それから一日経って、熱は平熱まで下がった。いつも通り身支度を整えて仕事に向かったはいいものの、仕事中から終わりまで、どのように過ごしていたかはあまり記憶がない。丸二日休んだ分の仕事は、以外にもすんなりと片付いた。

 数日後。仕事帰りの電車の中で、ワインバーの店主からラインがきた。私の好きなワインがちょうど入荷したから寄らないか、というお誘いだった。断る理由もなかったので、即返事をした。

 いつもとそう変わりない日常を過ごしているはずだ。それなのに、どこか意識がハッキリしない。空に流れる雲のようにふわふわしているというか、心がいつもの風景に馴染まないというか。今までの自分とは何かが変わっているような気がする。うまく言い表す言葉が見つからない。この感じは一体、なんだろう。






「よかったねえ、なまえちゃん」
「……ん?」
「顔、緩みっぱなし。うわついてんなぁ」

 店主が自身の頬を指し、にっこにこで私に言ってきた。……はぁ、なるほど。浮ついてる、というのかこれは。

「鉄朗くんと、イイコトあった?」

 イイコト。おそらく、店主が期待しているような内容ではない。

 でも、キスはした。二回、三回……四回?わからないけど、たぶん、何回もした。鉄朗くんに誘われるがままキスをしていたら、それがあまりにもきもちよくて、止まらなくなった。私がたくさん求めたら、鉄朗くんはそれ以上を返してくれた。しまいにはソファに二人でなだれ込み、互いを貪り合うような、劣情剥き出しのキスをした。私の唇を舐める時の鉄朗くんの表情が、それはそれはもう色っぽかった。キスだけで、死ぬほど濡れた。とても理性的ではない行為だった。私が熱さえ出していなければ、間違いなく最後までしていたんだと思う。店主の仰るイイコトを、だ。

「なまえちゃんのそんな顔、俺初めて見たわ」
「……わたし、いまどんな顔してる?」
「ドスケベ顔」
「なんて?」
「ごめん嘘。なんか、恋する乙女のニヤけ顔」

 キッと店主を睨むと、すぐに言い直してきた。でも、そこは恋する乙女、までで止めておいて欲しかった。スマホの暗い画面を鏡代わりに見てみると、大していつもと変わらない様子の自分が写っていた。いったいこれのどこがニヤけ顔なのか。

「べつにいつも通りだけど」
「いやいや。俺にはわかるね。ピンクのオーラが出てる。ドスケベなかんじの」
「ドスケベやめて」

 ニヤけてるのはそっちだろう。これはまた、店主が調子に乗ってしまう感じだ。また私の弱みを握ってやったぞという顔をしている。絶対あることないことまで常連に言いふらす気だ。これはキチンと弁解させていただくことにする。

「べつに、鉄朗くんとはなにもない……ことは、ないけど」
「何だよ。じゃあどこまでいった?」
「…………キス」
「キスぅ?たったの?それでそのドスケベな感じでちゃうの?」
「だからドスケベやめて」
「ま、仲直りできたんなら良かったじゃん。あのときなまえちゃん、引くほど泣いてたし」

 そうだ。あの夜はここに駆け込んで、店主のおっしゃるように引くほど泣いていたのだった。結局あの日も常連たちに「そんなのいつもの事じゃん」と宥められて帰ったけど、私にとっては全然、まったく、いつもと違うことだった。

「いっとくけど、鉄朗くんとはそーゆーのじゃないから」
「そーゆーの?どーゆーの?」
「アレとかコレとかソレとかのやつ」
「ああ。はいはい、なるほどね」

 私の好きなカリフォルニアの白をグラスに注ぎながら、店主は相槌を打つ。あれやこれやそれで会話が通じるのは、たぶんこの人だけだ。
 
「あ。じゃあ鉄朗くんのこと、もう女の子たちに紹介できないじゃんな」
「…………え、なに、何の話?」
「こないだ来てたんだよ。鉄朗くんちょうどそこの席で飲んでてさ。その後きた二人組の女の子が鉄朗くんのこと気になるから、今度また来てたら連絡してほしいって。俺にオネダリしてきた」
「……は?!なにそれいつ!てか鉄朗くんここ一人できてたの?」
「あーうん。たしか先週?」

 じゃあ私も呼びなさいよ! と店主に対する不満が湧いたが、その時はちょうど鉄朗くんと気まずい時だったから、結局呼ばれても行かなかっただろうなと思い直した。
 この前は私と一緒だったからそんな視線も気にならなかったけど、そりゃあ、あんなイイ男が一人で飲んでたら、女の子はナンパもしたくなるでしょうね。と普通に納得してしまった。むしろ女の子二人はよく次の機会に持ち越したなと思ったくらいだ。私だったら即……いや、私はもう手を出したも同然なので、ノーカンとする。

「鉄朗くん、その日なに飲んでた?」
「オー/パスワン。しかも当たり年の」
「…………え、ここ、そんなん置いてんの?」
「実は持ってきてくれたんだよね。俺に開けて欲しいって鉄朗くんが。彼ほんと何者?カッコ良すぎない?俺をどうしたいの?」
「わたしに聞く?」

 最高峰のフルボディだ。そんな大層なものを持ち込んで、本当に、彼はいったい店主をどうしたいのか。しかもそんなに良い赤なら、私だって飲みたかった。なんでよりにもよってその日だったんだろう。鉄朗くんをほんの少しだけ恨んでしまった。

「……それ、その場みんなで飲んだ感じ?」
「そーそー。それで女の子たちも常連も俺もメロメロに」
「やだ無理。ずるすぎてキレそう」
「それで俺もべろべろになっちゃってね。口がゆるっゆるに」
「それはいつものことだけどね」

 まったくこの店主は。
 今日だってもう結構酔ってるのに、客から乾杯で貰ったグラスを、各卓に給水所みたく並べてある。まだまだ飲む気だこの人は。まあいつもと変わらぬ光景ではある。
 手元で白のグラスをくるくると揺らした。白も好きだけど、赤はもっと好きなのに。鉄朗くんが一人でもこの店に来るようになったんだとしたら、それはそれで嬉しいような、ちょっぴり寂しいような。複雑な心境だ。でも、私の好きな人たちと鉄朗くんが親しくなるのだと考えれば、やっぱり嬉しさの方が勝つかもしれない。

「鉄朗くんは、なかなか人たらしのとこがあるね」
「店主がそういうなら間違いないね」
「下心が全く見えないからこそ、簡単に信用しちまうというか」
「店主にそこまで言わせるのはすごいね」
「あの夜なまえちゃんが「鉄朗くんに嫌われたくない」って大泣きしてた事、つい彼に話しちゃったし」
「へえ、そうな………………ん?」
「つーか、はなっからなまえちゃんのことを聞きに来たっぽかったねアレは。ワインの手土産もきっとそういう事なんだろうな」

 口がゆるっゆるになった店主がペラペラと上機嫌に喋り出したかと思ったら、今、聞き捨てならないことがさらっと聞こえた気がした。

「え、ねえ、その話、ちょっと詳しくおしえて」
「いや〜ダメだね。ここから先は有料」
「調子いいなほんと」

 つまり鉄朗くんは、私という人間がどんな女なのかを、間接的に確かめにきたというわけだ。そして、ここで私の本音を知った。最近の私の男関係に一番詳しいのは、不本意ながら確かにこの店主である。この店に初めてきた時からそれを見抜いていたのだとしたら、相当怖いし、かなりキレる男だ。人と人との関係性を正確に見極めている。というか、人をよく観察して本質を推し量り、自然とそれに添うように対応を変化させているような気がする。鉄朗くんは、もしかして案外人見知りなところがあるのかもしれない。人見知りな人ほど、人を深く知る能力に長けている。

「ま、俺も鉄朗くんじゃなかったら、そこまで何でもかんでも話してないよ」
「……それは、わかるけど」
「しょうもない男だって思ったら手助けだってしない。美味いワイン一つで転がされるような男じゃないぜ俺は」
「結果的に転がされてるけど」
「なまえちゃんがソレ言えんの〜?」
「あーもう、うるさいな」

 打算で動いている、と鉄朗くんは言ったけど、それは少しニュアンスが違う気もする。彼は取り得る手札は全て取ろうとしただけだ。自分の考えが正しいという裏付けを取るために。
 今にして思えば、鉄朗くんは今までの数ある行動の中でも、私のことを試していたのかもしれない。これを言えばどう返すか。この対応にはどう動くか。そういう一連の駆け引きの中で、鉄朗くんは私のことを知ろうとしていた。

「まあつまりはさ、やっとできたなまえちゃんの本命ってことでしょ?」
「…………う、」
「そういうことなら、俺はもういらんちょっかいかけないよ。まあ、なまえちゃんがソレをちゃんと認めるならの話だけど」

 悪く言えばちょっかい、よく言えば手助け。店主の行動はそのどちらともとれる。けど、ここでそれを認めれば、私はまたこの人に弱味を握られる羽目になる。

「まだ、どうなるか、わかんないけど」
「うんうん」
「……女の子紹介するのは、とりあえずやめてほしい」
「ッハハ。なるほどね」

 鉄朗くんの気持ちを悟ったつもりではいるけれど、それをキチンとした言葉で確かめる勇気は残念ながら持ち合わせてない。身体から始まる関係は、鉄朗くん的には、本当にアリだったりするのだろうか。「嘘をおっしゃい」なんてはっきりと断ったあの日の自信は、今の鉄朗くんを見ていると、正直薄れてしまっている。……だってあんなキスされたら、黒尾鉄朗は誠実で完全無垢の潔癖だ、なんて、言えなくなっても仕方がないだろう。男を見る目は確かと自慢気に謳ってきたのに、これじゃ、もう何も信じられない。

「鉄朗くん、俺は推すけどね」
「そりゃあ、誰でも推すよ。あんなひと」
「いや、あれは恋愛に関しては意外と拗れてるタイプよ。なまえちゃんみたいな素っ気ない女の方が、案外上手くいくのかも」
「んー……もうわかんない。ほんとなんなのあの男。もはやムカついてきた」
「なまえちゃんが男にこれだけ振り回されてやんのもレアだしなぁ」

 はぁ、と大きな溜息を吐きながらカウンターに突っ伏した。店主はずっと楽しそうだ。自分は独身を貫いているくせに、人の色恋沙汰が本当に好きなひとだ。ただ、この店主こそ、ここで色々な男女のアレコレを見てきていているし、それこそ人を見る目はあるから、この人の言葉は信用出来る。だから鉄朗くんが本当にいいヤツなのはわかる。その点についてはそもそも疑いようもない。
 悩むのは、鉄朗くんとのこれからの関係をどうするか、だ。付き合う付き合わないとかは別として、鉄朗くんとはこれからも仲良くしたい。ただ、正直キスもしたいしセックスもしたい。しかしセフレという関係になれば、それを目的に会うみたいで嫌だ。ていうか、鉄朗くんにセフレとかいう下品なワードがくっつくのが無理だ。
 では、やはり健全な恋人同士という関係を目指せば良いのだろうか。いや、そもそも付き合う前にあんなエロキスをした時点で、もはや健全な恋人になれるかどうかさえ怪しい。 

「ねえ、フツーの恋人ってどうやってなるの?」
「そもそも俺には恋人がいないのでわかりかねますね」
「…………てか、そもそも恋人とかいう定義いる?お互いに好きでキスしてセックスできるなら、それで良くない?」
「それじゃ今までのなまえちゃんだろ」
「違うよ。だって好きって気持ちがあるもん」
「気持ちなんて曖昧なもんじゃ相手を繋ぎ止められないから、そうやって定義付けたいんだろ。知らんけど」
「んー……わかるようでわかんない」

 私はともかく、鉄朗くんが私にどういう関係性を求めているのかもわからない。実は元カノのことをまだ引きずっていて、心に空いた隙間を埋めるための都合の良い存在として私を求めていることだってあり得る。本人はそれを否定しそうだけど、己が本心は、自分自身でもわからないことがあったりするものだ。
 鉄朗くんが本来持ち得る誠実さを貫くのであれば、きっと恋人という関係性を築こうとしてくる。でも、私に対しては別に誠実でなくても良いのだから、それに甘んじて都合の良いやり方を選ぶかもしれない。

 私と鉄朗くんは、果たして綺麗なマルに収まることができるのだろうか。まだまだお互いに、本心を探り合う必要がある気がする。ただもう気まずいのは嫌だから、言うべきことは言っておこうとは思う。あの、彼のことも。

「つーか話変わるけど、あいつ、今度こっち戻ってくるらしいぞ」
「あいつって」
「あいつしかいねえだろ。悠太」

 私の考えを読んだのかと思うくらい、タイムリーすぎるワードが店主の口から飛び出てきた。動揺しすぎてあやうくワインを溢すところだった。

「…………え、今海外でしょ?ここくるって?」
「ああ。アイツしばらくこっちで仕事だから寄るって連絡きた」
「え、やだ、最悪」
「ま、俺にとっては客だからさ。もし来たら鉢合わせないように連絡入れる」
「それはほんとに頼んだ」

 平静を装ってみたものの、久しぶりに店主の口からその名を聞いて、心が騒つくどころじゃなかった。名前を呼んだら本当に出てくるなんて、やっぱり私、恋に呪われてるのかも。

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