「ごちそうさま」
 きっちりと手の平を合わせ、瞼を伏せてこくん、と一礼をする。ジャンクフード相手にも随分とお行儀のよろしいことで。三途はいつもと変わらぬ動作で食を終えたなまえを、頬杖をついてテーブル越しに眺めていた。
 現在時刻は深夜二時。こんな時間にそんなものを食おうといったら、女は普通、罪悪感が湧くとか肌が荒れるとかなんたらと言って嫌厭しそうなものだが、なまえはいつもむしゃむしゃと幸せそうにソイツらを頬張っている。美容や健康に全く興味が無いというならまだしも、どの角度から見たってその肌はつるつると柔らかくしなやかであるし、蹴ったら折れそうなくらい細い腰も足も腕も、コイツは一体食ったものをどこに溜め込んでいるんだと疑うほどである。まあ、不健康には違いないが。
 三途はなまえの生態をいまだ理解し切れてはいない。確か、甘いものは苦手で、好物は酒とマックのポテトM。朝と昼は食べないことが殆どで、夜は腹が減ったら何かしら食っているらしいが、三途はなまえがマック以外の食事をするところをそういえば見たことがない。毎日顔を見に来てはいるが、それを買うのは最初に決めた通り月、水、金の週三日だ。それ以外の日、大抵なまえはベッドに入る直前の格好で三途を玄関で出迎えて、眠たそうに目を擦りながら「はるちよくん今日もごくろうさまです」などとふにゃふにゃもつれた口で言ってくる。三途はもはや自分が何のために毎日ここに来ているのかすら分からなかったが、かれこれもう一年もそんなことをしていれば、何も考えなくとも自然に足が向かうようになってしまった。慣れというのは恐ろしい。
 なまえの顔を見て、ベッドまでその手を引きずって寝かしつけて、首領にメールで「今寝ました」と業務報告を入れてから家を出る。監視カメラがあるのに報告を入れる必要があるのかどうかも謎だが、首領の命令に疑問を持つことは許されない。言われた通りのことを完璧にやる。それが組織のナンバーツーとしての務めだ。
 実質、やっていることはただの子守だが。

「……あ? つーかお前、全然食ってねえじゃねーか」

 まあ結局、コイツについて理解できているのは食に関することくらいだな。と三途はふと、その赤いパッケージに目をやった。すると、そこにはまだ半分ほど中身が残っていて、大抵いつも残さず食うのに珍しいこともあるもんだと目を丸めた。

「いいの。朝たべるから捨てないでね」
「ポテト干からびんぞ」
「干からびてもおいしいよ」
「んなもん食うんじゃねえ」
「んー……」
「…………お前、具合でも悪いのか」

 大した会話はしていないものの、なまえの声にいつものハリがないことに気づく。三途は深く考える前にそう声をかけていた。別に心配に思って聞いたわけでも、何か確信を持っていたわけでもない。ただ、純粋に疑問を感じて投げた言葉だった。
 なまえはそれを真正面から綺麗に受け止めたように見えた。赤いパッケージをぺこんと半分に折り曲げて、テーブルの端に寄せる。紙ナプキンをくるくると小さくたたみ、手のひらの中に握り込む。そのゆったりとした動作を眺めながら、三途はなまえの反応を待つ。

「もう寝る」
「…………あぁ?」

 しかし、返ってきたそれは、三途が思っていたものとは全く異なっていた。なまえは見事に三途の問いかけをスルーして、それどころか、視線すらよこさず三途の横を通り過ぎ、洗面所の方に向かっていったのだ。
 ……これは、かなりあからさまな攻撃だ。三途は今のでひとつ確信したことがある。なまえは今、明らかに機嫌が悪い。顔には出さなかったが、いよいよ態度に出してきた。一体いつから、なにが原因でそうなったかは知る由もないが、黙って見過ごすことは出来ない。無視とは良い度胸だこのクソアマ。三途は苛立ちを隠さず席を立ち、なまえの後を追う。

「おい」
「……」
「こら」
「……」
「無視かオイ」
「……」
「テメェなんかとか言えや」

 無言で洗面所に立ち、歯ブラシを手に取るなまえの背に声を投げる。が、なまえは無視を決め込んだようで、三途の声には答えない。その態度に三途の苛立ちはピークを迎えたが、声を荒げることはまあ、しないというか出来ない。それに、なまえがここまでハッキリと拒絶を示すときは、逆に構ってほしい時だと知っている。本当にややこしい女だ。放置したらどうせ泣く癖に、鏡越しに「うるさい」みたいな目で睨んでくる。ご機嫌な時もそれはそれで面倒くさいが、それと同じくらい、不機嫌なときもクソ厄介だ。
 三途はふつふつと湧いてくる怒りを大きな溜め息と共に吐き流して、なんとか平静を保とうとする。三途自身に非がなくとも、この家ではなまえが絶対的なルールだ。我儘し放題のお姫様のバックには、常に神様の目が光っている。ここで三途がなまえに吠えても無駄だし、状況はもっと悪化するだろう。大変に不本意であったが、三途には元よりこのクソアマ姫のご機嫌取りに付き合う道しかないのだ。

「…………なまえ」

 とはいえ、まあ、なんてことはない。
 通称バックハグと呼ばれる体制でなまえの身体に擦り寄って、耳裏で低くその名を呼ぶ。客観視すれば鳥肌モノの行為ではあるが、なまえには一番これが効く。過去一年の調査結果により三途はそう心得ていた。今しがた口に含もうとしていた歯ブラシをからん、と洗面台の中に落とし、なまえはぎゅ、と身を縮こませた。三途は「ハイ楽勝」と心の中で呟く。巻きつけた手でついでに薄っぺらい腹をあやしてやれば、なまえは悩ましげな表情を浮かべた。

「うぅ……」
「なンだよ」
「……ずるい」
「あーハイハイ。いーから機嫌直せ。めんどくせぇんだよ」

 耳裏からうなじにかけてを鼻先で甘えるように擽れば、なまえはいよいよ目を蕩けさせた。厄介な女だけれど、扱い方は至極単純だ。むしろそうじゃなかったら、三途はとっくの昔になまえの世話を投げ出していたかもしれない。女が自分に懐いているからこそ、しょうがねえなと甘やかしてしまう。しかもそれが自分の仕事だと理由付けしてしまえるのだから、三途としては余計にやり易かった。

「もーほんとやだ」
「何」
「やだやだむかつく」
「だから何が」

 ぐずぐずと駄々をこねるように文句を連ねるなまえに、三途は痺れを切らさぬよう自制した。なまえの肩に顎を乗せながら、プクリと膨らんだ両頬を親指と人差し指でグニグニと挟む。なまえは口を尖らせて、やっぱり三途を睨んでいた。何やら原因は自分にあるようだが、三途にはさっぱり心当たりがない。「早よ話せ」とばかりにじっとりと目を細めれば、なまえはようやく観念したのか、はぁ、と陰鬱な溜息を吐いた。

「……春千夜くん、気づいてないの?それともわざとなの?」
「はぁ?」
「首についてるやつ」

 あ?首? と三途は怪訝な顔をしたが、鏡に映る自分の姿を眺めて、「あ、」と声が漏れた。いや、これは別に気づいてなかったわけじゃない。大して気にも留めていなかっただけだ。そんなものを指して、なまえはどうやら機嫌を悪くしているらしい。ぎん! と目を鋭くするなまえを見やり、三途は呆気に取られた。

「春千夜くんも、そんな隙見せるんだね」
「…………」
「……ていうかその女の子が一番むかつく。なにアピールなの? ビジネスセックスでキスマつけるとか意味わかんない。ヒジョーシキすぎ」
「…………」
「しかもそんな見えやすいとこ。ケンカうってるとしか思えないし。春千夜くんはなんで何も言わないの」
「……………っく、」
「……っなに?! 笑い事じゃないし!なんで、なんで、そんなの見せるの!てゆーか香水くさいし近寄らないでよばか!」
「あー……お前、ほんと、」
「さわるなばか!不潔!」

 さて。醜い嫉妬心に塗れた女を見ている時、かつてこんなに愉快だったことはあっただろうか。三途は込み上げてくる笑いを抑えられず、ふるふると肩を震わせている。さっきまであんなにしゅんとしていたなまえが一気に騒ぎ出して暴れても、三途は腹に巻きつけた腕を離さないどころかさらに強く引き寄せて、胸の中になまえの身体を閉じ込めた。

「かわいーなァ、なまえチャンは」

 可愛いものほど虐めたくなるというのは、男の性においては度々あることだ。なまえが拒否すればするほど面白おかしくて、三途は一気にご機嫌になった。もちろんなまえもそれに気づき、逆に機嫌を急降下させていく。

「……っなに!もしかしてわざと?」
「ンー? だったらどーすんの」
「っ、ひどい!もうマイキーにいうから!」
「"春千夜くんに他の女とセックスさせないで"って? 愛されてんなァ俺」
「っ〜〜〜!ちが、」
「つーかお前さ、何を嫉妬する必要があんの」

 胸に抱きこんでいるなまえの顔を上から覗き込むように、三途は首を前に擡げた。三途の傷んだ髪がなまえの頬に垂れ落ちて、ちくちくと肌を刺している。

「……嫉妬じゃない。ムカつくだけだもん」
「それを嫉妬っつーんだよバカ」

 至近距離で互いの目線が絡む。なまえの目には薄らと膜が張っており、後一押しで危険水域に達しそうだ。三途はそれが万が一にも溢れ落ちないように、指の腹でなまえの目元を撫でる。
 もともと、自分が気に入られているという自覚はあった。なまえは元より感情を隠すようなタイプの人間ではなかったが、一度身体を重ねてからはそれがより増したというか、遠慮が一切無くなったというか。好きだ愛してるだなんだと面倒くさい事を言葉にすることはなくとも、此方にはわかるように体現してくる。何を求めてくるわけでもなく、ただ一方的に。だからこそ、今回のように直接不満を口に出すケースは稀だった。

「なぁ、なまえ。一体何がご不満だ?」

 ある程度の我儘なら聞いてやれる。だが、今後の仕事に関わる事であればその限りではない。今回の女はなまえの言うようにビジネスの一環でそういう関係になったものに過ぎないが、別に、三途は自らの意思で女を抱く事だってままある。なまえとセックスしようが何だろうが、そのスタンスは変わらないし変えるつもりもない。……首領からの命令であれば、確かに聞かざるを得ないが。そこまでして、なまえが本気で自分に枷をかけるとも思えない。先のアレは口が滑っただけだろう。むしろそうであると信じたい。

 元よりなまえという女は、三途自ら手を出して良いような女ではないのだ。なまえは首領の大切な女。自分となまえは間接的な主従の上に成り立つ関係。それ以上も、それ以下にもなり得ない。

「毎日顔見にきてやって、寝かしつけて、マック買ってやって、飯食い終わるまで待って、髪乾かしてやって、仕事中も三分以内に折電して、女抱いてる時もテメェのスマホが鳴ったら切り上げて……ぶっ殺される覚悟でお前とセックスして、オネダリも聞いてやって、なぁ? 」

 なまえの願いを叶えてやるために、これまでいくらでも胸糞悪い思いをしてきた。それでいて尚且つ、口を出してくるというならば。三途にも思うことはある。あくまで口調は穏やかにつとめたが、内心、熱が篭りっぱなしだ。可愛い嫉妬で済めばそれでいい。でも、もし、そうでないのなら。

「ここにも沢山、出してやったろ」

 なまえの下腹部を撫でながら、三途は一際甘く囁いた。なまえの瞳がおおきく揺れる。

「んで、あとは何が足んねえの?」

 返答次第では、今後の態度を改める必要があった。これ以上なまえを甘やかすというなら、三途は自身の領域を侵されるハメになる。三途はそれを良しとしない。女に束縛されるのだけはごめんだ。しかもそれが、決して自分のモノには出来ない女だとわかっていれば尚更のこと。
 なまえは、三途の腕の中で身を捩った。真正面に向き直り、怯むことなく真っ直ぐに、三途の顔を見上げて言う。
 
「……ううん、いらないよ」

 まあ、あれだけ我儘を言っておいて。今更その言葉もどうかとは思う。しかし、まだ何が言いたげななまえに、三途は静かに耳を傾けた。

「でも、春千夜くん」

 なまえの手が、三途の首筋の痕に触れた。冷えた指先に施されたネイルが、三途の皮膚に柔く食い込む。ぱた、と長い睫毛が瞬いて、熱っぽく弛む瞳の中に、無表情の三途が映り込む。

「誰のものにもならないで欲しいの」

 どぼん。ひどく重たい音を立てて、その言葉が胸の奥に沈んだ。それはただの願望であり、己を縛るつもりもないのだろう。なまえはそれきり何も言わず、三途の胸に擦り寄り頭を埋めて甘えた。

 こんなのは、いつもの我儘の延長だ。束縛というほどでもない。心の中でそう結論付けて、理解しているつもりなのに、どうしてこんなに、触れられた首筋が疼くのか。言葉など忘れてしまえば無意味だし、契りをかわしたつもりもない。それに、一方的に思いを告げるだけで、なまえは満足したようだった。三途の返事を待つこともなく、眠い眠いと目を擦り、いつものように惚けた顔をしていやがる。
 ──ああさすが、あの人の幼馴染というだけのことはある。鎖などなくとも、その目に見つめられれば逃げられない。本人にそのつもりがなくたって、相手の心の中にずっと居座り続ける。思わせぶりもいいとこで、此方がその手を取ろうとすれば、ひらりとかわされてしまうような軽薄ささえ感じられる。

 深く入れ込んでしまえば終わりだ。三途は、胸の中に沈んだなまえの言葉を、取り除きたくて仕方がなかった。無防備すぎた自分を後悔し喘いでも、過去はもう取り戻せない。優位に立っていたつもりの自分が酷く情けなくなり、三途は苛立たしげに舌打ちをした。

「…………おい、歯磨きは」
「はるちよくんおねがい」

 こんなクソアマに振り回されてやるほど、自分はお優しい人間ではなかったはずだ。しかし、三途は今日も今日とて、なまえの願いを叶えてやるしかないのである。



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