近づいたかと思えば、とたんに離れていく。恋愛とはやはり、そう容易くはいかないものだ。
 お互いの気持ちのことではない。これはただの、物理的距離の話である。

 怒涛の四月を乗り越えて、あっという間に五月がやってきた。五月といえばゴールデンウィーク。暦通りでいえば、三連休から中一日挟んで三連休だ。隙間の平日を有休で埋めて十連休ヤッホーみたいな話をしていた後輩もいたが、私はそこまで浮かれていられなかった。
 なんせ、あれから鉄朗くんと全く予定が合わない。わざと避けられているとか、そういう心配はない。だってお互い何度も連絡し合って、予定をすり合わせたのだ。そして見事にすれ違った。まあそれも仕方がない。鉄朗くんは私よりずっと仕事熱心で、忙しいお人だ。私がいくらゴールデンウィークを休もうと、彼の場合はそうもいかない。鉄朗くんは現在なんと、海外出張中である。期間は一週間。場所はイタリアだ。そこまでバレーに詳しくない私でも知っている、かの有名な影山飛雄選手に会いにいくらしい。影山選手といえば、昔やっていたカレーのCMが印象に残っている。クールなのにちょっと抜けてそうなところがまた魅力的なイケメンだ。今はイタリアのトップリーグで活躍する、日本屈指の名セッターなのだという。鉄朗くんが電話でそう教えてくれた。
 バレーの話をする時の鉄朗くんは、いつも生き生きとしている。愚痴一つ吐くこともなく、とても仕事の話をしているとは思えない。だから私も楽しく聞いていられる。そもそも、電話で声を聞けるだけで嬉しい。でも、あれだけの濃い戯れを経験したあとでは、やっぱりどこか物足りなく感じてしまう。
 ディスプレイに表示される名前を見るたび、そしてその声を聞くたび、早く会いたいという気持ちがすくすくと育ってゆく。ほんの少しの期間会えないだけで、こんなに恋しく思うなんて、私からしたら異常だ。"男"という生き物に対して捨てたはずの執着心が、また復活してきている。怖い、でもきっと──鉄朗くんなら、大丈夫な気がする。最近はそう思うようになっていた。鉄朗くんほどの男が、あんなにストレートな愛をくれる。これほどに尽くされて、彼の気持ちを疑おうなんて、それこそ異常だ。

 そんなこんなで、私のゴールデンウィークはあっという間に過ぎていった。何てことはない。美容院、筋トレ、ヨガ、肌メンテナンス、等々。ひたすらに自己を磨くだけの一週間だった。鉄朗くんは自身の夢のために今この瞬間も一生懸命仕事をしているというのに、私ときたら、その鉄朗くんに少しでもよく見られたいがために、ここぞとばかりにお金と時間を費やしている。でも、女なんて大体そんなものだし、結局それがいちばん楽しいのだ。この一週間はお酒も絶った。肌荒れ防止のため、食事には十分に気を使い、睡眠も毎日しっかり八時間。ものすごく健康的に過ごして、その日を待った。私は私なりに充実した日々を過ごした。すべては鉄朗くんに会う、その日のために。

 ただ、やはりそう容易くはいかないもので。
 愛する人のため、こんなにも健気に頑張った私にも、恋の神様は意地悪をする。








「なまえ。久しぶり。お前は見るたび綺麗になるなぁ」

 今日は鉄朗くんが帰ってくる日だ。
 「土産を渡したいから夜少しだけ会おう」と連絡がきた。どんな口実でもいい。やっと会える。声が聞ける。鉄朗くんも、会いたいと思ってくれている。その事実が何よりも愛おしかった。だから私はそのために念入りに化粧をして、髪を整えて、お気に入りの服と靴をあつらえた。
 
 だからそれは、決して、過去に私の心をズタズタに引っ掻き回して、こっ酷く切り離した、最低な男に会うためなんかじゃない。

「…………なんでいるの」
「なまえ、やっぱまだここ住んでたんだな」

 家のエントランスの前に男がいた。
 私がよく知っている顔と声。死ぬほど好きだったのに、死ぬほど辛くなったそれ。その顔と声で、これ以上近づいてこないで欲しい。

「…………なに、怖いんだけど」
「なんだよ。べつに待ち伏せとかじゃない。懐かしいなと思って通ったら、たまたまお前が帰ってきただけ」

 ──それ、ネイルしてきたばっか? 可愛いじゃん。
 男が穏やかに笑う。
 相変わらず、怖いくらいに私の事を知っている。

 私が何も言わなくても、すぐに気がついて褒めてくれることが嬉しかった。私が仕事の愚痴を吐いても、めんどくさがらず、ただ優しく寄り添ってくれるところが大好きだった。当時は料理が苦手だった私に、いつも美味しいご飯を作ってくれた。互いの知り合いに囲まれて、一緒にお酒を飲む時間が何より楽しかった。セックスのとき、たくさんキスをして──……一瞬で思考が呑まれてゆき、ありえないほど足が震えていた。

「なまえ、今から暇? 俺明日までこっちにいるんだけど、いつもんとこ飲みにいかない?なまえの好きなワイン、たくさん飲んでいいからさ」

 ああ、吐き気がする。死ぬほど気持ち悪い。
 いちばんキツいのは、この最低な男に一切の嫌悪感を抱かない、自分の惨めすぎる心だ。だって、彼を手放したのは、私からじゃない。好きだったのに、愛していたのに、ある日突然、ひとり置き去りにされたのだ。立ち直れはしても、救われたわけじゃない。ずっと傷ついたままそこにある。脆すぎる瘡蓋を少し突けば、いとも簡単に血が滲む。
 声が、出せない。声を出したら、泣いてしまいそうだから。

「なまえ。どうしたの?」
「…………っ、」
「……とりあえず、家にかえる?」

 彼の靴先が、私の方に近づいてくる。
 どく、どく、と心臓が激しく警鐘を打ち鳴らしている。彼はなぜ、こんなにも普通でいられるのだろうか。私にあれほど酷い仕打ちをしていながら、涼しい顔で会いに来た。
 ふと、左手の薬指を目端で捉えた。そこにあるはずのものが、ない。やはり、彼は何も変わっていない。そうやって優しい顔をして近づいて、何もかもわかったように振る舞って、都合の良い女を完璧に育てていく。まんまとハマった馬鹿な女。私を今もそうやって見下して、あわよくば手玉にとろうとする。

「なまえ?」
「…………来ないで。もう、帰ってよ」
「なんで。泣きそうじゃん。ひとりで置いて行けない」
「……っ、置いていったじゃん!」

 たまらず、感情的に叫んでいた。
 気づけば涙が溢れていた。

 折角の化粧が台無しだ。泣いて隙を見せていい相手じゃないのに、もう止まらない。どんどん溢れてくる。今の今まで、忘れられていたのに。

「……ごめん。でも、俺はいまもなまえのこと」
「嘘!!嫌!聞きたくない!」
「……なまえ、落ち着いて。一回家ではなそう?」

 彼の視線が一瞬逸れた。おそらく、人目を気にしたのだろう。生憎、今の私に周りを気にしているような余裕はない。
 今すぐここから逃げ出したいのに、足が地面に張り付いたみたいに離れてくれない。これ以上彼の声を聞いたら、また、あの頃みたいに駄目になる。私は横髪ごと自分の耳を強く掴むようにして塞ぎ、ぎゅうと目を伏せて俯いた。



 今の私を、愛してくれる人がいる。
 そのひとを心底焦がれていた時間さえ、過去の傷に塗り替えられていく。胸が痛くてたまらない。こんな風に思い返すんじゃなくて、もう、すべてを忘れてしまいたいのだ。
 彼が作った空白を、鉄朗くんに埋めてもらいたいわけじゃない。鉄朗くんには、私の未来すべてを満たして欲しい。ただ、そうなるにはまだ、時間が十分ではなかった。私と鉄朗くんは、これからやっと始めていくのだ。スタートラインの一歩手前。あともう少しというところで、過去の記憶に邪魔をされた。

 こんなに残酷なことがあっていいのだろうか。呪いのような恋。消えない恋。嫌いになりたかったのに、どうしてもなれない。だから、二度と会いたくなかった。

「なまえ、俺と」

 私のそばにまた一歩、男の気配が近づいてくる。

 忘れられない恋。これから育む愛。どちらが大切かなんて、考えなくてもわかる。ここで完全に断ち切らなきゃ、私は一生幸せを掴めない。
 決意を立てて、顔を上げた。目を開けて、耳を塞いでいた手を離す。


「──まったく。俺たちってなんでこう、修羅場に出くわすのかね。なあなまえさん」


 目を開けたはずなのに、視界が暗く滲む。
 死ぬほど焦がれた声に、心も体も全て引っ張られて、その温もりに包まれた。

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