「鉄朗くんのバカっ!」

 二月初旬のある夜のことだ。
 甲高い声が白いコンクリート壁に反射して、フロア中に響き渡った。いましがた乗ってきたエレベーター内で香ったものと同じ匂いが、ふわりと横を駆け抜ける。綺麗に巻かれた明るい茶毛。うねる毛先が頬をやわく掠めて、反射的に振り返ってしまった。
 ヒールをかつかつと鳴らしながら、華奢な背中はあっという間に遠ざかっていく。顔は一瞬だけしか見えなかった。二十代前半くらいの、可愛らしい女の子だったと思う。それとおそらく、泣いていた。女の子が飛び出してきたのは、不幸にも私の右隣の部屋からだった。

 ふた月ほど前に越してきたらしい隣人とは、まだ一度も顔を合わせたことがない。このご時世、とくに単身世帯向けのマンションでは、お隣さん同士の挨拶行事なんてまず行われないのが普通だ。エントランスで不意に鉢合わせたら軽く会釈をする程度だし、無視をされることもある。むしろその方がホッとするまである。私はエレベーターで住人と乗り合わせるのもわざと避けてしまうくらいで、関係性は稀薄だ。こんな物騒な世の中になったのでは、これもやむなしだろう。

 それはさておき。
 私とお隣さん。果たしてどちらの運がないのだろう。
 顔さえ知らぬ隣人の明らかに修羅場っぽい場面に遭遇してしまうとは、まさか夢にも思うまい。開いたままの扉にちょうど隠れてしまい姿は見えないが、さっきの女の子が確か「てつろーくん」って叫んでいた。名前からして男性だろう。お隣が男性というだけで、一人暮らしの女とっては少し気まずい。本当に、なんというタイミングの悪さだろうか。電車一本早く乗れてさえいれば、こんな事態は免れただろうに。
 さては厄日か。思い返せば、今日は後輩の起こしたミスから始まり、後処理仕事に追われた一日だった。いつもより二時間も早く出社して、朝から晩まで社内社外を駆け回り、やっと落ち着いて帰って来れたと思えば、時計の針はもう午後十時を過ぎている。ご飯を食べてシャワーをしたらあっという間に一日が終わってしまう時間だ。自由気ままに晩酌をして、暖かい湯船に浸かってリラックスできる至福の時。そんなもの、もうありはしないのだ。しかも明日は魔の休日出勤。よりにもよってこんな日に。悪事はこうも重なってしまうものか。

 身も心も疲れ果て、今は他人を気遣う余裕もない。ついでにお昼も食べ損ねており、お腹もすっからかんのぺっこぺこ。つまり、私は今、最高に機嫌が悪い。
 彼女に出て行かれてショックを受けているのかなんなのか。どうやら放心しているらしい隣人には大変申し訳ないが、開けっぱなしのその扉を、早く閉めてもらわなければ困る。私の部屋は、隣人の部屋のその先にあるのだから。

 手にぶら下げたコンビニのビニール袋が、ガサガサと風に揺れている。気を張り詰めているからか、音がやけにクリアだ。ああ、とにかく居心地が悪い。仕事を終えてやっとこさ家に帰ってきたところなのに、何故こんな最悪な場面に出くわしてしまったのだろうか。
 
「……すみません。あの、ドア」

 ただ、黙っていても仕方がない。きっと傷心なのであろう隣人を驚かせないように、声のトーンはあくまで控えめにしたつもりだった。しかし思いの外、不機嫌丸出しの低い声が出てしまい、はっとする。
 今日の私は最底辺のビジュアルなのだ。急な早朝出勤でろくに化粧はできず、髪も適当に纏めているだけ。手にぶら下げたビニール袋もあわせて、完全にくたびれたOLの醜態を晒している。隣人がちっともこちらに気づいてくれないので仕方なく声をかけてしまったが、出来ればそのまま静かに扉を閉めて、こちらを見ないでほしい。初対面の相手、しかも異性ならばなおさらこのような無様な姿を見られたくない。
 隣人だってあんな修羅場、誰にも見られたくなかっただろう。だから私なんて存在は遠慮なく無視してくれていい。むしろそうして下さいと強く願った。隣人の動きを待ちながら、ドクドクドクと心臓が早まっていく。

「……あ、やっべ」

 ──ああ、今日の私はやはりツイていなかった。
 ひょこ。と隣人が扉の裏から姿を現したのだ。その姿を目にした途端「ひぇ」と変な声が出そうになった。寸前のところでなんとか踏みとどまった。私は目を見開いて固まったのち、願いを叶えてくれなかった意地悪な神様を心底恨んだ。

「邪魔してたの全然気づかなくて。……ほんと、すみません」

 隣人の正体は、180は優に超えるであろう高身長にすらりとした背筋、おそろしく長い手足に、ピシッと纏めた清潔感のある黒い短髪、極め付けにはお似合いすぎるスーツを纏った、爆イケの若いお兄さんだった。
 心の中で「こんな男が現実に居てたまるか」と叫んでいた。初めましてのお隣さんは、私の好みすぎる男性像そのものがまさに具現化した姿をしていたのだ。
 無表情ながらに大興奮するという高度すぎるリアクションを引き起こしていた。そして、私は激しく絶望した。これが、こんなのが、ファーストコンタクトなんてありえない。願わくば今日、朝から一日全てをやり直したい。せめていつも通りの格好であれば、仕事帰りだとしてもまだいくらかマシな姿だっただろうに。ビジュアル最底辺で、爆イケお兄さんと対峙するなんてこと、なかったはずなのに。

「い、いいえ、こ、ちらこそ、すみません」

 明らかに挙動不審な女になっていた。俯いて顔を隠しながら息を止め、隣人の開けてくれた通路をサササと歩いた。足音を立てることすら憚られるような、異様な緊張感に呑み込まれている。好みすぎる爆イケお兄さんをもう少しちゃんと眺めてみたい気持ちもあったが、今は極力顔を合わせたくないという気持ちの方が勝った。こんなボロボロでくたびれた姿、このお兄さんに一秒たりとも見られたくない。そこには、私の女としての高すぎるプライドがあった。

「……あ、あの!俺、黒尾っていいます。すみません、最近越してきて挨拶も出来てなくて」

 ぴた。と思わず足を止めた。
 ……何ということだ。まさか、隣人がこれ以上接触してくるとは。ありえない展開に、ひくりと顔を引き攣らせた。しかしまあ律儀に自己紹介まで。こんな状況で相手を無視しようものなら、印象をますます悪くする一方だ。もう帰りたくて泣きそうなくらい辛かったが、それでも無視はできなかった。

「だ、大丈夫です、すみません」

 人はテンパるととにかくよく謝る習性があるというが、全くもってその通りであった。言葉を発すればもう二言目には「すみません」としか出てこない。なるべく顔を見られない角度に気を遣いながら、隣人に軽く会釈をした。今の私にはそれが精一杯だった。
 さすがにそろそろ、隣人も私の何かしらを察してほしい。明らかに帰りたそうな雰囲気を出している。初対面の相手にそこまで望むのは無謀なのかもしれないが、この爆イケお兄さんなら、もしかしたら、きっと。

「……あ、すみません。ちょっとだけココで待っててくれますか?」

 ──なんで?!
 いよいよおおきな声で叫びそうになった。

 帰りたいオーラむんむんの隣人を前にして、一体彼はどこまで足を止めさせようというのか。私は何のために呼び止められ、こんな廊下で待たされているのだろうか。いくら爆イケお兄さんであろうとも、これはなかなかに罪深い。さては空気が読めない系の人なのだろうか。
 待っててと言われたのに無視して帰るのはさすがに心がいたむ。とはいえ私のメンタルはすでにボコボコだ。ただし、ここまで来たらもう大人しく待つという選択肢しか残されていない。

 今日何度聞いたかわからない、ビニール袋のガザガサ音が哀愁を漂わせている。コンビニで温めをお願いしたスープパスタは汁を吸い切って伸びてしまった頃合いだろうか。いつもは家でチンするのに。何故か今日に限って店内でやってきてしまった。やっぱり厄日なのかな。

 ……そういえば。隣人は確か"クロオ"と名乗った。聞いてしまったからには、自分も名乗るべきなのだろうか。また一つ問題を抱える。
 お隣さんが小汚いオッサンとかだったら絶対に名乗りたくないけれど、彼になら別に名乗ってもいい。イケメンってつくづく得が多い生き物だ。見た目が人より良いってだけで、他人からこんな簡単に信用を勝ち取ってしまうのだから。

「……あ、お待たせしてすみません。これ、良かったら貰ってください」

 それから数秒の後、隣人宅の扉は再び開かれた。戻ってきた彼の手にはなにやら正方形の箱。やけに既視感のあるパッケージだ。それが、私の大好きな老舗菓子屋のバームクーヘンだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。

「な、なんでしょう」
「あ、これ今日俺の職場で貰ったんですけど、まだ手つけてないんで挨拶代わりにと思って。良かったらどうぞ」
「……え? い、いただけません、こんな」
「いや、実は俺甘いもんあんま食わなくて。痛んじゃう前にお姉さんさえご迷惑じゃなければ、ホントもらってください」

 にこ。と穏やかにクロオさんが微笑んだ。

 はあ、なるほど。
 これでもし、彼が社会でいうバリバリの営業マンだったとしたら、恐ろしく殺傷力の高い武器になる。なんの構えもせずこんなのを浴びせられたら、普通の女ならイチコロだ。
 そしてまんまとイチコロされた私は、クロオさんからのありがたい申し出を断れるはずもなく、その箱をおそるおそる受け取ってしまうのだった。爆イケお兄さんに大好物のバームクーヘンのコンボなど、はっきり言ってオーバーキルである。

「……あの、なんだか気を遣わせてしまって、本当にすみません」
「いやいやとんでもない。こっちこそ、お疲れのところ長々と引き止めちゃってすみません」

 お疲れのところ、でふと我に返った。これ以上、このクロオさんにくたびれた姿を見られることに耐えかねて、「失礼します、」と足早にその場を去った。結局、私は彼の前で何秒足を止めてしまったのだろうか。
 去り際の背に「おやすみなさい」と声をかけられてしまい、たまらない気持ちになった。追い討ちだ。そんなイイ声でのおやすみは、むしろ安らかな眠りを妨げるので、出来ればやめておいてほしかった。
 もうさすがにその声には応えられず、会釈だけしてサッと部屋の中に入った。興奮しすぎて勢いよく握りしめたあまり、せっかく頂いたバームクーヘンの箱が少し潰れている。

(………最悪だ)

 今の一連の流れを一人になってよくよく冷静に考えてみたら、早速ただならぬ後悔が押し寄せた。叶うならもう一度、クロオさんとの出会いをリベンジさせて欲しい。まあそんな機会、もう一生来ないかもしれない。結局、名乗ることも忘れていた。私はしばらくそのまま玄関で放心していた。

 そういえば、女の子との修羅場のことには一切触れなかったな、といまさらながらに思う。まあ、あんなに素敵な人だ。痴情の絡れの一つや二つや三つくらいはあって然るべきだろう。それも、イイ男たる所以。
 隣人のクロオさん。その正体はどこまでも罪深すぎるイイ男、だったというわけだ。大きなため息を吐きながらリビングに入り、頂いたバームクーヘンを皿にも移さず直接フォークを刺してもしゃもしゃと頬張りながら、私は隣人との出会いの余韻を噛み締めた。存在を忘れていたパスタはすっかり伸びきっており、とても食べられる状態ではなくなっていた。

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