瞼の裏が明るくなって意識をするすると引っ張られてゆく。やがていちばん上まで浮かび上がると、ぱちんとシャボン玉が弾けたように反射で身体が震えた。今しがた深い眠りから覚めてまた今日も朝を迎えたのだと感覚だけで理解する。なにかしら夢を見ていたような気がするが、内容はまったく覚えていない。
 ずしりと重たい瞼は閉じたまま。寝起きはあまり良くない方だが日々の仕事のおかげで早起きに慣れきった身体はいやでも覚醒しようとする。さて今は何時だろうか。スマホを取ろうとサイドテーブルに腕を伸ばすのだが、いつまでたっても手が触れない。何もない空間を右手がふわふわと彷徨っている内に、少しずつ頭と感覚が冴えてきた。

 ──ああ。そういえば、ここは私の家じゃない。そこでようやく昨夜の記憶を取り戻した。あと仕事、今日は休むんだった。

 素っ裸なのに掛け布団の中がむしろ暑いくらいに暖かい。背にぴたりと触れている体温がそうさせるのだ。腰からお腹にかけて腕が乗せられているのに気が付いてからは下手に身動きもとれずにいる。私はいったい、いつの間に眠ってしまったのだろう。最後にどんな会話をしたのかさえ思い出せないくらい唐突に寝落ちて、しかも起きたらすぐに朝なんて、初めてのお泊まりにしてはちょっと油断しすぎな気もする。というよりも、こんな状態のまま今の今までよく熟睡していられたなと思う。

「……てつろー?」

 恐る恐る出した声はほんの少し枯れていた。寝起きの身体は水分を欲しているらしい。声をかけても私の身体の上に絡む腕はぴくりとも動かない。寝息も全くといっていいほど聞こえない。どうやら死んだように眠っているらしい。
 まあ、半日以上かけてイタリアから戻ってきたばかりなのだ。疲労困憊は明らかなのに、やっかいな元彼を追い払い落ち込む私の相手をしてそのうえ立ち直らせて、まさかセックスまで済ませてしまうとは。本当に律儀というかちゃっかりしているというかこれはもう彼を何と称するべきかに悩む。果てにはピロートークまで完璧にこなしてみせた。
 眠りに落ちる瞬間はどちらが先だったのだろう。私は鉄朗の寝顔を見た覚えがないから、やっぱり私が先に落ちたのだろうか。眠気に侵され朦朧としている時の記憶なんて曖昧どころか消失してしまっているから、何か妙なことを口走ったりしていないかが心配である。だからどうか、落ちた瞬間が一緒であることを願いたい。

 流石にこんな状況でもうひと眠りするかとはなれなかった。もともと二度寝はしないというかできないタチだ。それに、今自分がどんな顔をしてどんな状態であるかを早急に確認したい。お泊まりでも旅行でもなんでも朝は絶対男より早く起きて準備を整えておきたい派の私だ。鉄朗がまだ寝ているのならそれは私にとって好都合。それに、せっかくのお休みなのだから飽きるまで寝かせてあげたい。
 なんとか彼を起こさないようにベッドから抜け出したい。試行錯誤の上やはり腕はどかせるしかないと判断し、ゆっくりと手を触れた。筋肉質な腕はずしりと重く片手で持ち上げようとしてもなかなか上手くいかない。というか、起こさないように遠慮するあまりうまい具合に力が込められない。ならば身を捩って抜け出そうとするも、やはり乗っかっている腕はびくともしない。それどころか、先ほどよりも重みがどんどん増している気がする。
 いや、これは明らかにおかしい。ここまでされたら、さすがに察しもする。

「ねえ鉄朗、起きてるでしょ」
「あ、やっぱバレたか」

 私の企ては呆気なく破綻した。
 早く起きて準備を整えるどころか、この世でいちばん無防備な寝顔を見られていた可能性さえあるという始末。

「い、いつから起きてたの」
「いや、ついさっき。なまえが俺の名前呼んだ時」
「……ほんと?」
「……の、ちょっと前かな」

 疑いを向けると鉄朗はすぐに本音を曝け出した。彼はこちらが少し気を抜くと気付けないような嘘をするりと吐きがちだ。多分それが鉄朗の性格でありもはや癖なのだと思う。相手を気遣うが故の優しい嘘。今のだって私が先に起きていたかった事を察した上で咄嗟に気を回したのだと思う。
 ほんの些細なことでもひとつ、またひとつと愛が積み重なっていく。まったくこの男は私を裏切るどころか好きにさせることしかしてくれない。

「あー……ねえ、わたし寝言とか言ってなかった?」
「へえ。寝言とかいうんだ? かわい」
「もー。まじめにきいて」
「ごめんって。ほんとびっくりするくらい静かだったし動かなかったよ。寝たフリかと思うくらい」

 今の言葉は嘘じゃないとわかった。やはり私は熟睡していたらしい。それにしても寝たフリとは侵害だ。鉄朗じゃあるまいし。

「でもほんと熟睡してた。めずらしく一回も起きなかったもん」
「ならよかった。俺は二、三回起きたけど」
「え、うそ」
「だってすぐ横に素っ裸のなまえがいるんですもの」

 興奮しちゃってさ。と、寝起きらしい掠れた声が耳元で熱っぽく囁いた。たったひとことで気分がざわめいて仕方がない。朝から心臓に悪い。昨晩は同棲なんて話も出たが、仮にそれが実現したならばやはり毎日命懸けだ。私はこのいちいち与えられるトキメキにいつか慣れる日がくるのだろうか。今のところ全然そんな気がしなくて困る。

「……イタリア帰りのくせに」
「関係ある? むしろ溜まってたというかね」
「やだ若いね。さすが二十代」
「いやいや、そういうあなたもまだ二十代でしょうが」
「……まあ、ぎりぎりね」
「なぁ知ってる? 神経を興奮させるホルモンって、夜より朝の方が分泌されやすいんだって」
「それ、年齢関係ないじゃん」
「そうだっけ」

 成り立っているようで成り立っていない会話。一瞬で角度を変えられ誘導されているようだ。話しながら鉄朗の手はちゃっかりと私の素肌を撫ではじめていた。胸の下と脇腹をするすると往復している。かなり際どい触れ方だ。ふと腰にあたる熱の気配を察知して今度はそこばかりに意識が向く。いったい彼はいつからそうなっていたのだろう。

「……やだ、ちょう元気」
「これは愛。なまえに対する俺の」
「じゃあさっさと起きようとしたわたしの愛は足りないのかな」
「なまえなら応えてくれるって信じてる」

 ロマンチックな言葉の裏にうまいこと懇願を紛れさせている。そんな言い方をされれば応えないわけにはいかない。朝から盛るなんてあんまりない、というか朝のベッドで男とイチャつくこと自体がそもそも稀であった。もうずっとずっと浮かれている。今ならなんだって出来る気がした。私はとうとう身体に絡みつく鉄朗の腕を掛け布団ごと跳ね除けた。むくりと上半身だけ起き上がり、腰を捻って鉄朗を見下ろす。

「そんなに期待されちゃあ仕方ないね」

 イイ女風にゆったりと前髪を掻き上げながら、髪を左肩の方へと全て流していく。鉄朗の下半身に身を寄せて、すでに上を向いてゆらゆら揺れているそれを人差し指でトンと押し止めた。

「わたしがしてあげる」
「…………え、マジ?」
「きのうのお返しまだしてないし」

 そう。昨日はされるがままだった。鉄朗がそうしたいのだと思ったし、私も実際あり得ないほど緊張して手が出せなかった。ただ、かつてあれだけの大口を叩いたのだからその誠意を責任もって示さなければならない。
 攻めるのは割と好きだ。自分もラクだし気分も高まる。相手からして欲しいとせがまれることもあったし別に嫌いじゃないからやってあげた。でも鉄朗に対してはそんな気持ちでは臨まない。頼まれずとも私がやりたいからやるのだ。

「こんなの鉄朗にしかしないから」

 寝起きなのも相まって目を合わせるのは恥ずかしいから、目線は下半身に向けたまま言った。自分で言っておきながらちょっと照れ臭い。しかし臆することなく顔と手をソコヘ寄せていくと、頭上で唸る声がした。

「すげえ殺し文句」
「口だけじゃないからね」

 挑発的な女は彼のお気に召すだろうか。今までさんざん鉄朗のペースに乗せられてきたからこそ、こういうところではせめて挽回したい。全身全霊をかけて、心も身体も虜にする。欲しいものを手に入れるためならいくらだって野蛮になれる。それは男も女も同じこと。


***



「なまえは常に俺の想像の上をいくよね」
「まーた回りくどいいい方して」
「ハイ。死ぬほど気持ちよかったです」
「……ハイハイ。どういたしまして」
「ほらやっぱ照れんじゃん」
「わるい?」
「かわいいよ」
「……あっそ」
「急に素っ気ないね。さっきはあんなに愛してくれたのに」

 この男、よもや恋人にはずっとこんな感じなのだろうか。それとも私と同じで浮かれているだけなのだろうか。

 鉄朗への"お返し"を終えたあとは二人でシャワーを浴びようという話になって、それなら浴槽に湯を張って朝風呂をしようという流れになった。単身向け賃貸マンションに備え付けられている浴槽は勿論そんなに大きいものではないし大人二人で入るだけでもやっとなのに、それが鉄朗となれば殊更に窮屈だった。鉄朗が後ろから私を抱え込む体勢になってはいるものの、私の身体はほぼ鉄朗の身体の上に乗っかっている。絶対邪魔だし重いはずなのに、鉄朗はむしろそうしてくれと言わんばかりに私の腰まわりを両腕でがっちりホールドしている。おかげでリラックス感は皆無だ。

「つーかこれまた勃ちそう」
「……勃ちそう、じゃなくてもう硬いし」
「すごくない? さっきしてもらったばっかなのに」

 無邪気っぽく言う鉄朗に少し笑ってしまった。尻肉をグイグイと押し上げるそれについては無邪気を通り越して凶暴だ。一度出しただけでは飽き足らず、さっそく二度目を要求されている。もう一度同じことをしても良いがそれだと私が物足りない。そろそろ欲しくなってきた。でもここはお風呂場だから色々融通が効かないこともある。そこで私はふと思うことがあった。
 鉄朗は、この状況をどう処理するだろうか。私の認識に誤りがないかどうかを確認する目的で、私は鉄朗に問いかけた。

「する?」
「あー……んーでもな。ゴムは部屋だし」
「……いいよ。わたし薬飲んでるしなくても大丈夫」
「は? ……いやいや良くない。つーか男にあんまそーゆーことサラッと言っちゃだめよ」

 愚鈍さを諭す声すら優しかった。
 やはり間違いはなかった。鉄朗ならまず了承しないだろうなと思っていた。出会って間もないのに私は心底この人のことを信用してしまっている。さらに今の発言をもってその信用を裏付ける結果を得られた。

「わかってるよ。鉄朗だから言ったの」
「……もしかして、俺のこと試した?」
「ごめんね。でもやっぱ見る目あるなって」

 彼がもし本当に悪い男だったなら、私の人生は破滅の一途を辿っていたことだろう。
 鉄朗自身にその気がなくても、彼は女を依存させる言葉を平気で吐くし行動もそれに伴っている。彼の優しさは時に相手を傷つけてしまうこともあるだろう。捻くれた見方をすれば、いちばんハマってはいけないタイプの男だ。私は元々それをわかっていたしわかっていて彼を愛すると決めたのだ。もう迷いはない。

「俺がしたいって言ってたらどうした」
「するよ。鉄朗がしたいなら」
「……なまえは俺のいいなりになるつもり?」
「これが私の愛なの」

 愛する人に依存する。その人なしには生きていけない。私の全てはその人のためにあって、その人のために生きたいと願う、悍ましく深い愛情だ。何も変われない。結局ひとりよがりで拗れた愛し方しか出来ない私を、そのまま受け止めてくれると言ってくれた唯一の男。
 だから信じた。この男と向かう破滅ならきっとそこは楽園のように光に溢れて華やいでいる。私はやっと気づいたのだ。問題なのはこの愛し方じゃない。いったい誰を愛するかだ。
 黒尾鉄朗。わたしの愛は、きっとこの人のために生まれたものなのだ。

「なまえ。こっち向いて」

 身体の向きはそのまま、首を擡げて鉄朗の顔を見仰いだ。見つめた瞳の奥が揺れている。どうしてそんなに泣きそうな顔をしているのだろう。
 ぱちゃ、と小さな飛沫が立つ。おもむろに湯船から出した手のひらを鉄朗の頬に触れると、すり寄るように鉄朗は顔をくたりと傾けた。きっと何か考え事をしている。私のことだったら嬉しい。──でも、もしかしたらそうじゃないかもしれない。さすがに鉄朗の頭の中は覗けないから、私はじっと待つことしか出来なかった。

 彼の頭のどこかにまだあの子は居るのだろうか。私と過ごしている中で、何かを思い出したのだろうか。見比べはせずとも、五年をかけて愛したあの子の面影をほんの僅かでも私に重ねようとしているのならば、その夢は絶対に叶わない。私の全てはあげられるけど、それだけは叶えてあげられない。

「わたしだけ見て」

 私が幸せにしたいよ。
 表面上の自由はあげる。でも、心は全て私のものがいい。その一欠片も他のひとには渡さない。五年なんて思い出になれば一瞬だ。思い出は現実に還らない。

 私の声で鉄朗は思考の海から舞い戻ってきたらしい。願わくは、私の頭の中が全て鉄朗に関する事で支配されているように、いつか鉄朗の頭の中も私に関するすべてで埋まってしまえば良いと思う。彼も私に対して同じようなことを言っていた。だから同じことを求めたっておかしくはないだろう。
 
「俺が幸せにする」

 考えた末にいよいよ鉄朗から出てきた言葉は、私の脳内にすんなりと溶けて広がっていった。
 もし他の男が口にするならばひどく無責任に響くであろうそれも、彼が声にのせたものならば信じることができた。返事をしようにも喉元までせりあがる多幸感に圧迫され、私の声は音になりそこねた。
 この瞬間、黒尾鉄朗は私の世界の全てになった。

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