仕事を終え、ちょうど家に帰り着いた頃だ。鉄朗くんから「あとで家を訪ねてもいいか」と連絡をもらった。この間のことを思い出して一瞬ドキリとしたが、確か今日は、鉄朗くんに頼まれて私が店をセッティングしたあの会食の日だ。もしかして、大将が私宛てにお土産でも持たせてくれたのだろうか。あの大将はいつも何かしら手土産をくれる。今日の会に私は参加しないことを伝えたらとても残念がっていたし、その可能性は大いにある。もしそうなら最高だ。お土産もそうだが、鉄朗くんにも会える。顔を見られるだけで嬉しい。そんなことを自然に考えてしまうくらいには、私はやっぱり浮ついていた。
 認めたら認めたで、ちょっと楽しくなる。日常が華やぐし、色々なことに気合が入る。毎朝のメイクはより念入りに行うようになったし、スキンケア類も一新した。春服の買い物も済ませ、新しいスーツもオーダーした。鉄朗くんに会えるなら、せっかくだからこの間買ったばかりのワンピを試着がてら着てみようと思い立った。鉄朗くんには「あと三十分だけ待ってね」とメッセージを打つ。
 スーツを脱ぎ、まずはドレッサーに座りメイクを整える。本当はクレンジングまでして最初からやり直したいくらいだけど、流石にそこまで待たせるのは忍びないので我慢した。今日も今日とて激務をこなしてきたが、くたびれていた顔にはっきりと生気が戻っている。男の力、というかたぶん、鉄朗くんの力が半端ないのだ。たった五分、十分の逢瀬ですら、こんなにも気分を昂らせてくれる。久しぶりの感覚だ。

 それからちょうど三十分経った。メイクも髪もほぼ完璧な状態に仕上げ、ワンピまで着こんでしまえば、完全に張り切ったデートスタイルになった。流石にやりすぎたか? と思案するも、そろそろ鉄朗くんがきてもおかしくない時間になっている。──可愛いけど、流石にワンピはやめようかな。ファスナーに手をかけたその時、ちょうどスマホに通知がきた。「行ってもいい?」と鉄朗くんからだ。もう、今から何を着るか考えている余裕はなくなってしまった。とりあえず「いいよ」と返事を打つ。
 この服装をツッコまれた時の言い訳を考えた。「実はこれから飲みに行くの」でほぼ決まりだ。結局、私の手札はいつもこれなのである。

 それからほどなくして、部屋のインターホンが鳴った。










「どうも、初めまして」

 この世で女が追っていい男はアイドルだけ。
 という内容のポストを、仕事帰りの電車の中で偶然見た。なかなか女性理解の深い言葉だと思う。男を追うとロクなことがないというのは、誰に言われずとも経験済みの私だ。
 ただ、テレビも見ない音楽も聞かない芸能人に興味がない私にも、いわゆる"推し"というものが存在した。ただし、その人はアイドルではない。彼のSNSや配信動画はできる限りチェックしているが、オフで目立つような活動はしておらず、この目で実物を見る機会というのは一生訪れないようなお人だ。目に触れる機会は多いけれど、本当にこの世に存在しているかどうかは、実際に会うまで定かではない。これぞ、アイドルを追いかける人間の心理である。
 IDOLの意味とは、そもそも偶像のことだ。彼もアイドルも互いに偶像であるという点において、ある種共通している。……グダグダと、つまりなにが言いたいかというと。私の推しであるKODZUKEN コヅケンが、偶像崇拝の垣根をひょいと飛び越えて、突如目の前に現れたという次第である。

 ついに、私にも限界がきたのだろうか。新人のオリエンテーション、上司や部下の異動による引き継ぎ業務等々による日々の激務に追われ、とうとう脳が壊れてきたのかもしれない。

「………………こ?」
「なんかクロがいつもお世話になってるみたいで」
「おい。今日はお前もお世話されたろーが」

 鉄朗くんがコヅケンの頭をはたく。
 ……鉄朗くんがコヅケンの頭をはたく?

「……えーっと」
「あ……コイツあれ。こないだ言ってた俺の幼馴染み。今日の店紹介してくれたなまえさんに直接お礼したいとか言い出して。まあちょっと酔ってるけど、許してやって」
「…………えーっと」
「てか、コイツのこと知ってたりする?」
「…………えーっと」
「なまえさん? 俺のこと見えてる?」

 鉄朗くんがもしもーしと、目の前で手を振っている。私はよっぽど放心しているらしい。

 知ってるもなにも、推しなんです。
 とは、流石に言えなかった。本人を前にしてそんな俗っぽい言葉を使うのは、何かものすごく恥ずかしい事のような気がしたからだ。とはいえ、コヅケンは知ってるけどまるで興味ないです、みたいなスカした女にもなりたくない。こういう時って、どういう反応をするのがベストなのだろう。三十年近く生きてきて、経験した事のないプレッシャーだ。否、この場にいる誰もプレッシャーなんて放っていないのに、私が勝手に追い込まれている。

「あの、えっと、知ってます。……っ、ご、ごめんなさい」

 人はテンパるととにかくよく謝る習性があるというが、全くもってその通りである。ちなみに、これを思うのは二度目だ。鉄朗くんは私の様子のおかしさに何かを察してくれたのか「急に連れてきてごめんな」と謝ってきた。本当にそうだ。ついさっきまでは鉄朗くんにおろしたての春ワンピを褒めてもらう妄想をしていたくらい余裕があったのに、全く違う角度から予想だにしていない攻撃をくらい、私の心は瀕死寸前なのである。

「俺も。実はなまえさんのことしってる」
「……おい、研磨」
「去年なまえさんがアップしてた練馬の飲食店のウー/バー特集。あれ今年版もやってほしい」
「………………え」
「あと今日のお店も最高だった。大将にストーリーあげても良いって言われたからなまえさんのアカウントもちゃんとメンションしたよ。ほら」
「……研磨くん。おーい」
「個人の方では元々フォローしてたんだけど、配信アカの方でもしといたから。よろしくね」
「コラ研磨ァ!なまえさんが瀕死っぽいからやめたげてほんと!」

 コヅケンがスマホの画面を見せてきて、私になんか色々言ってきた。ていうかコヅケン今、なまえさんって言ったな。多分三回は言った。なまえさんって、私の名前だっけ? と思考がいよいよ宇宙を巡っていた。

「だってクロの好きな人が俺の好きなバズグルメアカの人だったなんて、そんな偶然、やばすぎでしょ」
「研磨。お前、トドメ刺したな」

 オーバーキルをくらい、私の心は無に帰した。いったん、このひとはコヅケンのそっくりさんだと思うことにする。そうしなきゃ話が進まない。
 そして、今し方聞いたすべてのこと、本当に色々なことを一旦スルーして、鉄朗くんにヘルプの視線を送る。

「……あの、ほんとーに色々なことをイチから詳しくお聞きたいんですけど、その、一旦よろしいでしょうか?」
「……あ、ああ、もちろん。俺んちでいい?つーか何で敬語?」
「じゃあ三人で飲もうよ。これ、大将と俺とクロと翔陽から、なまえさんにお土産」
「お前は一旦なまえさんに話しかけないであげて」

 コヅケンのそっくりさんがずっと私に話しかけてくる。私の名前までハッキリと呼んでくる。きちんとした受け答えもできないし、目なんか到底合わせられない。そんな私を見るに見かねてか、鉄朗くんが私を囲い込むように、優しく肩を引き寄せた。普段の私ならそんな鉄朗くんにときめいているはずなのに、今はコヅケンのそっくりさんの視線から逃げるのに必死だった。……ていうかショーヨーって誰だ。
 


***




「まず大将が研磨の大ファンでさ。そっからSNSの話になって、店紹介してくれたなまえさんの話になって。アカウントのことは大将が教えてくれて、研磨がずっとフォローしてたって話になって。それで色々繋がっちゃったってワケ。俺も驚いたよ」
「……か、隠していたわけでは、ないんです」
「なまえさんは顔出しもしてないからね。あんだけフォロワー抱えてたら慎重すぎるくらいで良いと思うよ。でも、こんなに綺麗な人ならお店側もそりゃあウェルカムだよね。しかもたくさん飲んでくれるし、界隈に詳しいし」
「お前、今日はよく喋るねえ……」
「ちょっとテンションあがるじゃん。クロのお隣さんだし」

 そしてとうとう、鉄朗くんにも私のアカウントのことがバレたのである。しかし、そんなのは最早なんの問題でもない。最重要視すべき論点は、鉄朗くんの幼馴染が、まさかの私の推しであるという事実だ。おそるおそる自分のインスタを開いてみたら、本当にあの、コヅケンのアカウントからのメンションさらにはフォロー通知がきていた。メンションされたストーリーを確認すると、そこには大将とコヅケンが仲睦まじく写っている写真が載せられていた。そこに私をメンションするなと若干思ったが「最高だった。ありがとうございます」とコメントが加えられていた。なんか匂わせみたいな演出だなと思った。

「鉄朗くんって、いよいよ本当にナニモノ……?」
「それはこっちのセリフでもある」
「そうそう。なまえさんだってガチのインフルエンサーじゃん。しかも副業でこのレベルはやばいよ。俺のともだちもみんなフォローしてる」
「つーか俺もしてる。さすがになまえさんだとは知らずにだけど」
「う、うそ?!」

 ほら、と鉄朗くんがスマホの画面を見せてくれた。本当にフォロワーだった。ならば、結局バレるのも時間の問題だったということだ。あの大将も普段なら初回のお客さんに絡むようなことは絶対にしないし、油断していた。さすがは世界のコヅケンだ。あの大将さえメロメロになっている。ツーショットの笑顔が超素敵だ。正直、かなり羨ましい。

「で、でも大丈夫なんですか? わたしみたいにコヅケンさんを推s…………ファンが、こんな普通に、喋ったりなんか、して」
「全然。俺もなまえさんのファンだし。そもそもクロが信用してる人ならまず平気」
「て、鉄朗くんって、いよいよ本当にナニモノなの……?」
「まーた話が戻る。もういいからさ、とりあえず飲み直そうや。なまえさんも明日は休みだろ?」
「確かに。なまえさんはシラフだし、少し酔った方が喋りやすいかもね」
「……………ご厚情、痛み入ります」
「俺らは上司か」

 ブフッ、と鉄朗くんが吹き出した。
 私はこれからの時間を、それくらいの気持ちで挑むつもりだ。大将セレクトのお土産は、「美丈夫 純/麗たまラベル」だった。キレ味が実にシャープで、これぞ美丈夫といえる極上の一品。これは店主が二人にちなんだ酒だな、と納得した。鉄朗くんがおしゃれな冷酒グラスを取ってきてくれて、酒を注いだグラスを三人で寄せ合う。

「なまえさんと会えてよかった」
「……まーたトドメを。ハイ、乾杯」

 かちん、と上品な音が鳴る。
 初っ端からコヅケンの美しすぎるストレートが決まり、私は即、ゲームオーバーになった。

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