第24話


 その後の授業はほとんど考え事をしていたら終わった。ホームルームのあと、一目散に部室へ向かう。最近は備品の発注や部費の管理、部室ロッカーの整理、ユニフォームのクリーニング、合宿所の部屋割り等の調整、合宿中の食事の献立や食料の準備等々、裏方の仕事ばかりでジャージに袖を通してすらいなかった。部室で着替えている最中、後からきた仁花ちゃんに今日の部活中の役割分担について説明した。縁下くんから聞いた最近の部活の雰囲気についても仁花ちゃんにたずねてみたら、とたんに顔を真っ青にして俯いてしまった。

「……す、す、すみません!はやくなまえ先輩にも相談しなきゃと思ってたんですが、なかなか、あの、タイミングがなくて」
「ううん。私こそ皆のこと任せっきりしててごめんね。まさかこんな早くに問題が起きちゃうなんて思ってなかったから」
「い、い、いえ!なまえ先輩、部活のこともそうだし、三年生だから受験勉強とかでもお忙しいかとおもって、あと、なまえ先輩最近お顔の色も悪くてお疲れなのかと思い……わたしが勝手に遠慮して話せなくて……ほ、ほんとにすびばぜん!!わたしがバカでのろまで頼りないばっかりに!!!」
「そ、そんな……」

 仁花ちゃんにまでそんな風に気を遣われていたなんて、まさか、思ってもみなかった。顔色が悪いのは、中間テストの勉強を普段よりも前倒しでやっており、毎日夜遅くまで起きているせいである。つまりただの寝不足だ。いちおう私も三年生という自覚があるので、勉強についてもいよいよ本腰を入れ始めているところである。今度のテストで万が一赤点なんかとってみようものなら、それこそ部活に影響が出てしまう。一、二年の時は本当に気楽でよかった。
 ただ、そのせいで仁花ちゃんに余計な心配をかけてしまった。相談したくても出来ない雰囲気を出していたのだとしたら、それは私に百パーセント非がある。ほぼ直角に腰を折り曲げて頭を下げる仁花ちゃんを無理やり起こして、顔を上げさせる。バカでのろまで頼りないのは、私のほうだ。

「心配かけてごめんね。でもお願いだから、遠慮なんてしないで。私もさ、まだまだ頼りないかもしれないけど、困ったことがあればなんでも話してほしい」
「そんな!頼りないなんてこと!」
「うん。だからさ、みんなで一緒に頑張ろ?なんたって今はマネージャーが五人もいるんだからさ」

 出来ること、出来ないこと。今は出来なくても、これから出来るようになること。なんたってまだ始まったばかりなのだから、全部すぐに上手くいくはずなんてない。だからこそ、会話によるコミュニケーションはとても大事だ。縁下くんが教えてくれなきゃ、私は今の部活の現状を知らなかった。仁花ちゃんが話してくれなきゃ、私は彼女に気を遣われていたことなんてわからなかった。

「秋倉さんのこともね、大丈夫だから」

 仁花ちゃんはその名前を聞いて、ぴくりと肩を揺らした。もちろん、上手くいく根拠はない。でも、話してみなければわからない。私からきちんと声をかけて、それでも関係がギクシャクして部活がままならないようなら、それはもう私の手に負えない。縁下くんの言うように、第三者の介入が必要になる案件だ。私情を持ち込み人に迷惑をかけて、部活にも影響が出てしまうようなら、早いうちから無理やりにでも杭を打たねばならない。縁下くんのおかげで、私にもそれくらいの覚悟はできた。私たち三年にとっては、大事な最後の一年なのだ。

「……あ、あの、なまえ先輩」

 すると、仁花ちゃんがおずおずと口を開いた。さっそく何か相談があるのかと思い、髪を後ろで一つに纏めながら、仁花ちゃんの言葉を待つ。

「あの、実はわたし、秋倉さんに色々と聞かれてしまい……」
「…………ん?」
「その、影山くんが、なまえ先輩のことを、その」
「あー…………ちょっと、あの、待って」

 その先は、何となく聞きたくなかった。遠慮なく言ってといったそばから、これである。まったくもって、嫌な予感しかしない。

「ご、ごご、ごめんなさい!わたし、嘘がつけなくて……その、秋倉さんの気迫に、負けて、しまい」
「うん、まぁ、そうだよね。そうかぁ」

 しどろもどろになる仁花ちゃんの反応を見て、全てを悟った。まあ、嘘を吐いたところでいずれはバレることだろうし、嘘を吐いた仁花ちゃんの印象が悪くなるのは一番良くない。だからその対応で、正しい。正しいけれども、だ。
 あはは、と乾いた笑みがでた。秋倉さんにどう話すかを色々考えてきたというのに、今明らかになった事実により、全てが白紙に戻ってしまった。彼女は、一体どこまで知っているのだろう。影山くんが私を……好き、くらいなら、まだ切り抜けられそう。でも、影山くんが私に告白をした事実と、それを保留にし続けている私の対応までご存知なのだとしたら。私に対する秋倉さんの対応がアレなのも、納得せざるを得ない。だって自分の好きな人が、そんな身勝手な女に振り回されているなんて知ったら、ムカついても仕方がないだろう。しかも相手はあのプライドの高そうな秋倉さんだ。何で私なんかを影山くんが? と甚だ疑問に思っているに違いない。

 これはもう、仁花ちゃんにことの真相を詳しくたずねた方が早い。そう思い、口を開いた。

「あの、仁花ちゃ」
「お疲れ様です。みょうじ先輩、谷地先輩」

 ガチャ、と部室の扉が開く音。
 一年生の春はホームルームが長引くことがほとんどだから、完全に油断していた。

「あ、秋倉さん、……ずいぶん早いんだね」
「ああ。ホームルーム抜けてきたんです。今日は委員会決めだったんですけど、私何でもいいので適当に書いてもらったんです。早く部活行きたいし」

 なんと。一年生の時の私とまったく同じことをしていた。おかげで私は一番不人気な美化委員をする羽目になったので、多分彼女もそうなるだろう。ほんのちょびっとだけ親近感が湧いて「そうなんだ」と笑いかければ、秋倉さんは「失礼します」と言って部室内に入ってきた。相変わらずクールである。
 秋倉さんの登場により、部室内の空気ががらっと変わった。ただ、ここで怖気づいてはいけないとわかっている。私は仮にも三年生で、彼女の先輩なのだから、毅然とした態度でいれば良いのだ。

「……あ、今日は私が仁花ちゃんの代わりに練習の方いくから、よろしくね」
「そうなんですね。わかりました」

 ジャージに着替えている最中の、淡々とした返事だった。別にどうでも構わない、と言われているようだった。こう、秋倉さんはクールなんだけど、同じクールでも潔子さんとはまた違った印象がある。花に例えるなら潔子さんがカラーの花、秋倉さんは薔薇の花、といった感じだろうか。どちらにせよ、その堂々とした立ち振る舞いはとても入学したばかりの一年生とは思えない。

「あ、そういえば私、みょうじ先輩に聞きたいことがあって」

 ふと、髪を高い位置で結び直している秋倉さんが、横目で私を捉えた。じ、と何かを推し量るような目。私は彼女のこの視線が、ものすごく苦手だ。そして多分、これから彼女に聞かれることも、ほのぼのとした内容の世間話とかじゃない。

「みょうじ先輩は、影山先輩と付き合っているんですか?」

 ──まあ、これだけ単刀直入に聞かれるのは、いっそ清々しい。

 そう、強がってはみたものの、やっぱり動揺を隠しきれなかった。は、と目を見開いて固まってしまう。ある程度予想していたことなのに、敵意丸出しの人間を前にすると、ノミの心臓は怯んでしまう。

「…………い、いいえ」
「へえ、やっぱりそうなんですね」

 ふふ、と微笑まれた。「やっぱり」とは。
 ぴく、と目端が震えた。無意識だった。喉の奥のあたりがヒリヒリする。手のひらが熱くなって、わずかに震えている。ああ、もしかして、この感じは。

「じゃあみょうじ先輩は、影山先輩のことが好きなんですか?」
「…………それさ、今話さなきゃダメかな?」
「いいえ? でも、否定はしないんですね」

 彼女は全く怯まない。それどころか、勝ち誇ったように笑んでいる。
 ふつふつと、込み上げてくる。私が普段、あまり持つことのない感情だ。自分の表情がサッと冷えていくのを感じた。口元の筋肉に力が入らない。完全に、無だ。隣にいる仁花ちゃんが、オロオロと何やら挙動不審に震えている。

「……あとさ、部活中はそういうの、やめてほしいかな」
「そういうのって?」
「私を避けたり、じっと見つめてきたり」
「え?私、そんなつもりはなかったんですけど」

 わざとらしく目をまんまるにして、彼女はおどけて見せた。ちなみに、こんなことは言う予定じゃなかった。彼女への不満が無意識に、スラスラと、口から出てきてしまったのだ。

「先輩、気にしすぎなんじゃないですか?」
「…………そっかぁ」

 にっこり。と微笑み返した。仁花ちゃんが「ひぃ」と悲鳴を上げている。

 ──完全に、私の負けだ。
 彼女を説得して関係を修復するどころか、逆に煽られて、怒りの感情が沸騰し、もうそんな気が失せてしまった。影山くんが好きとか付き合ってるだとか、それが一体何なのか。それは部活に関係があることなのか。私が影山くんを好きだと言ったとして、じゃあ秋倉さんはどうするつもりなのだろうか。
 こんな感情に、いつまでも振り回されたくない。影山くんのことを想う気持ちはあれど、私はそれ以上に、烏野のバレー部を愛している。最近は元彼や影山くんとの事で皆に心配をかけてしまったこともあったけど、部活中はずっと必死にやってきた。影山くんの部活後練習に付き合うのだって、何より烏野のバレー部がより強くなってほしいという願いが根底にある。
 でも、今の秋倉さんの目に映っているのは、影山飛雄という人間ただ一人だ。

「あと、私、影山先輩のこと諦めませんから」

 宣戦布告。
 あと、これと似たセリフ、どっかで聞いたことがある。

「わかったよ。でも、部活に私情はもちこまないでね?」
「先輩こそ、お願いしますね」

 ピリピリ程度の空気感が、絶対零度の空気に変わる。私たちは互いに感情の失せた目で笑い合っていた。ただ、いっそのこと、これで良い気がした。
 部活に私情は持ち込まない。それだけ約束してくれるのなら、あとはどうしてもらっても良い。私が何より守り支えたいのは、烏野のバレー部だ。そこに、私の好きな影山くんのバレーがある。だから、絶対に負けない。

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