「ハイ、とりあえず冷えピタと解熱剤。あとスポドリと栄養ドリンク。ゼリー系の食べ物とカットフルーツ。と、もし腹減ってんなら俺んちあるもんで雑炊くらいなら作れるけど、どうする?」
「…………じゅうぶんです」

 ソファに転がっている私の横で、鉄朗くんが買ってきてくれた物たちをローテーブルに広げていく。ありがたい事この上ないのだが、身体がだるくて重くて頭が痛くて、素っ気ない返事をするのがやっとだった。絶対、また熱が上がってきている。
 だらけた部屋着のみっともない姿を見られたくなくて、ブランケットにぐるぐるとくるまっていた。顔だってガチのスッピンだし、たとえ彼氏だったとしても見られたくない。でも、しんどい時に誰かがそばに居てくれる安心感は底知れない。ついさっきまでは鉄朗くんにどんな顔をして会えばいいかわからなかったのに、いざここに戻ってきてくれた時、「よかった」ってホッとしてた。身体も、感情も、熱に侵されてぐちゃぐちゃだ。

「……かなりしんどそうだな。冷えピタはろうか?」
「…………いい、自分で、やる」

 ブランケットに隠れたまま、ローテーブルまでにゅ、と手を伸ばす。そのまま手探りで冷えピタの箱を探そうとしたけど、なかなか、まったく、ヒットしない。そんな私を鉄朗くんはしばらく何もせず見守ってくれていたが、箱がパタンと倒れたあたりでいよいよ痺れを切らしたのか、封をぺりぺりと捲る音がした。

「こんな時くらい甘えなさいよ」

 言いながら、鉄朗くんが私の方に寄ってきた。ブランケットに手をかけて、私の身包みを剥がそうとする。私はすかさず、くるりと反対側に身体を向けた。できるだけ鉄朗くんの視界に映る面積を狭くするため、手足を折り曲げ身体を小さく丸めた。私の無駄な抵抗を見てか、鉄朗くんは、ふっと鼻で息を吐いて笑っていた。

「そんなにいや?」
「…………いやだ、かお、見ないで」
「大丈夫。俺、目瞑っとくから」
「じゃあ、ちゃんと、はれないじゃん」
「あ、バレた?」

 甘やかす声。揶揄うような態度。いつも通りのそれに、心が揺れる。
 ただの隣人相手に、こんなに甲斐甲斐しく世話をしてくれている。鉄朗くんはこんなどうしようもない私を見捨てずにいてくれるのに、スッピンだとか部屋着だとか、そんな些細な事にこだわっている自分がとても小さい人間に思えてきて、だんだんと恥ずかしくなってきた。
 ……なんか、もういいや。全部諦めて、おもたい身体をゆっくりと起こしていく。鉄朗くんが私の背を支えてくれて、上半身をソファの背に預ける形で、体勢を整えた。

 ソファの前に座っている鉄朗くんと、同じ高さで目と目が合う。はっきり顔を合わせたのは、あの夜以来だ。

「顔真っ赤。かわいそうに」

 顔を見た瞬間。唇の動きを追った瞬間。心臓が、痙攣を起こしたのかと思った。でも、それはただの錯覚だ。呼吸が上手くできないのも、喉奥が痺れるようにあついのも、全部全部、熱のせいだと思い込んだ。
 鉄朗くんは私の額にそっと手をあててから、汗でしっとりと張り付いた前髪を避けてくれた。一つ一つの動作が、たまらなく優しかった。彼は、私の欲しいもの全てを与えてくれる。でも、最後の一つがどうしても手に入らない。私の方から手放したも同然だから。

「……ね、っ……ねえ……、っ」

 私は泣かない。男の前では絶対、泣いちゃいけないって決めたから。決壊しそうな寸前で、両手のひらで目を覆う。

「なんで、なにも、いわない、の」

 手から離れていく男に、追い縋るような真似も絶対にしない。そう決めた。決めたはずなのに。私の全てが、鉄朗くんの前ではあっけなく瓦解してゆく。

「あの夜のこと?」

 ピリピリと、シートを剥がす音がする。鉄朗くんはいま、どんな顔をしているのだろう。

 あのキスを、なかったことにしたいと言われたなら。私はそれをどう受け止めるのか。あの夜の彼は、なにを思いながら私のキスを受け入れたのか。
 たったキス一つで、こんなにも心を震わせる。彼の答えを聞くのが怖い。それでも気持ちを確かめたい。この矛盾した感情こそが恋なのだと、いくら恋愛オンチの私でも知っている。だから。


「なまえさんにとっては、あんなキス、どうってことない事かと思って」


 だから、そんな風に、言わないでほしかった。
 私が一番惨めになる言葉を、鉄朗くんは口にした。

 ああ恋愛は嫌い。恋愛はクソ。恋愛なんて二度としたくない。こんな気持ちになるんだから、やっぱりないほうがいいに決まってる。私はホンモノのバカだ。結局同じことを繰り返して、自分で自分を傷つけている。鉄朗くんはなにも悪くない。私がそういう生き方と振る舞いをしてきたのだから、今さら恋に縋ろうとしたって、上手くいくはずがない。
 納得して、わかっているのに。どうしたって溢れてくる。鉄朗くんへの想いがぐずぐずに溶けて、体内の水と混ざり合い、おおきな雫が手のひらの隙間を流れて、ぼたぼたとソファに落ちていく。この涙が枯れる頃には、鉄朗くんへの想いも消えてゆくのだろうか。大の大人が三歳児みたいに泣きじゃくって、優しい男を困らせている。熱だって、こんなに近くにいたら感染るかもしれないのに。ここまでの醜態を晒して迷惑をかけて、今後もう二度と、私は鉄朗くんに会う資格はない。

 スウェットの袖で必死になって涙を拭う。ごめんなさい、ごめんなさい、と気づけば声に出していた。鉄朗くんのような男の前で、泣くのは卑怯だ。涙で気を引きたいわけじゃない。ただ、心の整理がつかないだけ。だからあなたのせいじゃない。
 そう、私が次の言葉を紡ごうとしたとき。鉄朗くんは、私の手を掴み、身体まるごと引き寄せた。

「…………悪い。カマ、かけちまった」

 白いシャツ越しに香る、あの夜と同じ匂い。言葉だけじゃなく、身体に触れて、私の心をあたたかく包み込んでくれる。
 
「なまえさん、ごめん。泣かないで」

 赤子をあやすみたいだ。自分の中で昂っていた熱が、ゆるやかに流れて胸の奥まで満ちていく。その声は、まるで海のように広く穏やかな鉄朗くんの心の中に、すべてを曝け出してしまえば良いのだと、語りかけられているようだった。
  
「…………自分で、つきはなしたくせに、わたし、あのとき、ほしくなった」
「うん」
「あのキスで、昔すきだったひとのこと、思い出して、しまって」
「うん」
「てつろうくんのこと、ちゃんと、見えてたのに」
「……うん」
「ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
「わたしが、ろくでもないから」

 懺悔に等しい言葉を、鉄朗くんは頷きながら聞いてくれた。言い訳に聞こえるかも知れないけど、あの日の私の鉄朗くんへの気持ちは、確かに本物だった。駆け引きなんて一つもない。それを伝えたかった。こんなに稚拙な言葉でも、彼に伝わってくれるだろうか。

「いーや、それは違うね」

 否定の言葉はそれ一つだけだった。ちがわないよ、と首を振る。鉄朗くんはかすかに笑ったようだった。
 
「見る目ある、って俺言ったろ?」

 それは、鉄朗くんの生りを見定めた私に対して、彼がかけてくれた言葉だ。私の確固たる自信を、認めてくれたのだと思っていた。

「あれはなまえさんに対してじゃなく、俺が自分のこと、そう思って言ったんだよ」

 べつに難しいことを言われているわけじゃないのに、理解が追いつかなかった。

「なまえさんは俺が思った通りの、不器用で可愛くて、心根の優しい素敵な女性なんだって。俺はあのときもう確信してた」

 そんなに素敵な言葉を並べられても、それが自分のことだなんて受け止められるはずがない。たとえ本当にそう思ってくれていたのだとしても、あの夜、私が全てを台無しにした。

「……うそだ」
「嘘じゃない」
「もったいなさすぎる」
「何が」
「わたしに、鉄朗くんが」
「…………ほんとさ、なんでそんな買いかぶられてんのかね、俺は」

 自覚がないのは罪だ。私をこんな風になるまで優しく追い詰めておきながら、自分に対する評価を認めない。
 私と鉄朗くんではそもそも歩いてきた道が違うし、恋愛に対する考え方もおそらく違う。今は良くても、きっとどこかで食い違う。束の間の幸せに浸るだけなら、そもそもそんな幸せ知らなくていい。

「もっとまともな子がにあう」

 頑なになるのは、自分が傷つきたくないからだ。この先失望されるくらいなら、ずっとこのままでいい。鉄朗くんのほうこそ、私を買いかぶりすぎなのだ。そういう関係を望まないと言っておきながら、結局欲しくなって、無自覚のうちに手を出した。さらには自分の本心を、酔った勢いのキスでやっと自覚するような女だ。不器用で可愛いなんて、甘い言葉で称されるようなものじゃない。

 私をずっと抱きしめていたぬくもりが、するりと離れていく。涙でぼやけた視界に映る鉄朗くんは、今までに見たことがない、切羽詰まった顔をしていた。

「俺のこと、全部わかった風に決めつけんな」

 発する言葉は強いのに、声色だけはずっと変わらず、頑固な私を宥めるような優しさがあった。

「なまえさんが思ってるよりずっと、俺は打算で動いてんだよ」

 鉄朗くんが、ずいぶんと必死に訴えてくる。その言葉の意図がわからないほど、私は鈍い女じゃない。答えをもらったに等しいのに、私はまだ頑ななままでいたいらしい。

「なんで、わたし?」
「……そこまでいわせる?」
「……無意識に、べつの男の名前呼ぶような女だよ」

 受け入れてしまうのが怖い。鉄朗くんが私に抱く感情は、失望とは程遠いものだと知った今。ならば今度はどう逃げようかと考えている。あんな不実なキスが始まりで、本当に良いと思ってるのだろうか。鉄朗くんがわからない。私の見る目が、そもそも、誤っていたとでもいうのだろうか。

「じゃあ、それいま上書きしていい?」

 頬に冷たい手が触れる。至近距離で目と目があう。彼の心を知りたくて、瞳の奥をのぞこうとした。いちど瞬きをした瞬間には、もう唇が触れていた。
 小鳥の戯れのような柔らかなキス。決してそれ以上深めようとはせず、唇のカタチを確かめるみたいに触れ合うだけ。あの夜の私を真似ているのだとしたら、鉄朗くんは相当タチが悪い。ちゅ、ちゅ、と愛らしいリップ音。鉄朗くんの目が緩やかにたわんでゆく。

「……………熱、うつるよ」
「うつせばいい」

 たずねておきながら、もう止まることは出来ないとわかっていた。鉄朗くんの親指が、私の下唇をふに、と撫でる。誘われていると理解したと同時に、その唇を、私の方から塞ぎにかかった。

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