キレーな人。
 いかにも東京人っぽい。

 初めはそんな印象だった。ライトベージュのパンツスーツが細身の身体に良く似合っている。女性にしては高身長で細いヒールを足先に纏い歩く姿勢は、スラリと伸びていて美しい。ラフに巻かれた暗い色の髪にすら何やら洗練された魅力が宿っている。出勤時や帰りの道すがら、彼女の姿を見かけることは何度かあった。見かけるたび、俺は一方的に彼女を見つめていた。

 例えば街で自分好みの異性を見かければ、自然と視線はそこへ誘導されていく。男も女も関係ない。物であっても人であっても、恋人がいてもいなくても、興味があれば見てしまう。そこに特別な感情や理由はなくいわば条件反射的なものだ。下心というほどじゃない。無論、相手が不快に思うようなことがあればまた話は変わってくるが、気付かれていない程度であればとくに問題はないだろう。一歩間違えればストーカーだとか、決してそんなやましさはない。
 ただ、自分がその人に興味を持ち始めているのは事実だった。おそらく自分と同じくらいか、一つか二つ年上の女性。毎朝だいたい同じ時間に家を出て、皺ひとつないスーツを身に纏っている。あれが世間でいう"バリキャリ"ってやつか、といつも感心していた。自分の職場にも女性はいるが、あれほどのオーラがある若い女性は見たことがない。彼女はいったいどんな仕事をしているのかと考えを巡らせた事もあった。

 そんな「気になるひと」と初めて顔を合わせたのがちょうど、恋人と初めて喧嘩をした二月初旬の金曜日のことだ。よりにもよって最悪のタイミングだった。恋人との修羅場。そんな場面に、そのひとはふと俺の目の前に現れたのだ。
 彼女は最初こそ迷惑そうに眉を顰めていた。こちらが迷惑を詫びれば途端に困ったような顔つきになって、言葉を詰まらせていた。見た目から想像していたよりずっと柔らかい声をしていたのが印象に残っている。ただ気になったのは、単に週末だったからかそれとも特別その日が激務だったのか、彼女の姿が見るからに疲労困憊という様子だったことだ。今よりさらに困らせてしまうだろうかとは思ったものの、勢いで声をかけてしまった。
 疲れた時には甘いもの。学生時代と比べて、それを口にする機会が増えた。京都へ出張に行っていたという上司から頂いた手土産の存在をふと思い出し、もっともな理由をつけて彼女に渡した。ただ、隣人とはいえ得体の知れない男から渡された食べ物など、警戒心の強そうな彼女は口にしないかもしれない。あの有名店のバームクーヘンが彼女の胃におさまってくれたのかは定かではないが、受け取ってくれただけでもまあ及第点か。そう自らを納得させていた。

 そんな彼女との再会は意外にも早く、その次の週の金曜日だった。
 奇跡だと思った。また会えたことに自ずとテンションが上がったのか、何も考えずに声をかけてしまっていた。彼女が自分の名前を覚えていてさらには呼んでくれたこと、そして先週とはまるで別人のような表情の変化に心底驚いた。
 求心力、とでもいうのだろうか。彼女はとにかく人を惹きつけるような話し方をする女性だった。ほぼ初対面に近い人間にも臆することなく自分のペースでモノを言うし、それでいて相手への気遣いも忘れない。話をするたび内面まで磨かれた美しさが溢れてくるようで、気がつけば彼女の表情や仕草を夢中で追いかけていた。連絡先を交換してすぐ、彼女からメッセージをくれた。言葉は何もない。ただ、彼女が好む店の情報を一方的に送りつけられただけのものを眺めているだけで、彼女の表情が浮かんできた。今思えば、恋をしていることに気づかないほど、その時の俺は彼女に酩酊していたのだと思う。

「こんなの、浮気じゃん」
 だから、その時は言われたことの意味もわからなかった。恋人とは互いにスマホのパスワードを共有し合っていた。別に俺は特別そうしたいわけじゃなかったが、恋人を安心させるために言われるがままのことをやったまでだ。他人からは「それは気持ち悪い」と揶揄され、幼馴染からは「それは愛情とはなんか違うと思うよ」と冷静に引かれていた。でも、恋人は人目を気にせず自分のために尽くしてくれる俺が好きだと言っていたので、応えてやれる範囲のことは応えていたつもりだった。
 浮気。それはどこからどこまでのことを言うのだろう。連絡先を交換し、会話もなく一方的なメッセージを受けたそれだけのことを浮気と言われるのであれば、例えばこの恋人が学生時代のサークルの男友達の家に何度か寝泊まりをしたというのは、浮気の内に入らないのだろうか。そんな事柄を全て知っていながら、今まで問い詰めてはこなかった。そうなったのは俺の責任だと思ったし、恋人に泣かれるのは嫌だったからだ。しかしそのおかげで、俺は随分鈍い男だと恋人の中では認識されていたらしい。自分のスマホを片手に詰め寄られて、俺は初めて恋人と自分の関係性を客観的に見ることができた。そこで恋人の不実を初めて口にすると、みるみる内に彼女は顔を青ざめていった。その瞬間、綻んだ糸がするすると解けていく音が聞こえた気がした。同時に、なぜだか酷く心が軽くなった気がした。ずっと抱えていたものを吐き出したからか、五年分の恋人への想いがどこかへ流れていったからか。どちらかはわからない。どちらもかもしれない。

 そして恋人と二度目の喧嘩をした。一度目は自分の仕事のことで恋人が不満を言い連ねてきた。仕事は社会人としての義務であり、そして自分が今、一番力を入れてやりたい事でもある。恋人にもそう説明を尽くしたのだが、どうやら言い方を間違えたらしい。完全に、火に油を注ぐ形となった。とうとう彼女の不満が爆発して、ああいう事態になったわけだ。
 二度目の喧嘩はもう取り返しが付かなかった。彼氏彼女という関係性自体が揺らぐような問題に発展したからだ。ただ、その時は本当に恋人を追い詰めるようなことをするつもりはなかった。別れを切り出すタイミングと思っていたわけでもない。しかしそのトリガーを引いたのは、紛れもなく恋人の方だった。「浮気」という言葉を出されて、むしろ裏切られた気持ちになった。必死にその言葉を押し留めてきた自分を嘲笑うかの如く、恋人は息でも吐くように簡単に口にしてみせたのだ。
 
 いつか終わる恋を、いつまでも終わらないと信じていた頃が俺にもあった。
 五年という歳月は長いというひともいるけれど、体感にしてみればそれは一瞬の出来事のように思えた。大学の時に結ばれた彼女とはこの先もずっと一緒にいるものだと何の根拠もなく感じていたのに、ふとしたことで綻びが生じ、繋ぎ直すどころかどんどん侵食していくその綻びをとうとう食い止めることはできなかった。一度手を離せば、緩まった糸はするすると簡単に解けていった。恋人の泣き顔をみるのは嫌だとあれだけ踏ん張ってきたくせに、最後だけはなぜか心が無になったように痛みもなにも落ちてはこなかった。
 これを心に穴が空いたというのだろうか。だとすれば、やはりあの子への想いは溶けて穴から流れてどこかへ消えてしまったのだ。こんなにもあっさりとした終わり方で。五年ってこんなものか。人の想いの強さってのは年月に比例するものではないらしい。神様はこんなに薄情な俺を許すだろうか。許しても許さなくても、一度解けた糸を結び直す自信も気概ももうない。もういいや、と全てを投げ出してしまいたい衝動に駆られて、一度は心を閉ざそうとした。

"よかったら黒尾さんも飲みに行きますか?"

 ただ。その声がいっそ乱暴なほどに脳髄を突き破り、角のない優しい微笑みが卑怯なほどに俺の心を鷲掴みにした。ここは大都会東京。長年住んできてわかったことだが、皆が自分自身に夢中で他人には無感情で冷たい人間が多いとされるこの都市においても、人情深いひとというのは一定数存在する。
 みょうじなまえ。初めてそのひとを認識したときは間違いなく前者側の人間だと思った。しかしなまえというひとは、良い意味で俺の想像を裏切ってくれた。聡明で知的で、けれども馴染みやすく砕けたところもあって、バランスの取れた大人の女性だった。近づけば近づくほど潔い隙があって、蕩けるほどに愛らしく、けれどその心根は揺るがない。これほどまでに気高く美しいひとはいないと思わせた唯一のひとだった。
 悍ましいまでの純情だった。初めて恋をした時みたいに浮き足立って、自分の言葉と表情と行動全てはこのみょうじなまえという女性のために在るべきだという錯覚さえ引き起こしていた。彼女を知ったその日から、自分の世界は一変したのだ。

 だから俺は、謝らなければならない。
 かつての恋人に、自分の不実を否定したことを。もう叶えてやれない言葉で五年も縛り付けてしまったことを。

「俺が幸せにする」 

 たった十文字つなぐのに必死だった。喉元にあるかのように激しく鼓動する心臓が、苦しくて苦しくてたまらない。
 なまえは不実な俺を知らない。だからまっすぐに俺を信じている。重ねるつもりはなかったのに、見た目は似ても似つかないのに、その素直な瞳の中にどうしてもかつての恋人の姿が見えてしまった。
 なまえが仮にこの先俺を裏切ることがあったとして、この手を離すことはもう出来そうにない。何も言わずに、何も知らないふりをして、自分が愛したままの彼女を見続ける。もう二度と同じ失敗はしない。彼女が疑いを持つようなことはしないし、不安になるような痕跡も一切残さない。自分が一途で在り続ける限り、彼女もそうだと思い込む。俺は彼女を疑わない。責めもしない。ただ何もかも赦し、愛を注ぎ続けるだけ。

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