「なまえ、そんな顔しなくて大丈夫。不安にさせてごめんな」

 私は言葉を間違えたはずなのに、鉄朗はそれを事もなく、笑って受け止めた。
 身勝手は重々承知の上だ。けれども、私はなんとかこの胸にこびりつく残滓を払拭してしまいたかった。本当にそれだけだ。責める気なんかない。鉄朗に、そんなことを言わせたかったわけじゃない。

「……鉄朗、わたしこそごめんね。いまのは忘れて」
「なんで? 今のがなまえの本音だろ」

 その表情は嘘みたいに穏やかだった。憑き物が落ちたとでも言えばいいのだろうか。妙なことだ。言った私の方が、不安気に顔を曇らせている。

「……鉄朗、怖くない?わたしのこと」
「怖いわけない。むしろ、もっと愛してくれていい」
「……これを愛なんていうの?」
「愛でしょ。俺がそう思うんだから」

 鉄朗の手が、私の頬を包み込んだ。私が傷つく立場じゃないのに、胸が苦しくてたまらない。

 彼の愛してきたひとと、その愛し方。
 その経験から得たすべてを私との記憶で塗り替えたい。できるなら、誰かを愛した記憶そのものを消し去りたい。
 誰かのつくりものみたいな完璧さを剥がして、鉄朗のことを丸裸にして、ゼロになってそれから、全部私のものにしたい。
 一体いつからこんなにも欲張りになってしまったのだろう。鉄朗は惜しみなく愛情を注いでくれるのに、それじゃまだ足りないと喚いてしまう。一つ残らず手に入れるまで、この心は満たされてくれないらしい。

「なまえ。泣かないで」

 愛は必ずしも幸せな関係に結びつくものではなく、時として人を縛ることがある。
 相手が去っても愛が冷めないまま、放っておかれる立場を私は知っている。現状を知るよりもっと残酷なことだ。知らないままでは外へ飛び立てない。過去にしかない思い出に、ずっと惨めに縋り付いてしまう。
あの子がそうならないよう、
糸を完全に断ち切るのだ。
鉄朗が、私にしてくれたみたいに。

 ぼろぼろに、ずたずたに、ぐちゃぐちゃにして。解けた糸がもう二度と、結ばれたりしないように。

「それに、俺はもとから酷い男だよ」

 それがどういう意味かまるでわからなかった。そんなわけがない。もとから酷い男に「ひどくなって」なんか言わない。あなたは完璧なひとで、酷いのは私の方。出会ってから今まで、ずっとそうだ。

「絶対ちがう」
「違わないって」
「違う。鉄朗はこの世で一番すてきな男」
「じゃあ、この世で一番いい女のなまえがいうならそうなのかも」

 そうだよ。と半ばムキになって言い返せば、鉄朗は安堵の表情を浮かべていた。私は泣いたせいでメイクが滲んだ。

「やっぱり、今日はふたりでいたい」
「もちろん。お寿司はまた今度」

 そんな我儘も、鉄朗はむしろウェルカムとばかりに受け入れた。

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